奥会津・昭和村探訪記
2018年6月9日
午前中まで本を読む。自分史および個人史の先行研究と理論をまとめている。
個人の人生や歴史を大きな歴史を、「全体」とされる歴史に位置づけるのではないあり方で、読み解くことはできないか?
あるいは、歴史家のもつ「全体」意識の構築のされ方がいかなるものかを論証することを目指している。
お昼前に車で郡山から須賀川を通り、天栄村を抜け、南会津町に到着。塔のへつり近くのセブンイレブンで休憩がてら、コーヒーを飲み、周辺マップを見る。
「旧会津郡役所」という明治期における洋風建築に興味をひかれたので、寄ってみる。
薄緑色が綺麗な堂々たる建築だ。館内は写真撮影が禁じられているので外観と周辺地図だけ撮影する。
入館すると、受付の方が建物の説明はいりますか?と尋ねてきたので思わずお願いする。彼女はよどみなく建物の成り立ちから、会津田島の江戸時代からの歴史を説明する。説明に慣れているのだろう。他に施設に常駐の職員もいないようであるので、受付の方が館内の説明の役も担っていることがわかる。
中は予想よりも広く、展示もおもしろい。明治時代にこのような絢爛な役所を設立することは、結果的に地元の人々の出資と労役に依存することになる。それにも関わらず、手間のかかる洋風の建物を建てることに、新しい時代の象徴たることを願ったのだろうか。
昭和期に新しい役所が設立されることになると、この洋館は取り壊されることになったのだが、地元住民の要請できゅうきょ保存されることになったという。もちろんそのためにはお金がかかる。しかし、この洋館はすでに地元の象徴として機能していたのだろう。現在の新役所の場所から移動して保存することになった。
30分ほどで見学を終え、昭和村を目指す。
午後2時から、昭和村公民館で久島桃代さん(お茶の水女女子大 特別研究員・博士)による昭和学講座「農村に移住する女性と身体化される場所 福島県「織姫」の語りから」を受講する。参加者は自由で、私の他にも村外から参加された方が何人かいた。
私の理解したところ、久島さんは「織姫」としてからむし織りの技術を学ぶために昭和村に移住した若い女性(独身というニュアンスを含む)がどのようにその経験を身体化するか、その過程でいかなる関係を住民や土地と築くか、織姫としての活動が移住者のみならず土地の住民にどのような影響をもたらすかについて論じている。
久島さんの独創的な点は、移住を完了した女性のみならず、織姫の勤めを辞し、昭和村を離れた人々にも着目していることだろう。そうした人々もまた「身体化」された経験をもとにからむしや自然に対して新たな世界観を構築していることを指摘する。そうであるからこそ、単に織姫の活動や経験だけを対象とするのではなく、「身体化」という概念を通じで、身体化された経験がその後の人生に及ぼす影響を視野に入れているのである。
織姫が身体化の結果を言語化することは難しい。言語化するためには自らの経験を対象化しなければならないが、経験が自分の身体と深く結びつくとき、経験のみを取り出して言葉で表現することができなくなるからだ。ゆえに久島さんはインタビューという調査方法ではなく、自ら昭和村に「住み込み」、季節の変化を感じながら、織姫の方たちと同じ空間で、同じ時間を過ごすことで、言語化できない何かをすくいとろうとしたと話す。
例えば、織姫の方達はからむしの作業に込められた精神性を学ぶことで、日々の生活の姿勢が変化するという。からむしに触れる手つきが代わり、からむしを擬人化するかのごとく「傷つけないように」扱うのだとされる。
織姫はからむしが趣味や収入を得るための材料以上のものにみえ、からむしを生産した農家の方の顔が自然と浮かび上がるようになるとされる。これは新たな視点の獲得であり、世界観の刷新だと思われる。
昭和村に移住した経験を持つ織姫にとって、その時間はその後も昭和村にとどまるにせよ、離れるにせよ、いかなる意味をもつのか。
「限られた時間(いずれ去ることを予期する時間)」をある土地で過ごすことになったとき、人々はどのような生活を営むのだろうか。そのような土地や場所を「動き続ける人を見る」ことが久島さんの研究の根本にある。
私の久島さんの研究に対する問いは次の通りである。ある土地で過ごした経験を「身体化」した人は新たな視点を獲得し、世界観を更新する。それは詩的な表現になってしまうが、「新たな身体」、「新たな自分」になったということではないだろうか。そのように考えるならば、自己の変化を元織姫の方達はどのように受け止めるのか。動き続ける人々にとって、一つの土地で過ごした後も、人生は続いてゆく。そうであれば、「その後の人生」を過去の経験に即してどのように考えていくかが、織姫のみならず移動が容易になった近現代において、重要な問いとして浮かび上がると私は考えている。
昭和学を終えたあと、昭和村の道の駅によると、昭和村の知り合いと再会した。一年間の間にそれぞれ立場が変わったことに驚く。時間の密度は人によって異なることを再確認した。
その後のイベントを一緒に行く予定の2人と道の駅で合流できたが、時間をもてあましたので、しらかば荘の日帰り温泉に行く。良い湯ざんす。
お風呂上りに、ファーマーズ・カフェ大芦屋でなかよしバンドのコンサートを見る。三島町でお世話になった方がバンドのメンバーを務めており、彼が昭和村でどのようなコミュニティを築いているのかに興味があった。
なかよしバンドはすでに38年?ほど活動を続けているという。
このバンドが演奏する全ての曲はメンバーの自作である。自作自演というわけだ。
昭和村という土地で、大芦屋というカフェで、このようなバンドが存在し、演奏することについて考える。久島さんの「移動する人々」とは対照的に、「土地に留まり続ける人々」である。彼らの演奏を目的に、20人ほどの人々が肩を寄せて手を鳴らし、ときには一緒に歌う。曲は季節の変化や、時の移ろいをテーマにするものが多い。だが、身体は年をとり、生活も変化し、土地そのものもまた変わっていくなかで、同じメンバーで同じ土地で歌い続ける人がいる。
やがて移動するという比喩は、人間の生そのものにあてはまる。
われわれはいつか必ず死ぬ。この世を去る。
しかしそのときまでに、自分の身体をどこかの土地に預けて暮らしていく。
そうした人々の日々の暮らしを癒す歌を、なかよしバンドは歌い上げる。
少なくとも、そのようなバンドがある土地は、ない土地よりも幸福そうに、私の目には映るのだ。
小田嶋隆『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』ミシマ社, 2018年
書評サイト「本が好き!」に書いたものを転載します。
『小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」: 世間に転がる意味不明』を愛読しているので、本書も出版時から気になっており、本日ようやく手にとって読む。
「ア・ピース・オブ・警句」といい、『上を向いてアルコール』といい、目にした瞬間クスリとくるタイトルが良い。なんとも小田嶋さんらしい。そのセンスは章題にいかんなく発揮されているので、下に引用する。
①アル中に理由なし
②オレはアル中じゃない
③そして金と人が去った
④酒と創作
⑤「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
⑥飲まない生活
⑦アル中予備軍たちへ
⑧アルコール依存症に代わる新たな脅威
このように並べて書くと、本書が書こうとする内容が一目瞭然である。
小田嶋さんのすごいところはこういうところだと思う。
彼が書く文章、言葉遣いは非常に明快である。
このことは、彼が書く文章が簡略であるということではない。
彼の文章を読んでいると、「確かにそういうことってある」、「なるほどこのことはこういう言葉で言い表せるのか」ということにたびたび気がつく。つまり、あまり言葉として表現されないが、日々の生活で感じている、言葉にならない何かもやもやしたものを、明快に説明する力を持っているのだ。
だからこそ、彼のコラムを読むと、この出来事はこのように読み解けるのかと感心する。
実際私はこの本を2、3時間ほどで読み終えたが、それぞれの章ごとに「アル中」ではない私にとっても共感し、人生について再考を促す文と出会った。
本書は著者の「アル中」の体験をつづっているが、同時に人はなぜアル中のような明らかな症状にかかってしまうのか、われわれの日常生活の中にいかにアル中のような中毒に陥る契機が含まれているか、そして一度発症してしまってから抜け出せなくなるのはなぜかについて話を展開している。
そうであるならば、本書はアル中を例にしながら、人間の弱さや、弱さへの弁解のしかた、そして何かを喪失した後にどうにかして人生を再設計しなければならない「その後の生」のあり方について含蓄に富む示唆を与えていることになる。入り口は広く、奥行きは深い良書である。
大きな枠組みから言えば、われわれは結局のところ何かに依存していて、その依存先を都合次第で乗り換えているということですよ(141頁)
健全な人なら、なるほど確かに人は何かに依存しているのかもしれない。ならば、なぜ依存の対象を酒にしてしまうのか?身体をむしばむことはわかりきっているではないか、と唱えるかもしれない。
そういえる人は不幸にも質があることを理解できていないように見える。そして、依存は不可避の事柄であって、誰しも選んで何かに依存しているわけではない。人生が多様であるように、その人が抱えている問題も多様なのであって、依存先もまたしかりである。
小説家の桜庭一樹が『桜庭一樹~物語る少女と野獣~』(角川書店, 2008年)で次のような発言をしている。
今日いちばん好きなT シャツを着てきたんです。「ニコチン!ウォッカ!カフェイン!」と書いてある。そのココロは小説というものは本来道徳の教科書でも、声に出して読みたいものでも、子供に読ませたいものでもなくて、タバコ好きの人にとってのニコチン、刺激物フェチにとってのカフェインのように、常習性があって体に悪いもので、でもだからこそ人を絶望から救うことができるんじゃないの、ということなんです。
身体をそこなう毒だからこそ、救いになるという悲しい依存をしている人も世の中にはいるのだろう。まあ、小田嶋さんは自分も含めた「アル中」をクズ共と表現しているのだが。
しかし、人生にはお酒のように、あるいは「アメリカで一発当ててビッグになるぜ!」といった逃避への思考も必要である。そうした思考が馬鹿げていて非現実的なことを認めたうえで、ではその逃避の思考を持たないことは幸福であるといえるのか、楽に生きられるといえるのか、と考えてみると個人的にはそうではないと思う。
実際にアメリカがすべての望みを叶えてくれる夢の国であるのかどうかはわかりません。でも、「アメリカンドリーム」という言葉の実質的な意味はそういうことですよ。今はそのアメリカの物語は、ずいぶんスケールダウンしてしまいました。たぶん、今の若い人たちに言わせれば、「アメリカに行けばなんとかなる、って馬鹿じゃないっすか」、でしょ?まあ、完全に正しいけど。でも、そんなに正しくて、キミたちは苦しくないのか、って私なんかは思いますね。
健全に正しく生きることだって十分に苦しい。息が詰まる。常に監視されているように気持ちになる。落ち着かない。だから人はそのはけ口を求めて、何かに依存するのでしょう?
しかし、依存した後も人生は続く。あるいは依存が途切れてもなお人生は続く。
それがたとえアル中としての生活という有害きわまりない依存であったとしても、それが途切れてしまえば、何かを失うのだ。アル中から抜け出したとしても、それは元の生活に戻るということではなく、新たな酒のない人生を再設計するという身体的にも知的にも負担が大きい作業を強いられる。そんな人生に人は耐えられるだろうか。
とすると、減量はとりあえずできたとして、人はその減量中のニセモノの人生にどこまで耐え続けることができるのか、というのが次の課題になります。そんなもの、耐えられっこないじゃないですか。とにかく四六時中カロリーを意識しつつ、「オレは我慢してる」ということを常に自覚しながら日々を暮らしていく生き方は、あまりにもくだらない。
何かがある生活、それによって成立していた生活がすでに手が届かないものとなり、新たな生活を設計する。それは酒のある生活であったり、若さがまだある生活であったり、健康である生活だったりする。すなわち、だれもが様々な喪失を経験しながら、そのときどきの自分の環境や状況にフィットする生活を見出さなければならない。
だからこそ本書は、ある意味では誰もが通る人生の苦難に直面した後で、いかに「その後の生」を生きるかという問題を提起している。それはほとんど誰にとっても直面せざるをえない人生の課題である。
ビールを飲みながらこの本を読んでいたが、途中からやけに苦く感じた。オレはアル中じゃない。
只見町探訪記
2018年4月23日、月曜日。奥会津は晴れ。
午前中はだらだらとしながら、ふみふみこ『ぼくらのへんたい』(リュウコミックス)を読む。
自己が求める性別、他者から求められる性別の葛藤が丁寧に描かれている。
性との付き合いは自我が芽生えてから死ぬまでずっと続いていく。
その中でも思春期における性との向き合い方は難しい。
そこには性だけではなく、自分のありようをある形に決めることへの抵抗感(それは全能感への挫折でもある)があるからではないだろうか。
こうでありたかった自己が他者との出会いで歪み、あるいは花開く。
昆虫が外界に出て蛹から成虫へと変化を遂げる「変態」のように。
その姿は歪なようでいて、どこか美しい。
そのように変わりゆく自分をどうにかして肯定できれば、きっと生きていける。
ただみ ブナと川のミュージアム
13時少し前に只見町の「ただみ ブナと川のミュージアム」に到着。
道中のドライヴは陽気な日差しのもと快適に進む。しかし、流石は只見町。まだ雪がそこかしこに残っている。
館内は写真撮影禁止だが、動物のはく製や、ブナの大木がとても目に映える。
入口から展示室前に映像を鑑賞する部屋があり、しばし只見の美しい風景・歴史・民俗を堪能する。四季の移ろいは実際に映像として見ると、その後の文字説明が想像しやすくなる。時間があるならば巧みに編集された映像を見ると楽しめる。
只見・ブナの森の物語
展示室に入り、「只見・ブナの森の物語」の展示を見る。
一室がパノラマ・シアターになっており、只見におけるブナの生態系を一望できる。
生態系と言い表すのは誇張ではなく、ブナを中心に動植物が豊かに生息している様子をそれぞれの種類に分けて詳細に展示している。
ブナが只見の恵みとして、動植物、そして人間の生に大きく影響しているのがよくわかる。
展示中のブナが雄々しいので、人工物なのか実物なのかがちょっと判断できない。受付の人に聞いておけば良かった。
ブナの大木の根本には実際に水が流れ、「生きたイワナ」が展示されている。
もう一度いう。「生きたイワナ」が展示されている。
かがんで水槽を覗いたくと、イワナと目が合ったので本当にびっくりしました。はい。
二階に上がると、ブナが育む環境の中で築いた人間の生活誌と民具が展示されている。
人間は環境に影響を受け、そして環境に適応し、また環境に働きかける。
只見の大雪の中で、山の木々を伐って活用し、輸送は川に堰を作って工夫する。
全力で環境に向き合っている人々の姿が浮かぶ。
自然は厳しい。そこで生きていく。そしてあるときは開発の名のもとに自然を壊す。
人と自然の関係を再考するうってつけの場である。
ふるさと館 田子倉
ブナと川のミュージアムを見終えた後、マトンカフェで一服しようとしたが本日は休みとのこと。残念。
代わりに、ヤマザキショップで菓子パンとコーヒーを買って、ベンチで食べる。コーヒーが他のコンビニよりも美味しい気がした。
食べ終え、「ふるさと館 田子倉」へ赴く。ブナと川のミュージアムと共通チケットになっており、大人は入館料300円で両方の展示を見る。
こちらは圧倒的に只見の自然を開発した人為、田子倉ダムの建設に特化した展示である。
ダム開発は昭和の大きな歴史だ。日本各地のエネルギー需要、大規模工業化のために各地の自然を開発していく。
その結果、1959年(昭和34年)に只見の田子倉集落がダム湖の底に沈む。
田子倉集落には縄文期の遺跡も発見されており、近世文書では少なくとも江戸時代から集落が形成されていたことが確認されている。
人がそこで暮らし、子を産み、死んでいった場所なのだ。人が生きた場所なのだ。
「金は一時、土は千年」というような標語がダム開発反対の立場に掲げられる。
エネルギーの需要、雪国の不便を改良し各家屋に電灯を灯し、突然の水害にも対応できるようにダムを建設する。その理由はどこまでも実利的だ。
その理由をもとに、ほぼ強制的に集落の人々を移住させる。開発の功罪はどこまでも悩ましい。
展示を見た後、受付の方のご厚意で、只見川電源開発の映像を1時間ほど見せていただく。
吹雪の中、大雪の中、自然に翻弄させながらダム開発を推進する人々の姿を中心に、田子倉で生活する人々の様子が映る。
映像の説明をする同時代のナレーターの口調はどこか楽観的で、誇らしい。
開発に伴う人々の強制移動などの問題はあるものの、それを切り抜ければ明るい未来が保証されている。工事の困難にもめげず、最先端の重機、科学技術で山を、川を工事していく。
人間はひとたび計画を推進する立場になると、あらゆる苦難をものともせず、計画を遂行していく。吹雪の中、車を輸送させ、雪崩が起きれば人力で雪を掘る。
工事現場の人々は開発の中で、独自の生活を形作る。宿舎で共同で寝泊まりし、仲間と酒を飲み、寝食を共にする。その労働に勤しむ姿は晴れやかであり、見ていて快いものもある。
しかし、一方で彼らが只見の自然を破壊するのだ。この対比をそう考えれば良いのだろうか。
映像を見ていると、職員であろう女性に話しかけられた。彼女は田子倉出身であるという。
映像ではいまいちわからなかったことを教えていただいた。田子倉ダムは主に関東の工場地帯に送電される。電源開発会社が受注を請け負い、後に東北電力が引き継ぐ。
ダムはその土地のためのものではなく、むしろダムを建設できない地域のためにある。なんともはやと思う一方、自分が住む地域はどうだろうかと振り返る。自分が快適に生活するコストを他の地域、他者におしつけているのだろうか。
田子倉ダムは只見だけでなく、近隣町村のための雇用も生み出している。
現金収入に乏しく貧困にあえぐ農村が、生きていくために田子倉ダムの建設工事に従事する。公共工事は確かに人を生かしている。しかし一方で人の生に強制的な移動をさせている。
只見町が環境にこだわり、上のような施設でダム開発の歴史を展示し続けるのは、どこかで開発の功罪を感じているように見える。
映像資料の楽観的なナレーターとは異なり、現代のわれわれは開発がどこまで必要だったのかに疑問を抱いている。
繁栄と共にけして取り戻せない欠落を知っている。
だからこそ、記録に残し、歴史の再審を続けるのだろう。
かつてここには、名前と顔をもつ人々が、雪国の生活の中で笑顔で暮らしていたことを示すために。
自分の立っている地面が、ゆさぶられる。
どうすれば良かったのだろう。どうすれば良いのだろう、と。
東洋文庫探訪記
2018年4月9日。郡山市からさくら交通の高速バスで東京駅へ。晴天。バスの中では音楽を聞いたり、寝たりしながら本も読む。ヘイドン・ホワイト, 上村忠男訳『歴史の癒法』作品社, 2017年
ホワイトの議論は歴史家による歴史の全体化についての指針を提供する。全体として措定していることはいかなる概念なのか。
東京駅到着後、山手線で駒込に向かう。今日の目的は六義園と東洋文庫ミュージアムの見学。
昼食後に六義園へ向かう。東京にこんなところがあるのかと思うほど、広々とした庭園である。新宿の新宿御苑を窺わせる。
外国人客が多い。東京駅から30分足らずで来られる庭園文化に注目が集まるのかもしれない。
一時間ほど散策し、東洋文庫へ。天気が良いので心地よい。
東洋文庫は以前から学芸員の募集や、教育に熱心なので注目していた。本日初訪問。
展示の仕方がおもしろい。ビジュアルに力を入れ、ミュージアムを身近なものにしようとするキャプションがよくわかる。
特別展のハワイに関する展示を見たくて来館した。ハワイに限らず太平洋の島嶼を総合的に扱い、歴史や文化を一覧できる形にしている。
移民という国家事業と移民者の生活誌。移民先の島々の表象の仕方。植民地史の比較史でもある。
外国だけではない。植民は沖縄や小笠原諸島、伊豆諸島にも当てはまる。
しかし、もう一歩がほしいと思う展示だった。
巣鴨駅まで歩き、電車で池袋の大都会という居酒屋へ。天気が良いので喉が乾く。ビールが飲みたい。
ビールを飲みながらこの文章を書いている。
お酒を飲むと映画を見たくなる。ブラックパンサーが良いかも。
さかなのば
港町の魚屋さんで魚をつまみにお酒を飲んだら最高だよね
という趣旨のイベントに、2017年12月10日に参加しました。
企画は小名浜のフリーライターである小松理虔さんで、主催の場所はさんけい魚店*1という小名浜にある魚屋さんです。
わたしが福島で生活するときに、この人の生き方を参考にしようと思った方が小松理虔さんです。わたしはお酒も好きですし、魚を食べながら日本酒を楽しむついでに、ぜひ一目、理虔さんを見てみよう(できたら話をしてみよう)と、勇気をふりしぼって参加してみました。
当日は郡山市からいわき市に向けて出発し、いわき市立草野心平記念美術館、いわき市暮らしの伝承郷、いわき市立美術館を見学した後で、会場近くのビジネスホテルにチェックインを済ませ、イベントに臨みました。
会場は老若男女が笑顔でさかな(魚・肴)とお酒を楽しんでおり、あぁ、近所にこんな所があったら日々の鬱憤を晴らすにはもってこいだろうなぁ、と羨ましく思います。
わたしは明らかに「いちげんさん」であり、微妙に所在がないので、普段よりもとても早いペースでお酒を飲み、財布の中身をすり減らしていました。お酒を出してくれるお兄さんが丁寧に「このさかなにはこのお酒があう」と紹介するままに、杯を飲み干していました。
ハイペースの理由はもう一つあり、会場にいる理虔さんになんとか話しかけられないだろうか、でも胃がひっくり返りそうに緊張する、酒をのまねば、という意識が働いておりました。というのも理虔さんに話しかける地元の方らしき人々が絶えなかったので、いま行くと迷惑になるかなぁ、という不安がぬぐえなかったのです。いやまぁ自分が臆病なだけなんですけど。
ようやく声をかけることに成功し、お話をさせていただきました。理虔さんはまず自分が動くということを心がけていらっしゃるようで、何もないところに何かを生み出し育む、ということを続けたいとおっしゃっていました。その意味では一つの場所にこだわるのではなく(もちろんご家族の都合もあるので完全に自由になれるわけではない)、新しい場所に飛び込んでいきたい、というお考えであるようです。それは、場を立ち上げた自分がやがて地元の権威になってしまい、せっかく開いた場所が再び閉じてしまうことを懸念されているようでもありました。
あぁ、世の中はこのような人によって動いているのだと思いました。地域をかきまぜ、場所を、人を外に開かせる。そうしなければ固定化した価値観のもとで地域は衰退にはっきりと向かってしまう。地方を転々として生活してきたわたしにも思い当たることが多々あります。
動く、というのはとても大事なことです。身体を動かして、自分の視界を別の場所に、別の方角に向ける。見たことがない景色を見る。右に行ったことがなければ、左には行けない。下に行ったことがなければ、上には行けない。
イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。
魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。
理虔さんとお話をすませ、血中にも十分にアルコールを送ったわたしの口はいつのまにか滑らかになり、小名浜の地元の人とも少しお話することができました。とても嬉しかったな。イベントが終わってもその足で、お酒を出してくれたお兄さんとお話をしていた方2名と共に焼肉屋さんに行って、しめの1杯とお肉を食べました。
良い夜だったな、と思って、床についた。
福島での生活
10年ぶりに、福島に戻ってきました
イギリスの生活を終えたあとで、福島で生活をしています。
高校卒業を機に、実家のある福島県郡山市を出て、10年以上の月日が経ちました。福島出身者としては、どうしても2011年の震災が影響力をもち、自分と福島との距離をはかりかねたり、福島のことをうまく消化できない日々が続きました。
イギリスで生活しているとき、幾度となく福島のことを考え、なぜか福島に関わる記事ばかりを読んでいました。
実家の親のことを考え、福島での生活を想像しながらも、はたして福島で暮らすことが自分の人生にとって良いことかどうかがわかりませんでした。福島で暮らすことに納得できるかがわかりませんでした。
小松理虔さんという存在
そんなとき、小松理虔さんといういわき市小名浜出身のフリーライターの記事を読みました。
これだと思いました。
理虔さんは福島県のテレビ局に就職したあと、中国上海で編集者として働き、小名浜に戻ってきて、蒲鉾メーカーで働いていた方です。小名浜ではフルタイムの仕事をもって働くかたわら、ウェブマガジンがオルタナティブスペースを管理し、日々を過ごしています。
理虔さんの記事を読んでいると、人は土地に拘束されるのではなく、土地を生きる(活きる)存在だと思えます。もちろん、人と土地、地域の関係は何不自由なくというわけにはいきません。しかし、それでも人は自らが住まう場所で、日々の営みをこなし、そこに生きることの喜びと楽しさを見出していく生き物だと思いました。そうでなければ、人はその場所で暮らしていくことができないのだと思います。
その町で暮らすこと
詩人の大岡信氏の作品に調布Ⅴという作品があります。
まちに住むといふことはまちのどこかに好きな所を持つといふこと。
まちのどこかに好きな人がゐるといふこと。
さもなけりや、暮らしちやいけぬ
その場所には、好きな所があり、好きな人がいる。
そんなことを見つけられたら、どこでだって生きていける気がする。
2018年3月29日
ナショナル・ギャラリー National Gallery
中世から近代までの西欧絵画を網羅するイギリスの国立美術館
ナショナル・ギャラリーはロンドンのセントラルの中でも、さらに中心に位置しています。少し南に歩けば、ビッグ・ベンやウェストミンスター大寺院も見ることができますし、晴れた日にはテムズ川のほとりを歩いて楽しめます。
余談ですが、年末年始のカウントダウンでは、ロンドンで花火が上げられますが、このナショナル・ギャラリー周辺は花火を見るための絶好のスポットであり、多くの人々で混雑していました。
13世紀末から20世紀初頭までのヨーロッパ絵画を網羅
ナショナル(国立)という名称がついていますが、この美術館のコレクションはイギリスの作品に限ったものではありません。ゆえに、館内にはイタリアやフランス由来の作品が多々あります。
1824年に創立されたナショナル・ギャラリーですが、その設立の趣旨は、イギリスにおける美術の遅れといった問題意識があったようです。
まずは、1823年に発起人の一人であるサー・ジョージ・ボーモントが展示と保存のための建物を条件として、自身のコレクションを国家に寄贈することを約束します。その後も、聖職者のホルウェル・カーなども同じ条件のもとで寄贈を確約しました。こうした人々の寄贈には、ルーベンスやレンブラントの著名な作品も含まれていたようです。
1824年には、ナショナル・ギャラリー設立のための決定的な出来事が起きます。一つは、サンクト・ペテルブルク出身の金融業者、ジョン・ジュリアス・アンガースタインのコレクションが売りに出されたことです。二つ目は、オーストリアから戦績の支払いがあったことで、ギャラリー設立の予算の目処がたったことでした。
現在のトラファルガー・スクエアに施設が移転されたのが、1838年ですが、どうもこの新しい建物は評判が芳しくなかったようです*1
「もっと知りたいと切実に望んでいる人々」のために
イギリスにおけるナショナル・ギャラリーなどの国立博物館・美術館は基本的に入館料が無料となっています。これは、フランスやイタリアの国立ミュージアムにはみられない、イギリスの顕著な特徴です。そのおかげで、実に様々な背景の人々が、気軽にミュージアムに行き、作品を鑑賞するという文化が定着しています。イギリスにも多くの課題がありますが、ことこの文化政策に関しては、わたしは手放しで称賛しています。
ナショナル・ギャラリーは来館者がより静かで落ち着いた環境で作品を鑑賞するために、何度か移転の話が持ち上がっていたようです。しかし、「1857年度ナショナル・ギャラリー用地問題に関する議会諮問委員会」に対するコーリッジ判事の意見に代表されるように、「ロンドンの雑踏のただなか」にあってこそ、ナショナル・ギャラリーは価値があるという考えが根底にあるようです。
彼の意見では、「美術についてはごく控えめな知識しか持ち合わせないが、もっと知りたいと切に望んでいて、仕事で手一杯なので、ときどき半時間か一時間の暇ならあっても、丸1日の暇はめったにない――そういう階層の大勢の人々」のためにこそ、ミュージアムは存在する意味があるとされます。
こうした姿勢は、現在でも踏襲され続けており、コーリッジの言葉はこのギャラリーの理念にもなっています。「絵画がそこにあるということ自体はコレクションの目的ではなく、手段に過ぎない。その手段によって達成すべきは、人々に精神を高めるような喜びを与えることなのである」と*2
クロード、ターナー、モネ、風景画の英仏文化交流
ウォーター・ルームから17世紀の絵画方面の通路を通ると、8角形の小さな小部屋につきあたります。そこでは、イギリスの天才画家ウイリアム・ターナーの絵と、彼が影響を受けたフランス人画家のクロード・ロランの絵を同時に見比べることができます。
これらの絵の配置は、ターナーの遺言によるものでした。彼は自身の絵とロランの絵を来館者に見比べさせるだけでなく、主要な絵画形式としての風景画が17世紀の所産であることを主張しようとしたとされます*3
まばゆい日の光にさらされた港町の光景は、様々な技巧がこらしてあるにも関わらず、見るものにただ純粋な美しさ、このような風景画に出逢えることの喜びを感じさせます。
クロードの影響を受けたターナーは、光を積極的に絵の中に取り入れます。こうした試みが、われわれのよく知るフランスの印象派の絵よりも半世紀ほど早く行われていたのですから、ターナーの才能には舌を巻きます。
また、実際に印象派の人々もターナーの作品に影響を受けていたようです。例えばモネの作品の変化の仕方は、ターナーのそれと重なるところがあります。ターナーが歴史画や神話をモチーフにした写実的な絵画から出発し、やがては非常に抽象的なモチーフの中で、光や色のあり方を追及していったように、晩年のモネも目を患いながら、より抽象的な描き方や、やや奇抜な色遣いになっていきました。
上の作品は、テムズ川とウェストミンスター寺院を描いたモネの作品です。クロードの影響を受けたターナーに影響された印象派の一人が、ロンドンの絵を描くというのは、どこか運命的なもの歴史的なものを感じますね。
さて、今回は長くなってしまいましたが、やはりロンドンはヨーロッパの中心といえるところがあると思います(ブレクジットによって状況は変化しつつありますが)。ロンドンの中でも中心にあるナショナル・ギャラリーでは、ヨーロッパの絵画の歴史を一覧できます。ヨーロッパの中心でヨーロッパを眺めるという経験は、少し不遜な気もしますが、とても貴重で特異な経験になると思います。
2017年3月12日
*1:エリガ・ラングミュア著, 高橋裕子訳『ナショナル・ギャラリー・コンパニオン・ガイド 増補改訂版』イエール大学出版, 2016年, 9-10頁
*2:同上, 10頁
*3:同上, 182頁
*4:クロード・ロラン Claud Lorrain≪海港、シバの女王の船出≫Seaport with Embarkation of the Queen of Sheba, 1648年, カンヴァスに油彩, 149×197cm
*5:ウィリアム・ターナー William Turner≪カルタゴを建設するディド≫ Dido Building Carthage, 1815年, カンヴァスに油彩, 155.5×231.85cm
*6:クロード・モネ Claude Monet, The Thames below Westminster, 1871年頃, キャンバスに油彩, 47x73cm