博物学探訪記

奥会津より

湯布院探訪記

2018年7月23日。湯布院の民宿で起床。晴天だが、湯布院は標高が高いので気温はおそらく30度前後。福岡や長崎よりもずいぶん涼しく感じる。

 

駅前からの観光通りから東南に少しずれると、田んぼや農地が広がる。美しい。

 

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朝食をすませ、荷物を宿に預かっていただき、金鱗湖をめざす。

 

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金鱗湖近くのゆふいんシャガール美術館に赴く。本日の目的の一つ。

 

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展示室は2階の2部屋になっており、おもにシャガールが手がけたサーカスの絵が展示されている。シャガールの絵はなぜか気になっており、ジョルジュ・ルオーの絵と並んで、展覧会などで発見するとちょっと嬉しくなる。

 

館内は撮影禁止。朝早かったこともあり、他にお客がいなかったので、ゆったりと鑑賞する。

 

シャガールの絵はどこかもの哀しい。サーカスに出ている人々は、多くの場合、男性は異形の姿で、女性は性を強調するようなあり方で、はりついたような笑顔をもって微笑んでいる。自分達が見世物であることを自覚しているかのように。観客はデフォルメされており、表情に乏しいが、サーカスという場を構成している存在であることがよくわかる。しかし、私にとっては画一化された観客よりも、突飛な姿のサーカスのメンバーのほうが人間味を感じさせる。それはなぜだろうか。

 

鑑賞を終えて、山道を歩きながら、2つ目の目的地へ。比較的涼しいといえども、やはり暑い。由布岳の勇壮な姿を見ながら、ひたすら登る。

 

由布院空想の森アルテジオに到着。湯布院で何をするかを探していたとき、一目見て気になった。音楽にまつわるアートを展示する美術館であり、レストラン・カフェも隣接している。どうやら、展示室にはラジオの収録室もあるようだ。設立の背景がいろいろと気になる美術館である。

 

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音楽にまつわる展示が、やはり観客が自分しかいない空間で、繰り広げられる。

静謐な中で、音や、アート、あるいは由布院という土地について思いをめぐらす。

 

展示室の奥が読書室になっており、そこで興味のある本をぱらぱらとめくりながら、心地よい時間を過ごす。

 

シャガールの本を手に取る。ロシア生まれでユダヤ人の彼は、才能を認められ、パリにおもむく。パリではピカソなどの同時代の画家と交流し、徐々に作品が展覧会で人気を博していく。

 

しかし、時勢はナチス・ドイツの勃興と重なる。危険を感じたシャガールアメリカに亡命し、そこで創作活動を続ける。それでも彼は第二の故郷となったパリに戻り、余生を送る。うろ覚えだが、このような人生をシャガールは生きた。

 

だからなのか、シャガールは自分の作品の表象に対してどのような解釈を与えられても良いという趣旨の発言をしている。

 

ユダヤ人であることと、アートについて。

 

また、浜田知明の本も読む。《少年兵哀歌》が有名だ。たしか沖縄の佐喜眞美術館で見たことがある。

 

この美術館は本当に心地よい空間だった。湯布院という避暑地の更に山奥にあって、芸術家村の一画をなしているように立地し、日常を離れて美術に親しむ。湯布院で2、3日はゆっくりと過ごすことができそうな場所だ。

 

村上春樹の『遠い太鼓』(講談社文庫, 1993年)にある好きなシーンを思い起こす。

 

 外に出て少し丘を上がり、最初にみかけたカフェニオンに入って、冷たいビールを注文する。目の奥が痛くなるくらいよく冷えたビールである。静かな午後、暖かい光。「レスボス島はギリシャでいちばん晴天日の多いことで知られています」と観光パンフレットにはある。パトロール・ボートが港に入ってくるのが見える。青と白のギリシャの旗が風に揺れる。まるで人生の日だまりのような一日。

 誰かが僕らの絵を描いてくれないかな、と思う。故郷から遠く離れた三十八歳の作家とその妻。テーブルの上のビール。そこそこの人生。そしてときには午後の日だまり。(343-344頁)

 

 

レストランでビールを飲まなかったことを少し悔やみながら、山道を今度はくだっていく。再びこの地を訪れることはあるのだろうか。

 

 

博多探訪記

2018年7月20日。晴天。

天神周辺のビジネスホテルで目覚める。九州滞在2日目。

朝食を済ませて、探索に出向く。

 

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街のふとした所に神社があり、住民の方が朝からお参りに訪れていた。

 

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福岡県立美術館着。常設展示を見る。夏休み特集で、展示の工夫が凝らされた現代アートの作品を見る。大学生の学芸員実習と高校生の職場体験のようなものも行われていた。

 

現代美術は抽象的だが、作家の意図がこめられている作品が多い。そこを解説・解釈するのが学芸員の腕の見せ所。アートにこそ解説が求められているのかもしれない。

 

目につく作品は構図がよく、一目見て印象に残る。

 

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福岡市赤煉瓦文化館。入館無料。福岡ゆかりの文学作品の展示と紹介。

東京駅の設計に関わった辰野金吾が設計者。いわゆる「辰野式」の建築物。優美な建物。

福島県安達郡本宮町出生で福岡に転居した文学者、久保猪之吉(1874-1939)の展示が印象的。福岡は福島ともゆかりがある。

 

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福岡アジア美術館。九州旅行中に最も好きになった美術館。展示の幅広さ、アジアという地理空間に対する意識の高さが素晴らしい。さすがに福岡ならではだと感じさせる。

 

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山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》

サイパン移住者の移民・戦争経験の語りを、自分の喉を通じて発話し、語りを重複させる試み。経験の表象に関する文字や絵ではないあり方、経験の継承と追体験の様式について発想になかったやり方である。

 

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ベトナム絵画にフランスの絵画技法、すなわち植民地統治の影響が見られる。

 

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カルロス・フランシスコ《教育による進歩》1964

 

かなり大きいサイズのフィリピン絵画。様々な象徴を巡らせた歴史画でもあるだろう。

福岡美術館のHPには次のような説明がある。

 

「この作品は、マニラの教科書出版社の壁画として描かれたもので、フィリピンにおける教育の由来と発展、そして教育の重要性を主題にしている。左下には古代にやってきたマレー人たちが描かれ、そのスルタンが指さす先にはスペイン統治時代の修道士に祝福されるカップルが、左上にはアメリカ統治時代に派遣された教師団が描かれている。中央には19世紀フィリピン独立運動の父ともいわれるホセ・リサールが母親に読み書きを習う姿とともに、磔のキリストを思わせるイメージと重なり合って、この国民的英雄の悲運の生涯を暗示している。周辺部を亡霊のように漂っているのは、無知や迷信であり、それらは教育の発展によって消え去ろうとしている。作者は、このように、マニラ市庁舎壁画を始め、フィリピンの歴史を大画面に描き続けて、壁画や歴史画に新境地を開くとともに、国民的な人気を獲得した。」

http://faam.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/collection.cgi?cnid=0405241449061395

 

この説明には1964年という時代への考察と、日本のフィリピン占領およびアジア太平洋戦争における日米のマニラ戦の破滅的な被害の影響が抜けている。

アメリカの教育が最後に描かれるような時代配置となっているが、フィリピン・アメリカ戦争(1899)や1946年のアメリカ統治からのフィリピン独立を考えれば、進歩の語りでは説明できない歴史が浮かび上がる。

1964年という年代がおそらく重要だ。そのためには日本のフィリピン統治がフィリピンに与えた影響について目を向けなければならない。

「教育による進歩」という主題に対して、日本の姿が見えないことに、日本の占領統治の問題とフィリピン社会におけるトラウマ経験の深刻さが見て取れる。

アメリカからの独立が約束されていたフィリピンを植民地にした日本軍の軍政の悪名は有名だが、さらにマニラ戦という第2次世界大戦の中でもトップレベルの民間人死傷者を生み出した戦いによって、マニラは一度ほぼ崩壊している。そのような日本の侵略がかえって、フィリピンが戦後も独立を果たしながら、アメリカに対する従属を深めなければならなかったことを考える必要がある。その表れがこの作品であり、1964年になってなお影響を及ぼしていたことが推察される。

これらの事柄については中野聡の研究が素晴らしい。

nakanosatoshi.com

 

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村上龍の作品に『半島を出よ』(2005)というものがある。

北朝鮮の軍に一時占領されたという設定の福岡の様子を描いた作品である。

中央政府はこの事件の方針を固めることができずに右往左往し、結果的には福岡在住の問題児達が朝鮮兵を攻略するという内容になっている。

作品の最後のほうで、福岡という都市が自立的に東アジアと交流を深めていくことが、すでに斜陽にある日本社会の中で、地方都市が生き延びる術であると書かれている。

 

私はこれまで日本は戦前の植民地支配や戦争責任の問題を、戦後から一貫して回避してきたと認識しており、それが現行の国際関係に対しても悪影響をもらたしていると思っていた。しかし、アジア美術館の展示は、戦後から美術の文化交流が日本とアジア各国の間で着実に進められており、それぞれの作品が戦後のアジア各国の情勢を描いていることに感動した。日本社会の問題を地方の一都市が引き受け、時間と労力をかけながら成果を残していることに、涙が出そうになった。

 

旅はしてみるものだ。そこには新しい発見があり、人の営為の積み重ね、すなわち歴史を知ることができる。どこかでがんばってきた人、がんばっている人の姿を思い浮かべることができる。それは小さな希望に見える。

 

 

太宰府探訪記

2018年7月19日。快晴。気温36度。

 

成田空港よりジェットスター福岡空港に向かう。

 

空港で国際線ターミナルに移動し、バスで大宰府に直行。運賃大人500円。

 

 

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大宰府駅着。外国人旅行客の姿が目立つ。

 

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駅から歩いて、昼食をとり、大宰府天満宮へ。

 

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装飾や、朱塗り、屋根、大木がとても美しい。

 

天満宮のあと、少し足を伸ばして天開稲荷社へ。

階段が急でしんどいが、人が少なく落ち着いて歩ける。

 

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社から山道を通り、九州国立博物館へ。この道は紅葉が多く、秋はさぞかし美しいだろう。

 

 

 

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アジア、ユーラシア大陸文化の中の日本を意識した、珍しい展示。九州という土地柄がよくあらわれている。お客さんが少なく見えたのが気になった。観光地の中にあってなぜ?

 

館内は撮影禁止だが、特別展は可能だった。

 

 

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博物館見学後、大宰府駅に戻り、電車で天神方面へ。

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アクロス福岡はゲーム原作でアニメ化もしたRewriteの舞台。

 

 

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屋台で天ぷらを食べ、〆にとんこつラーメンを食べる。

 

こうして修羅の国での一日が終わる。

 

厚切りジェイソン、藤井靖史、菅家博昭: 会津探訪の長い一日

2018年7月8日(日)晴れ

 

昼前に郡山から会津若松へ車で向かい、渡部さん・長谷部さんと合流して、会津風雅堂の講演会に参加する。

 

講演会「どうせ田舎?チガウダロ!~可能性だらけ!福島のこれから~」

会津風雅堂 13時~15時

主催者:公益社団法人日本青年会議所 東北地区 福島ブロック協議会会長 赤津慎太郎

講演者:株式会社テラスカイ役員 厚切りジェイソン会津大学 準教授 藤井靖史

 

厚切りジェイソン

 

 日本社会の学制(学校生活・受験制度)、労働制(就職試験、新卒制度)は50年前からほとんど変わらず、社会情勢に適応させないことで、優秀な人材を輩出しにくい構造になっている。

 

 アメリカでの経験と比較すると、日本社会は多様性に乏しい。そのことは国際社会における競争という面から考えてみても、不利にはたらく。Googleなどのトップ企業で働くためには、その道の先端専門家にならなくてはならない。1000人で競争した場合、999人よりも優れている人材のみがトップに立てる。では、残りの「凡人」である999人はどのように競争に打ち勝てば良いのか。

 

 厚切りジェイソン氏は、自分は成績的には優秀だが、トップになる器量はなく凡人であったという。しかし、ミシガン生まれ、コンピューターサイエンスのスキル、日本語能力を組み合わせることで、能力の多角化・多様化を図った。つまり、各分野において10人中1人が保持するようなスキルを3つ持っていれば、1/10×1/10×1/10=1/1000の人材になることができる。多様な能力を複数所持することは、結果的に先端専門家と同等の地位に就くチャンスを手に入れることに等しい。999人の代替可能な「凡人」を育成するよりも、多様なスキルをもつ人材を登用できる社会システムを構築すべきである、というのが厚切りジェイソン氏の主張である。

 

 そのためには、初めから1/1000の技術を目指すような「職人業」的スキル構築ではなく、最低限に必要なことを実施して、たとえ失敗したとしても実践を繰り返すことで改善をめざすMVP式(実用最小限の製品: minimum viable product)が望ましい。MVP式は人生哲学に対しても適用できる。自分の職業や年齢に関わらず、とりあえずやりたいこと・やってみたいことに挑戦し、自分の枠を広げ、多様な自己を構築するということだ。実際に厚切りジェイソン氏はエンジニアとして働きながら、お笑い芸人を志し、成功している。

 

②藤井靖史

 

 藤井氏もまたアメリカの一流企業でコンピューター・エンジニアとして働いた経験をもつ。藤井氏の講演で印象的だったのは、講演の途中で「対話の時間」をもうけ、参加者同士が話し合うよう促したことだった。藤井氏が人と人をつなげる「場」の重要性を意識していることがうかがえる。

 

 藤井氏は会津に引っ越していらい、生活の中で地元の人々と触れ合う機会に恵まれ、日本で失われかけている地縁が残っていることに驚いたという。人々の「親切の中」で育つ子どもは幸福であり、このような地域の過去と現在の「時代をつなげる」役割を積極的に果したいと考えるようになった。これは生活面のみならず、日本の社会構造にもつながる側面をもつ。

 

 日本の企業は商品を中心にハードウェアなどの構造を作ることはできるが、商品を介した人々のつながりという対流・ムーヴメントを作ることができない。商品は商品であるのみならず、人々の関係をつなぐ媒体として作用するのであり、そのことで人的交流が生まれ、商品もまた更なる購買の対象となる循環が生まれる可能性をもつ。「関係人口」という概念が含意することは、関係そのものに価値があり、関係がヒトやモノを動かす原動力となることである。人々が集まることはそれだけで可能性なのだ。そして、かつては無尽(むじん、奥会津では「むんじん」と発音する場合がある)や講などの風習によって人々が集まる場を形成してきたことにならい、現在でもこのような対話のシステムを構築する必要があると藤井氏は語る。

 

 二人の講演者が共に指摘するのは、時代の変化に対応する社会システムの変化の必要性である。厚切りジェイソン氏はトライアンドエラー(try and error)を繰り返すことで、新たなスキルや価値、関係を構築する方法を述べ、藤井氏は過去の文化や風習を参照しながら、現代において有用な歴史を模索する。歴史を頼みにするよりも、自ら歴史を作り上げる厚切りジェイソン氏と、現在の課題を歴史の教訓に学ぶ藤井氏といったところだろうか。どちらの指摘も重要であり、現代的な課題は双方向、多方面において検討されるべきである。

 

 両者の問題点を述べるのであれば、次の通りである。厚切りジェイソン氏の方法論は新自由主義的、言い換えれば現代的思想を背景にしている。確かに多様なスキルは生存のために重要だが、そもそもそのようなスキルを入手することが難しい境遇にいる人々に対しては有意な発想とはいえない。多様なスキルを手に入れるだけの学識と金銭、時間を持てる人は限られており、一日のほとんどを労働に費やさなければいけない人々などには一律に適用できる方法論ではない。

 

 また、試行錯誤などの繰り返しを適用できない分野の事柄もある。例えば文化財の保護や伝統産業などに対して、技術の向上は無論のこと大きな影響をもたらすだろうが、失敗しても次に行くという機会が制限されている場合には、より慎重な取り組みを要するだろう。

 

 最大の問題として、試行錯誤を行う方針そのものが時代に適応できなくなったときにどのように対処するかが不透明である。時代状況が大きく変化する時代(少子高齢社会と人口減は人類が初めて経験する事態である)にあって、どのような試行錯誤を行うかは、現代をより広範な歴史へと位置づけて初めてその問題を明確に認識できるのではないだろうか。

 

 藤井氏に対する意見として、藤井氏が良しとして参照する過去とは実際にいかなるものであったのかが問われる。現在のフィルターを通して見る過去は、すでに失ったもの、あるいは失いつつあるものとして、なるほど現代のわれわれの眼にはまぶしく見えるかもしれない。しかし、失いつつあるということは時代状況に適応できなくなった、あるいはそぐわなくなったということであり、それをいたずらに復活させようとしても長続きはしないだろう。

 

 また、ほとんどの風習や文化はプラスの面もあればマイナスの面もある。どのような過去を参照しようとも、その良いところだけを選び取ることは難しいかもしれない。過去と現在の時代状況をまずは事実レベルで把握し、その後比較検討、場合によっては改変を含めて過去の出来事を参照すべきではないだろうか。

人数は確かに何事を始めるにしても推進力として重要であるが、人々の利害関係や目的の配分などを適切に行えなければ、おそらく何事も始められない。そうかといって、中心的な立場の者がトップダウン的に物事を推進していけば、多様であるための人員が硬直化し、株式会社などの運営方法と変わらない組織形態になる。昨今の風潮として、場をとりまとめるリーダーの養成が声高に叫ばれるが、それは従来のトップダウン方式あるいは中心-周辺関係の構築とほとんど変わらない。われわれはむしろ、遅々として物事が進まないことを受け入れながら、利害の異なる(ときに敵対する)人々の話に耳をかたむけ、地道に物事を進めることに慣れていかなくてはならない。

 

会津学研究会 菅家博昭『生活工芸双書 からむし(苧)』(農文協)出版記念講演

三島町西隆寺 16時~19時

司会:遠藤由美子

講演者:菅家博昭氏

 

 会津風雅堂で講演を聴き終えた後、会津美里町方面から農道を通り、三島町西方の西隆寺へ向かう。

 

 私はからむしに関する知識はあまりなく、からむしのことを知れば知るほどおもしろいという読み方はしない。むしろ仕事で関わりをもち、集落誌調査の手ほどきを受けた菅家博昭氏に対して興味があり、菅家氏がなぜからむしと関わり、単著を執筆するに至ったのかを知りたいと思っていた。

 

 新刊をぱらぱらめくりながら、菅家氏の話を聞いて考えたことをここに書く。専門的な話に対していかに一般的な意味づけを行えるかの試みである。

 

 からむしに限らず人間は植物資源を活用してきた。資源の活用はその技術の伝播を含めて集合的・社会的な営みである。当然その営みは自然環境や社会集団による制約を受けるが、そのことがかえって集団のアイデンティティの形成を促進し、植物利用を通して集団の特色が浮かび上がる。そこに暮らす人々は植物資源の所在を生活圏に組み込み、集落の範囲や自分達の存在を確定する足場として築くことになる。実際に菅家氏はからむしを調査するなかで、利用法や態度がからむしの生息地・生産地によって異なることを発見する。人々はからむしと多様な関わりをもち、その利用法を独自に編み出す一方で、一度生まれた方法や環境のもとに拘束される。このような植物利用にまつわる自由と拘束が、地域にアイデンティティをもたらすのである。

 

 植物利用の多様性と独自性は、他地域との関係構築につながる。昭和村であれば、からむしを織ることによって上布の原料を生産し、新潟に流通させていたとされる。ただし他地域への貿易は植物栽培の産業化をまねく事例もあり、資源の枯渇や他地域との面倒ごとに巻き込まれる場合もある。足場を築くこととは、他者や他地域に認知される領域を生み出すということであり、関係を生むこともあればやっかいごとを招く可能性もあるというわけだ。アイデンティティの構築とは他とは異なるという点で、社会的な営みであり、それは自他関係の構築につながる。その一方で、人々の生活が他地域・他集団によって拘束されることもまた、いま一度指摘しておかなければならないだろう。

 

 しかし、一度築いた足場はやがて時代が変遷するごとに、足跡へと変わっていく。植物利用の技法が伝統として脈々と続いていく例もあるだろうが、伝統もまた時代ごとに「発見」されていく。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが『創られた伝統』(1983)を編集したように、太古のものと思われた「伝統」は近代になって「伝統」として発明された例が多々ある。伝統は不変を意味しない。むしろ、それぞれが築いた足場は時代ごとに意味や目的を変える。からむしでいえば、クジラ漁の網の素材として使われたこともあれば、軍服の素材として使われた例もある。

 

 菅家博昭氏がからむし利用の現代的意味を、「いまや農産物を加工し販売する6次産業化の流れや、地産地消、あるいは生活工芸への注目という社会の趨勢は、これまでにない流れとなっており、21世紀が目指すべき「自然との共生」を考えるなら、「小さな暮らし」の価値を感じるものである」(『生活工芸双書 からむし(苧)』, 2頁)と述べる一方で、からむし利用の歴史的変遷を詳細に記述するのは、現代もまた過去に変わっていくことを示唆している。しかし、大きな社会変化の中にある現代にとって、現状や未来への指針を模索する際には、過去はいつでも有益な情報を提供する。足場は足跡となり、さらにこれまでの軌跡を顧みるための例となる。

 

 そのような過去の参照は、正確かつ詳細であることが望ましい。実際に過去がどうであったかの情報は改変の試みも含めて多くあるだけ、過去は豊かになりうる(ただし煩雑にもなりうる)。先の厚切りジェイソン氏と藤井靖史氏に足りない点はこのことだろう。現代において有効な方法論もまた、時代が変われば無用の長物になりうる。未来に対する指針は通り過ぎる現在にのみあるのではなく、過去を振り返ることで見えてくるものもあるだろう。しかし、過去を参照する前に、過去とされるものを詳細に検討し、資史料を用いて探求する試みもまたなされなければならない。

 

 奥会津昭和村にあって、人々とからむしの関係はこれまでに変化してきたし、これからも変化していくだろう。しかし、いまなお「からむし」という植物に接近できることを称賛したい。人々の足場が記録としてのみならず、生活の実践として残っていることは珍しい。昭和村には「からむしという足場」が残っている。しかし、これらは自然に残されたのではなく、残そうとする意志と実践の結果として残っているのである。私が菅家氏に『生活工芸双書 からむし(苧)』という本を著した意味を尋ねた際に、もともとからむし工芸博物館にある史料を活用するために、その利用法を調べており、人と素材の付き合い方を追求したいと考えていたと答えられた。また、菅家氏は仕事を通じて社会とつながることを人生の指標として掲げており、農業は仕事として、からむしの探求は社会への責任として行っていると話している。足場を残すのも、足跡をたどることも、そしてそれらを軌跡として歴史を描くこともすべて、人の営みである。菅家博昭氏の本を読めば、人とは顔と名前をもった個々人であることがわかるだろう。

 

 人々という匿名が物事を進めているわけではない。みんなが集まれば何事かが解決されるわけではない。名前と顔をもち、生活を営む一人ひとりが、自分の時間を割いて、集まりに参加し、ある問題を引き受け、実践を積み重ねてようやく、解決の糸口が見えてくる(かもしれないし、そうではないかもしれない。結果が保証された実践などない)。そのような実践の記録を綴ったものが、『生活工芸双書 からむし(苧)』という本なのだ。

 

 ということを、会津学研究会で話を聞いて、そのあとぼんやりと考えて思いつきました。まだ実際に本を読んでいないので、読んだらまた別の感想が出てくるかもしれないので、あしからず。

 

岡田麿里『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』文芸春秋, 2017年

 

書評サイト「本が好き!」に書いたものを転載します。

 

www.honzuki.jp

 

岡田麿里という名前を覚えたのは、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)というアニメ作品を見たときだが、それ以前から気に入って何度も見ていたアニメのいくつかは、岡田さんがシナリオを手がけた作品だった。


高校生のときに『true tears』(2008年)を熱心に見ていたことをよく覚えている。富山で暮らす主人公が絵本作家になる夢を志ながら、自分の夢を両親に素直に話すことができず、地元の伝統舞踊をいやいやながら学ぶなかで、不思議な少女と出会い、自分を肯定し、自分の気持ちをさらけ出していくという話だった。


主題が「自分をさらけだすこと」、これが岡田麿里の作品のうちで、好きになったものに共通していることだ。『とらドラ!』(2008年)しかり、『凪のあすから』(2013年)、『キズナイーバー』(2016年)、『心が叫びたがっているんだ。』(2015年)などがそれにあたる。


『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』も、文章を書く上でのレトリックや比喩的な構成はあるだろうが、岡田麿里さんの人生や心のうちをある程度さらけ出した本であるといえるのだろう。


だが、このような作品を読んだとき、私は「書評」や「批評」、「論評」といった言い回しで作品を論じるこができない。私が岡田さんの人生についてあれこれ言えることはほぼないし、「へー、岡田さんって東京コーヒー(登校拒否)してたから、あの花みたいな作品書いてたんっすね。大変でしたね」とか、「でも登校拒否から、今では売れっ子ライターなんだからすごいっすよね」とか、言葉の表現はどうであれ言いたくないし、登校拒否という経験が彼女にとってどのような意味をもっていたかは、本を読んでもたぶん理解することはできないからだ。


また、たとえ自分が言及して事柄に対しても、他人から訳知り顔で何か言われると腹が立つことってみなさんありませんか?わたしはとてもたくさんあるので、「うっさい、お前に言われたくないんじゃ」と常に思っています。


書評や批評は、ある論旨に即して論理的な説明をするという意味では、自分の感情に関わらず注釈や文献を交えながら客観的に書いていくことができる。ただし、論理というのがある世界観に対する信仰の上に成り立つという意味では狂気と変わらないという前提に注意を払う必要はあるが。


けれども、自分の感情がゆさぶられた作品に対して、なぜ自分がそのような感情を抱いたのかを論理的に説明することはできない。感情は自分の経験や人生に依存して発露するものであり、感情に由来する文章を書くことは、やはり「感想」と呼ぶことがふさわしいと思う。そして感想とは、自分の感情を込めるものであるならば、少なからず「自分をさらけだすこと」につながる。文章を書いた経験がある人は、このことを認めてくれる気がする。


という長い長い前書きを書いたうえで、岡田麿里さんの作品への感想を述べる。


true tears』がすごい好き。雪国の育ちだからあの風景がもうたまらない。綺麗だと思う。オープニングのアニメーションで、紅葉のもとに木の葉が舞い散る光景に鳥肌が立つ。そのあと、むぎや踊りが流れる姿は、なんか知らないが涙が出た。


わたしの『true tears』愛はなかなかのもので、実際に舞台となった富山県城端に2回行き、むぎや祭りにも参加したことがある。なんというか、好き好き大好き超愛してるというレベルである。


true tears』の湯浅比呂美というキャラクターを書いてくれたマリーを7代先まで祝福したい。

私の書く女子は「男性の夢を壊す」とか「女の嫌なところが濃縮されている」と言われていた(217頁)



と岡田さん自身は書いているが、わたしは好きだ。とても好きだ。
比呂美は容姿端麗で成績も優秀だが、主人公に対して不器用で、感情と挙動が一致せず、表情を変えないままに空回りしている姿が可愛すぎて鼻血が出そうになる。

岡田さんが言うように、アニメーションのキャラクターでありながら「ほんの少しだけ現実っぽい手触り」をもっている。比呂美が能力的に優秀であることと、恋愛感情を交えた人間関係に不器用な点は両立するし、言ってしまえば、誰だって自分が本気になった相手には不器用である、ということが少しといわずかなり現実っぽい。

ちなみにわたしは、石動乃絵も好きなので、どちらが好きかという不毛な争いはせずに、どっちも好き!という博愛の精神をファンのみなさんは持てば良いと思っている。まぁ、あいちゃんはね。はは。


『心が叫びたがっているんだ。』を見たときには次のような感想を書いた。

少女の平穏は自ら投げかけたことばによって終わりを告げる。夢見がちな少女のおしゃべりなことばは、あまりにも彼女を取り巻く環境に大きな波紋を投げかけた。彼女の他愛ないことばによって、両親は決別の道を歩むこととなる。
 少女にどれほどの罪があったのだろうか。彼女は悪かったのか。わが身を振り返れば、ことばの意味など考えることなく、まるで呼吸をするようにことばを吐き出した経験があるだろう。そのことばは、もちろん時には他者を傷つけることもあった。しかし、そうしたちょっとした苦い経験を重ねることで、幼子は他者に対する配慮のしかた、言うべきことと言ってはならないことの境界を、身をもって学んでいくものだろう。
 だからこそ、少女の親が彼女に投げかけた言葉はあまりに重い。ちょっとした失敗ではすまされない、少女の生涯の身の振り方を規定してしまう、酷いことばだった。だが、その一方で少女の言葉もまた、確かに両親の人生を大きく変化させてしまったのだ。どちらが悪い、とはいえない。ただ一つ言えることは、ことばとは時にあまりにも残酷に他者を、あるいは自己を傷つけてしまうということだ。
 ではことばをからだの奥底にしまいこみ、からだがことばを拒否するようなあり方は、はたして人を幸福に導くのだろうか。いいたいけど言えない、いいたいのに言葉にできない、そのもどかしさは誰しも一度は経験したことがあるだろう。そうした苦悩が生涯にわたって続けられるとすれば、その絶望はいかなるものであろうか。
 もちろん言葉だけが意思表示の全てではない。目は口ほどにものを言うし、身振りが手振り、表情から伝わる事柄は少なからずある。それは時にことばで伝える以上の感情を他者に移入することだってできる。だが、それはやはり限られた意思伝達の方法といわざるをえない。
 人間は意思を表現することで他者に気持ちを伝える。その表現の手段が多くはないからこそ、その中で比較的有用なことばという手段を用いて他者と意思疎通を図る。そのとき、確かに他者とわかりあえたと思えるような瞬間がある。その喜びは、たとえ言葉が他者を傷つけることがあったとしても、否定できるものではない。
 ことばを交し合う喜びは、自己と他者の関係に変化をもたらす。ひょっとすれば、われわれが共同体を形成していられるのは、この喜びがあるからかもしれない。自分のことばに反応が返ってくる。自分の言葉が相手に届く。このくすぐったい喜びが、人と人をつなげるのかもしれない。
 少女がお腹を痛めながら投げかけたことば、調子のはずした歌声は、だからこそクラスメイトの心を打った。ことばは実行委員の皆に伝播し、委員のことばがクラス全体に広がった。美しい光景だと思う。僕自身は、自分が学生のときにこうしたことばを素直に受け止めることができなかった。他者のことばを軽んじて、自分の領域に立ち入らせないようにしていた。それも一つの身を守る術ではあった。しかし、衆目の前で、一声発するその緊張を、その苦労を少しでも想像していれば、無下にことばを無視することの冷酷さに対する反省がありえたかもしれない。今でもそうした想像を僕は上手くできない。
 時おり音楽に合わせて挿入される校舎のシーンや、何気ない学生生活の様子は、やがて去り行くことを前提としているからこそ、儚くも美しいものとして目に映る。やはりあの時は特別なのだと思わせる何かがある。
 そうした美しいものと出会ったとき、タイトルのことばが自然と頭に浮かんでくる。心が叫びたがっているんだ。人がなぜことばを発するようになったのかはわからない。ことばとこころはどちらが先であるかも未だに謎のままだ。けれども、心に沸き立つ想いが浮かんだとき、自然と口をついて出ることばがある。その美しさは、どこかで人間の可能性や世界の可能性を信じられるような力をもっている。
 Beautiful Words, Beautiful World. 綺麗なだけの世界ではない。優しいだけのことばじゃない。それでもこの美しさは、人がことばをもって世界に生きているからこそ、生まれるのだ。





だいぶ自意識マインドあふれる文章を書き連ねてきたが、つまりは本文のキャッチコピーに書いた主題とはこうしたことなのだ。


自分について言及することが恥ずかしくないわけがない。それでもわたしは岡田麿里さんの文章を読んでこのような感想を書こうと思った。岡田さんの本を読んで、わたしの感情がゆさぶられたからだ。


恥ずかしさの先に、読みやすい文体と丁寧な説明で書いた文は、きっと誰かの心をゆさぶるのだ。


そして心がゆさぶられると、人は感想のようなものを書きたくなるし、誰かに「これおもろかったよ」とか「これ好きなんだ」って伝えたくなるのだ。


この感想を岡田さんが読む日がくるかはわからない。でも、わたしはもし岡田さんがこの感想を読むことがあったら、これまで書き連ねてきたように、わたしは岡田さんのこの作品が好きだ!って伝えたい。


この書評サイトは「本が好き!」というとてもストレート名前だ。そこが気に入っている。だれかに好きと言ってもらえたら、誰だってきっと(態度はどうであれ)嬉しいと感じると思う。



最後にこの本を読んで、とっても好きになった文章(文意はきちんと文脈で確認してください)を紹介する。


谷崎の『痴人の愛』を読み「ナオミみてぇな女になりてぇなあ」(69頁)




「あーだよな、やっぱだよな、だよなだよな……やーだやだね、ほんとにやだね」(79頁)




「あーわかってますよわかってます、はいはいはいいえーいいえーい、どうなってるんでしょうねーはいはい」(80頁)




「学校に行けないことなんて、なんてこたねぇですよ」(117頁)

奥会津・昭和村探訪記

2018年6月9日

 

午前中まで本を読む。自分史および個人史の先行研究と理論をまとめている。

個人の人生や歴史を大きな歴史を、「全体」とされる歴史に位置づけるのではないあり方で、読み解くことはできないか?

あるいは、歴史家のもつ「全体」意識の構築のされ方がいかなるものかを論証することを目指している。

 

お昼前に車で郡山から須賀川を通り、天栄村を抜け、南会津町に到着。塔のへつり近くのセブンイレブンで休憩がてら、コーヒーを飲み、周辺マップを見る。

 

「旧会津郡役所」という明治期における洋風建築に興味をひかれたので、寄ってみる。

薄緑色が綺麗な堂々たる建築だ。館内は写真撮影が禁じられているので外観と周辺地図だけ撮影する。

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入館すると、受付の方が建物の説明はいりますか?と尋ねてきたので思わずお願いする。彼女はよどみなく建物の成り立ちから、会津田島の江戸時代からの歴史を説明する。説明に慣れているのだろう。他に施設に常駐の職員もいないようであるので、受付の方が館内の説明の役も担っていることがわかる。

 

中は予想よりも広く、展示もおもしろい。明治時代にこのような絢爛な役所を設立することは、結果的に地元の人々の出資と労役に依存することになる。それにも関わらず、手間のかかる洋風の建物を建てることに、新しい時代の象徴たることを願ったのだろうか。

昭和期に新しい役所が設立されることになると、この洋館は取り壊されることになったのだが、地元住民の要請できゅうきょ保存されることになったという。もちろんそのためにはお金がかかる。しかし、この洋館はすでに地元の象徴として機能していたのだろう。現在の新役所の場所から移動して保存することになった。

 

30分ほどで見学を終え、昭和村を目指す。

午後2時から、昭和村公民館で久島桃代さん(お茶の水女女子大 特別研究員・博士)による昭和学講座「農村に移住する女性と身体化される場所 福島県「織姫」の語りから」を受講する。参加者は自由で、私の他にも村外から参加された方が何人かいた。

 

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私の理解したところ、久島さんは「織姫」としてからむし織りの技術を学ぶために昭和村に移住した若い女性(独身というニュアンスを含む)がどのようにその経験を身体化するか、その過程でいかなる関係を住民や土地と築くか、織姫としての活動が移住者のみならず土地の住民にどのような影響をもたらすかについて論じている。

 

久島さんの独創的な点は、移住を完了した女性のみならず、織姫の勤めを辞し、昭和村を離れた人々にも着目していることだろう。そうした人々もまた「身体化」された経験をもとにからむしや自然に対して新たな世界観を構築していることを指摘する。そうであるからこそ、単に織姫の活動や経験だけを対象とするのではなく、「身体化」という概念を通じで、身体化された経験がその後の人生に及ぼす影響を視野に入れているのである。

 

織姫が身体化の結果を言語化することは難しい。言語化するためには自らの経験を対象化しなければならないが、経験が自分の身体と深く結びつくとき、経験のみを取り出して言葉で表現することができなくなるからだ。ゆえに久島さんはインタビューという調査方法ではなく、自ら昭和村に「住み込み」、季節の変化を感じながら、織姫の方たちと同じ空間で、同じ時間を過ごすことで、言語化できない何かをすくいとろうとしたと話す。

 

例えば、織姫の方達はからむしの作業に込められた精神性を学ぶことで、日々の生活の姿勢が変化するという。からむしに触れる手つきが代わり、からむしを擬人化するかのごとく「傷つけないように」扱うのだとされる。

織姫はからむしが趣味や収入を得るための材料以上のものにみえ、からむしを生産した農家の方の顔が自然と浮かび上がるようになるとされる。これは新たな視点の獲得であり、世界観の刷新だと思われる。

 

昭和村に移住した経験を持つ織姫にとって、その時間はその後も昭和村にとどまるにせよ、離れるにせよ、いかなる意味をもつのか。

 

「限られた時間(いずれ去ることを予期する時間)」をある土地で過ごすことになったとき、人々はどのような生活を営むのだろうか。そのような土地や場所を「動き続ける人を見る」ことが久島さんの研究の根本にある。

 

私の久島さんの研究に対する問いは次の通りである。ある土地で過ごした経験を「身体化」した人は新たな視点を獲得し、世界観を更新する。それは詩的な表現になってしまうが、「新たな身体」、「新たな自分」になったということではないだろうか。そのように考えるならば、自己の変化を元織姫の方達はどのように受け止めるのか。動き続ける人々にとって、一つの土地で過ごした後も、人生は続いてゆく。そうであれば、「その後の人生」を過去の経験に即してどのように考えていくかが、織姫のみならず移動が容易になった近現代において、重要な問いとして浮かび上がると私は考えている。

 

閑話休題

 

昭和学を終えたあと、昭和村の道の駅によると、昭和村の知り合いと再会した。一年間の間にそれぞれ立場が変わったことに驚く。時間の密度は人によって異なることを再確認した。

その後のイベントを一緒に行く予定の2人と道の駅で合流できたが、時間をもてあましたので、しらかば荘の日帰り温泉に行く。良い湯ざんす。

 

お風呂上りに、ファーマーズ・カフェ大芦屋でなかよしバンドのコンサートを見る。三島町でお世話になった方がバンドのメンバーを務めており、彼が昭和村でどのようなコミュニティを築いているのかに興味があった。

 

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なかよしバンドはすでに38年?ほど活動を続けているという。

このバンドが演奏する全ての曲はメンバーの自作である。自作自演というわけだ。

昭和村という土地で、大芦屋というカフェで、このようなバンドが存在し、演奏することについて考える。久島さんの「移動する人々」とは対照的に、「土地に留まり続ける人々」である。彼らの演奏を目的に、20人ほどの人々が肩を寄せて手を鳴らし、ときには一緒に歌う。曲は季節の変化や、時の移ろいをテーマにするものが多い。だが、身体は年をとり、生活も変化し、土地そのものもまた変わっていくなかで、同じメンバーで同じ土地で歌い続ける人がいる。

 

やがて移動するという比喩は、人間の生そのものにあてはまる。

われわれはいつか必ず死ぬ。この世を去る。

しかしそのときまでに、自分の身体をどこかの土地に預けて暮らしていく。

そうした人々の日々の暮らしを癒す歌を、なかよしバンドは歌い上げる。

 

少なくとも、そのようなバンドがある土地は、ない土地よりも幸福そうに、私の目には映るのだ。

 

 

 

 

小田嶋隆『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』ミシマ社, 2018年

書評サイト「本が好き!」に書いたものを転載します。

 

www.honzuki.jp

 

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」: 世間に転がる意味不明』を愛読しているので、本書も出版時から気になっており、本日ようやく手にとって読む。


「ア・ピース・オブ・警句」といい、『上を向いてアルコール』といい、目にした瞬間クスリとくるタイトルが良い。なんとも小田嶋さんらしい。そのセンスは章題にいかんなく発揮されているので、下に引用する。

①アル中に理由なし

②オレはアル中じゃない

③そして金と人が去った

④酒と創作

⑤「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」

⑥飲まない生活

⑦アル中予備軍たちへ

アルコール依存症に代わる新たな脅威


このように並べて書くと、本書が書こうとする内容が一目瞭然である。

小田嶋さんのすごいところはこういうところだと思う。

彼が書く文章、言葉遣いは非常に明快である。

このことは、彼が書く文章が簡略であるということではない。

彼の文章を読んでいると、「確かにそういうことってある」、「なるほどこのことはこういう言葉で言い表せるのか」ということにたびたび気がつく。つまり、あまり言葉として表現されないが、日々の生活で感じている、言葉にならない何かもやもやしたものを、明快に説明する力を持っているのだ。

だからこそ、彼のコラムを読むと、この出来事はこのように読み解けるのかと感心する。

実際私はこの本を2、3時間ほどで読み終えたが、それぞれの章ごとに「アル中」ではない私にとっても共感し、人生について再考を促す文と出会った。

本書は著者の「アル中」の体験をつづっているが、同時に人はなぜアル中のような明らかな症状にかかってしまうのか、われわれの日常生活の中にいかにアル中のような中毒に陥る契機が含まれているか、そして一度発症してしまってから抜け出せなくなるのはなぜかについて話を展開している。

そうであるならば、本書はアル中を例にしながら、人間の弱さや、弱さへの弁解のしかた、そして何かを喪失した後にどうにかして人生を再設計しなければならない「その後の生」のあり方について含蓄に富む示唆を与えていることになる。入り口は広く、奥行きは深い良書である。


大きな枠組みから言えば、われわれは結局のところ何かに依存していて、その依存先を都合次第で乗り換えているということですよ(141頁)



健全な人なら、なるほど確かに人は何かに依存しているのかもしれない。ならば、なぜ依存の対象を酒にしてしまうのか?身体をむしばむことはわかりきっているではないか、と唱えるかもしれない。

そういえる人は不幸にも質があることを理解できていないように見える。そして、依存は不可避の事柄であって、誰しも選んで何かに依存しているわけではない。人生が多様であるように、その人が抱えている問題も多様なのであって、依存先もまたしかりである。

小説家の桜庭一樹が『桜庭一樹~物語る少女と野獣~』(角川書店, 2008年)で次のような発言をしている。

今日いちばん好きなT シャツを着てきたんです。「ニコチン!ウォッカ!カフェイン!」と書いてある。そのココロは小説というものは本来道徳の教科書でも、声に出して読みたいものでも、子供に読ませたいものでもなくて、タバコ好きの人にとってのニコチン、刺激物フェチにとってのカフェインのように、常習性があって体に悪いもので、でもだからこそ人を絶望から救うことができるんじゃないの、ということなんです。




身体をそこなう毒だからこそ、救いになるという悲しい依存をしている人も世の中にはいるのだろう。まあ、小田嶋さんは自分も含めた「アル中」をクズ共と表現しているのだが。

しかし、人生にはお酒のように、あるいは「アメリカで一発当ててビッグになるぜ!」といった逃避への思考も必要である。そうした思考が馬鹿げていて非現実的なことを認めたうえで、ではその逃避の思考を持たないことは幸福であるといえるのか、楽に生きられるといえるのか、と考えてみると個人的にはそうではないと思う。


 実際にアメリカがすべての望みを叶えてくれる夢の国であるのかどうかはわかりません。でも、「アメリカンドリーム」という言葉の実質的な意味はそういうことですよ。今はそのアメリカの物語は、ずいぶんスケールダウンしてしまいました。たぶん、今の若い人たちに言わせれば、「アメリカに行けばなんとかなる、って馬鹿じゃないっすか」、でしょ?まあ、完全に正しいけど。でも、そんなに正しくて、キミたちは苦しくないのか、って私なんかは思いますね。




健全に正しく生きることだって十分に苦しい。息が詰まる。常に監視されているように気持ちになる。落ち着かない。だから人はそのはけ口を求めて、何かに依存するのでしょう?

しかし、依存した後も人生は続く。あるいは依存が途切れてもなお人生は続く。

それがたとえアル中としての生活という有害きわまりない依存であったとしても、それが途切れてしまえば、何かを失うのだ。アル中から抜け出したとしても、それは元の生活に戻るということではなく、新たな酒のない人生を再設計するという身体的にも知的にも負担が大きい作業を強いられる。そんな人生に人は耐えられるだろうか。


 とすると、減量はとりあえずできたとして、人はその減量中のニセモノの人生にどこまで耐え続けることができるのか、というのが次の課題になります。そんなもの、耐えられっこないじゃないですか。とにかく四六時中カロリーを意識しつつ、「オレは我慢してる」ということを常に自覚しながら日々を暮らしていく生き方は、あまりにもくだらない。




何かがある生活、それによって成立していた生活がすでに手が届かないものとなり、新たな生活を設計する。それは酒のある生活であったり、若さがまだある生活であったり、健康である生活だったりする。すなわち、だれもが様々な喪失を経験しながら、そのときどきの自分の環境や状況にフィットする生活を見出さなければならない。

だからこそ本書は、ある意味では誰もが通る人生の苦難に直面した後で、いかに「その後の生」を生きるかという問題を提起している。それはほとんど誰にとっても直面せざるをえない人生の課題である。


ビールを飲みながらこの本を読んでいたが、途中からやけに苦く感じた。オレはアル中じゃない。