博物学探訪記

奥会津より

小田嶋隆『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』ミシマ社, 2018年

書評サイト「本が好き!」に書いたものを転載します。

 

www.honzuki.jp

 

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」: 世間に転がる意味不明』を愛読しているので、本書も出版時から気になっており、本日ようやく手にとって読む。


「ア・ピース・オブ・警句」といい、『上を向いてアルコール』といい、目にした瞬間クスリとくるタイトルが良い。なんとも小田嶋さんらしい。そのセンスは章題にいかんなく発揮されているので、下に引用する。

①アル中に理由なし

②オレはアル中じゃない

③そして金と人が去った

④酒と創作

⑤「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」

⑥飲まない生活

⑦アル中予備軍たちへ

アルコール依存症に代わる新たな脅威


このように並べて書くと、本書が書こうとする内容が一目瞭然である。

小田嶋さんのすごいところはこういうところだと思う。

彼が書く文章、言葉遣いは非常に明快である。

このことは、彼が書く文章が簡略であるということではない。

彼の文章を読んでいると、「確かにそういうことってある」、「なるほどこのことはこういう言葉で言い表せるのか」ということにたびたび気がつく。つまり、あまり言葉として表現されないが、日々の生活で感じている、言葉にならない何かもやもやしたものを、明快に説明する力を持っているのだ。

だからこそ、彼のコラムを読むと、この出来事はこのように読み解けるのかと感心する。

実際私はこの本を2、3時間ほどで読み終えたが、それぞれの章ごとに「アル中」ではない私にとっても共感し、人生について再考を促す文と出会った。

本書は著者の「アル中」の体験をつづっているが、同時に人はなぜアル中のような明らかな症状にかかってしまうのか、われわれの日常生活の中にいかにアル中のような中毒に陥る契機が含まれているか、そして一度発症してしまってから抜け出せなくなるのはなぜかについて話を展開している。

そうであるならば、本書はアル中を例にしながら、人間の弱さや、弱さへの弁解のしかた、そして何かを喪失した後にどうにかして人生を再設計しなければならない「その後の生」のあり方について含蓄に富む示唆を与えていることになる。入り口は広く、奥行きは深い良書である。


大きな枠組みから言えば、われわれは結局のところ何かに依存していて、その依存先を都合次第で乗り換えているということですよ(141頁)



健全な人なら、なるほど確かに人は何かに依存しているのかもしれない。ならば、なぜ依存の対象を酒にしてしまうのか?身体をむしばむことはわかりきっているではないか、と唱えるかもしれない。

そういえる人は不幸にも質があることを理解できていないように見える。そして、依存は不可避の事柄であって、誰しも選んで何かに依存しているわけではない。人生が多様であるように、その人が抱えている問題も多様なのであって、依存先もまたしかりである。

小説家の桜庭一樹が『桜庭一樹~物語る少女と野獣~』(角川書店, 2008年)で次のような発言をしている。

今日いちばん好きなT シャツを着てきたんです。「ニコチン!ウォッカ!カフェイン!」と書いてある。そのココロは小説というものは本来道徳の教科書でも、声に出して読みたいものでも、子供に読ませたいものでもなくて、タバコ好きの人にとってのニコチン、刺激物フェチにとってのカフェインのように、常習性があって体に悪いもので、でもだからこそ人を絶望から救うことができるんじゃないの、ということなんです。




身体をそこなう毒だからこそ、救いになるという悲しい依存をしている人も世の中にはいるのだろう。まあ、小田嶋さんは自分も含めた「アル中」をクズ共と表現しているのだが。

しかし、人生にはお酒のように、あるいは「アメリカで一発当ててビッグになるぜ!」といった逃避への思考も必要である。そうした思考が馬鹿げていて非現実的なことを認めたうえで、ではその逃避の思考を持たないことは幸福であるといえるのか、楽に生きられるといえるのか、と考えてみると個人的にはそうではないと思う。


 実際にアメリカがすべての望みを叶えてくれる夢の国であるのかどうかはわかりません。でも、「アメリカンドリーム」という言葉の実質的な意味はそういうことですよ。今はそのアメリカの物語は、ずいぶんスケールダウンしてしまいました。たぶん、今の若い人たちに言わせれば、「アメリカに行けばなんとかなる、って馬鹿じゃないっすか」、でしょ?まあ、完全に正しいけど。でも、そんなに正しくて、キミたちは苦しくないのか、って私なんかは思いますね。




健全に正しく生きることだって十分に苦しい。息が詰まる。常に監視されているように気持ちになる。落ち着かない。だから人はそのはけ口を求めて、何かに依存するのでしょう?

しかし、依存した後も人生は続く。あるいは依存が途切れてもなお人生は続く。

それがたとえアル中としての生活という有害きわまりない依存であったとしても、それが途切れてしまえば、何かを失うのだ。アル中から抜け出したとしても、それは元の生活に戻るということではなく、新たな酒のない人生を再設計するという身体的にも知的にも負担が大きい作業を強いられる。そんな人生に人は耐えられるだろうか。


 とすると、減量はとりあえずできたとして、人はその減量中のニセモノの人生にどこまで耐え続けることができるのか、というのが次の課題になります。そんなもの、耐えられっこないじゃないですか。とにかく四六時中カロリーを意識しつつ、「オレは我慢してる」ということを常に自覚しながら日々を暮らしていく生き方は、あまりにもくだらない。




何かがある生活、それによって成立していた生活がすでに手が届かないものとなり、新たな生活を設計する。それは酒のある生活であったり、若さがまだある生活であったり、健康である生活だったりする。すなわち、だれもが様々な喪失を経験しながら、そのときどきの自分の環境や状況にフィットする生活を見出さなければならない。

だからこそ本書は、ある意味では誰もが通る人生の苦難に直面した後で、いかに「その後の生」を生きるかという問題を提起している。それはほとんど誰にとっても直面せざるをえない人生の課題である。


ビールを飲みながらこの本を読んでいたが、途中からやけに苦く感じた。オレはアル中じゃない。