10年ぶりに、福島に戻ってきました
イギリスの生活を終えたあとで、福島で生活をしています。
高校卒業を機に、実家のある福島県郡山市を出て、10年以上の月日が経ちました。福島出身者としては、どうしても2011年の震災が影響力をもち、自分と福島との距離をはかりかねたり、福島のことをうまく消化できない日々が続きました。
イギリスで生活しているとき、幾度となく福島のことを考え、なぜか福島に関わる記事ばかりを読んでいました。
実家の親のことを考え、福島での生活を想像しながらも、はたして福島で暮らすことが自分の人生にとって良いことかどうかがわかりませんでした。福島で暮らすことに納得できるかがわかりませんでした。
小松理虔さんという存在
そんなとき、小松理虔さんといういわき市小名浜出身のフリーライターの記事を読みました。
これだと思いました。
理虔さんは福島県のテレビ局に就職したあと、中国上海で編集者として働き、小名浜に戻ってきて、蒲鉾メーカーで働いていた方です。小名浜ではフルタイムの仕事をもって働くかたわら、ウェブマガジンがオルタナティブスペースを管理し、日々を過ごしています。
理虔さんの記事を読んでいると、人は土地に拘束されるのではなく、土地を生きる(活きる)存在だと思えます。もちろん、人と土地、地域の関係は何不自由なくというわけにはいきません。しかし、それでも人は自らが住まう場所で、日々の営みをこなし、そこに生きることの喜びと楽しさを見出していく生き物だと思いました。そうでなければ、人はその場所で暮らしていくことができないのだと思います。
その町で暮らすこと
詩人の大岡信氏の作品に調布Ⅴという作品があります。
まちに住むといふことはまちのどこかに好きな所を持つといふこと。
まちのどこかに好きな人がゐるといふこと。
さもなけりや、暮らしちやいけぬ
その場所には、好きな所があり、好きな人がいる。
そんなことを見つけられたら、どこでだって生きていける気がする。
2018年3月29日