博物学探訪記

福島県郡山市より

岡田麿里『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』文芸春秋, 2017年

 

書評サイト「本が好き!」に書いたものを転載します。

 

www.honzuki.jp

 

岡田麿里という名前を覚えたのは、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)というアニメ作品を見たときだが、それ以前から気に入って何度も見ていたアニメのいくつかは、岡田さんがシナリオを手がけた作品だった。


高校生のときに『true tears』(2008年)を熱心に見ていたことをよく覚えている。富山で暮らす主人公が絵本作家になる夢を志ながら、自分の夢を両親に素直に話すことができず、地元の伝統舞踊をいやいやながら学ぶなかで、不思議な少女と出会い、自分を肯定し、自分の気持ちをさらけ出していくという話だった。


主題が「自分をさらけだすこと」、これが岡田麿里の作品のうちで、好きになったものに共通していることだ。『とらドラ!』(2008年)しかり、『凪のあすから』(2013年)、『キズナイーバー』(2016年)、『心が叫びたがっているんだ。』(2015年)などがそれにあたる。


『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』も、文章を書く上でのレトリックや比喩的な構成はあるだろうが、岡田麿里さんの人生や心のうちをある程度さらけ出した本であるといえるのだろう。


だが、このような作品を読んだとき、私は「書評」や「批評」、「論評」といった言い回しで作品を論じるこができない。私が岡田さんの人生についてあれこれ言えることはほぼないし、「へー、岡田さんって東京コーヒー(登校拒否)してたから、あの花みたいな作品書いてたんっすね。大変でしたね」とか、「でも登校拒否から、今では売れっ子ライターなんだからすごいっすよね」とか、言葉の表現はどうであれ言いたくないし、登校拒否という経験が彼女にとってどのような意味をもっていたかは、本を読んでもたぶん理解することはできないからだ。


また、たとえ自分が言及して事柄に対しても、他人から訳知り顔で何か言われると腹が立つことってみなさんありませんか?わたしはとてもたくさんあるので、「うっさい、お前に言われたくないんじゃ」と常に思っています。


書評や批評は、ある論旨に即して論理的な説明をするという意味では、自分の感情に関わらず注釈や文献を交えながら客観的に書いていくことができる。ただし、論理というのがある世界観に対する信仰の上に成り立つという意味では狂気と変わらないという前提に注意を払う必要はあるが。


けれども、自分の感情がゆさぶられた作品に対して、なぜ自分がそのような感情を抱いたのかを論理的に説明することはできない。感情は自分の経験や人生に依存して発露するものであり、感情に由来する文章を書くことは、やはり「感想」と呼ぶことがふさわしいと思う。そして感想とは、自分の感情を込めるものであるならば、少なからず「自分をさらけだすこと」につながる。文章を書いた経験がある人は、このことを認めてくれる気がする。


という長い長い前書きを書いたうえで、岡田麿里さんの作品への感想を述べる。


true tears』がすごい好き。雪国の育ちだからあの風景がもうたまらない。綺麗だと思う。オープニングのアニメーションで、紅葉のもとに木の葉が舞い散る光景に鳥肌が立つ。そのあと、むぎや踊りが流れる姿は、なんか知らないが涙が出た。


わたしの『true tears』愛はなかなかのもので、実際に舞台となった富山県城端に2回行き、むぎや祭りにも参加したことがある。なんというか、好き好き大好き超愛してるというレベルである。


true tears』の湯浅比呂美というキャラクターを書いてくれたマリーを7代先まで祝福したい。

私の書く女子は「男性の夢を壊す」とか「女の嫌なところが濃縮されている」と言われていた(217頁)



と岡田さん自身は書いているが、わたしは好きだ。とても好きだ。
比呂美は容姿端麗で成績も優秀だが、主人公に対して不器用で、感情と挙動が一致せず、表情を変えないままに空回りしている姿が可愛すぎて鼻血が出そうになる。

岡田さんが言うように、アニメーションのキャラクターでありながら「ほんの少しだけ現実っぽい手触り」をもっている。比呂美が能力的に優秀であることと、恋愛感情を交えた人間関係に不器用な点は両立するし、言ってしまえば、誰だって自分が本気になった相手には不器用である、ということが少しといわずかなり現実っぽい。

ちなみにわたしは、石動乃絵も好きなので、どちらが好きかという不毛な争いはせずに、どっちも好き!という博愛の精神をファンのみなさんは持てば良いと思っている。まぁ、あいちゃんはね。はは。


『心が叫びたがっているんだ。』を見たときには次のような感想を書いた。

少女の平穏は自ら投げかけたことばによって終わりを告げる。夢見がちな少女のおしゃべりなことばは、あまりにも彼女を取り巻く環境に大きな波紋を投げかけた。彼女の他愛ないことばによって、両親は決別の道を歩むこととなる。
 少女にどれほどの罪があったのだろうか。彼女は悪かったのか。わが身を振り返れば、ことばの意味など考えることなく、まるで呼吸をするようにことばを吐き出した経験があるだろう。そのことばは、もちろん時には他者を傷つけることもあった。しかし、そうしたちょっとした苦い経験を重ねることで、幼子は他者に対する配慮のしかた、言うべきことと言ってはならないことの境界を、身をもって学んでいくものだろう。
 だからこそ、少女の親が彼女に投げかけた言葉はあまりに重い。ちょっとした失敗ではすまされない、少女の生涯の身の振り方を規定してしまう、酷いことばだった。だが、その一方で少女の言葉もまた、確かに両親の人生を大きく変化させてしまったのだ。どちらが悪い、とはいえない。ただ一つ言えることは、ことばとは時にあまりにも残酷に他者を、あるいは自己を傷つけてしまうということだ。
 ではことばをからだの奥底にしまいこみ、からだがことばを拒否するようなあり方は、はたして人を幸福に導くのだろうか。いいたいけど言えない、いいたいのに言葉にできない、そのもどかしさは誰しも一度は経験したことがあるだろう。そうした苦悩が生涯にわたって続けられるとすれば、その絶望はいかなるものであろうか。
 もちろん言葉だけが意思表示の全てではない。目は口ほどにものを言うし、身振りが手振り、表情から伝わる事柄は少なからずある。それは時にことばで伝える以上の感情を他者に移入することだってできる。だが、それはやはり限られた意思伝達の方法といわざるをえない。
 人間は意思を表現することで他者に気持ちを伝える。その表現の手段が多くはないからこそ、その中で比較的有用なことばという手段を用いて他者と意思疎通を図る。そのとき、確かに他者とわかりあえたと思えるような瞬間がある。その喜びは、たとえ言葉が他者を傷つけることがあったとしても、否定できるものではない。
 ことばを交し合う喜びは、自己と他者の関係に変化をもたらす。ひょっとすれば、われわれが共同体を形成していられるのは、この喜びがあるからかもしれない。自分のことばに反応が返ってくる。自分の言葉が相手に届く。このくすぐったい喜びが、人と人をつなげるのかもしれない。
 少女がお腹を痛めながら投げかけたことば、調子のはずした歌声は、だからこそクラスメイトの心を打った。ことばは実行委員の皆に伝播し、委員のことばがクラス全体に広がった。美しい光景だと思う。僕自身は、自分が学生のときにこうしたことばを素直に受け止めることができなかった。他者のことばを軽んじて、自分の領域に立ち入らせないようにしていた。それも一つの身を守る術ではあった。しかし、衆目の前で、一声発するその緊張を、その苦労を少しでも想像していれば、無下にことばを無視することの冷酷さに対する反省がありえたかもしれない。今でもそうした想像を僕は上手くできない。
 時おり音楽に合わせて挿入される校舎のシーンや、何気ない学生生活の様子は、やがて去り行くことを前提としているからこそ、儚くも美しいものとして目に映る。やはりあの時は特別なのだと思わせる何かがある。
 そうした美しいものと出会ったとき、タイトルのことばが自然と頭に浮かんでくる。心が叫びたがっているんだ。人がなぜことばを発するようになったのかはわからない。ことばとこころはどちらが先であるかも未だに謎のままだ。けれども、心に沸き立つ想いが浮かんだとき、自然と口をついて出ることばがある。その美しさは、どこかで人間の可能性や世界の可能性を信じられるような力をもっている。
 Beautiful Words, Beautiful World. 綺麗なだけの世界ではない。優しいだけのことばじゃない。それでもこの美しさは、人がことばをもって世界に生きているからこそ、生まれるのだ。





だいぶ自意識マインドあふれる文章を書き連ねてきたが、つまりは本文のキャッチコピーに書いた主題とはこうしたことなのだ。


自分について言及することが恥ずかしくないわけがない。それでもわたしは岡田麿里さんの文章を読んでこのような感想を書こうと思った。岡田さんの本を読んで、わたしの感情がゆさぶられたからだ。


恥ずかしさの先に、読みやすい文体と丁寧な説明で書いた文は、きっと誰かの心をゆさぶるのだ。


そして心がゆさぶられると、人は感想のようなものを書きたくなるし、誰かに「これおもろかったよ」とか「これ好きなんだ」って伝えたくなるのだ。


この感想を岡田さんが読む日がくるかはわからない。でも、わたしはもし岡田さんがこの感想を読むことがあったら、これまで書き連ねてきたように、わたしは岡田さんのこの作品が好きだ!って伝えたい。


この書評サイトは「本が好き!」というとてもストレート名前だ。そこが気に入っている。だれかに好きと言ってもらえたら、誰だってきっと(態度はどうであれ)嬉しいと感じると思う。



最後にこの本を読んで、とっても好きになった文章(文意はきちんと文脈で確認してください)を紹介する。


谷崎の『痴人の愛』を読み「ナオミみてぇな女になりてぇなあ」(69頁)




「あーだよな、やっぱだよな、だよなだよな……やーだやだね、ほんとにやだね」(79頁)




「あーわかってますよわかってます、はいはいはいいえーいいえーい、どうなってるんでしょうねーはいはい」(80頁)




「学校に行けないことなんて、なんてこたねぇですよ」(117頁)