博物学探訪記

奥会津より

BとCについて

 

 前方にノートパソコン、スピーカーからはsportifyから流れるビル・エヴァンスの宗教的やさしさに聞こえる “Waltz For Debby”、右手はときおりマグカップに淹れたミルクティーをすすり、下半身はこたつにつっこまれている。Bが書いた手紙の一通目にときおり目を通しながら、キーボードをタイプする。手紙の形式をとっていながらも、その論旨の運び、語り口はやはりBらしさがにじみでているように思う。

 

 Bの手紙を読んで僕の書くことがおおよそ決まる。もしかすると、読んでいなくとも僕は同じような話をしたのかもしれない。「ファック・エスニシティ!ファック・ユア・エスニシティ!」。なるほど。素敵な口上だ。そんなBの視座は、手紙という手段をもって明確に指名を受け、宛名として記された僕やCとの関係をどのように捉えるのだろうか?そもそも手紙というものをやりとりするわれわれの関係とはいったい何なのだろうか?互いに相異なる「終わりなき日常」を生きるわれわれは、住む場所も、生活のしかたも、交友関係もずいぶん違っているのだと思う。けれどもこの一点に関しては確かな実感をもって共通している。すなわち、2012年から2014年まで東京都は国立市にある某大学の大学院に入院していたことだ。われわれ三者の関係の基盤はこのときに作られ、そして派生していった。もちろん、僕とBの関係や僕とCの関係はこのようなくくりでくくられるものではないけれど。

 

 僕はこの手紙においてBとCについて、あるいは二人と僕の関係について書いていこうと思う。君たちは僕がBの手紙について感じたことと、同じようなことを僕の手紙で感じるのかもしれない。

 

ビル・エヴァンス “Danny Boy”)

 

 手紙を書こうと誘ってきたBからの連絡がわれわれの関係を象徴しているのだと思う。つまり、僕やCはそんなことをまず言い出さない。その点において僕とCはよく似ているが、言い出さない理由の内実はおそらく異なっている。僕はそもそも人間関係に億劫さを感じ、特に自分から広めたいとか、久闊を叙したいなどとはほとんど考えない。「普段考えていること、見聞きして感じたことなどを互いに披露してみて、僕らのあいだに望むべき思索と発話のテーブルに乗せること」自体にあまり興味をひかれない。なぜなら、僕は自分が考えたことや体感したことを自分に向けて表すのは好きだが、他人に向けて話したいとは通常考えないからだ。すると僕は困ったことになる。そもそも手紙で書きたいことが特にないのだ。というよりも、BとCに向けて話したいことが特にないのだ。僕がこのような性格の持ち主であることを君たちはよく知っているのだろうね。だからこそ、ふらふらと住む場所を変える僕のもとをたびたび訪ねては、あれしろこれしろと言ってくるのだろうから。

 

 僕の性格も難儀なものだが、Cもなかなかに変わった嗜好をしている。僕が見るに、Cは愛想が良く社交的で、他者に向けてひょうきんな態度をとる。けれども、Cが求めるのは「終わりなき日常」におけるその場の誰かであって、手紙なんぞを介して語り合う誰かなどではないのではなかろうか。Cにとって「終わりなき日常」こそが基本的に関心を向ける対象なのであり、そこから漏れた、あるいは過ぎ去った人々に対しては特に関心が向かないのだと思う。となると、2012年から2014年までは「終わりなき日常」の一部であった(のかもしれない)僕やBはCにとってはすでに通り過ぎて行った過去の残照なのかもしれない。そんなCがどんな手紙を僕やBに向けて書くのか、いささか興味が惹かれるし、そのような行為自体にどこかで「終わりなき日常」では満足しえない人間の姿が浮かび上がる。われわれは望めば、酒を共に飲む相手や、日常の愚痴を言う相手、あるいは自分の趣味を共有する相手は比較的容易に見つけられる。もちろん人口数千人の町村で暮らす僕にとってはそれすら高望みになる場合もあるのだが。しかし、そのような「終わりなき日常」を共に支え合う知り合いができたとして、それなら僕は、君たちは、われわれに何を望むんだい?

 

(Yes they’re sharing a drink they call loneliness, but it’s better than drinking alone)

 

 Bは上の問いに次のように書いている。「ただ、個々が自分の考えていること、相手の手紙を読んだ上で考えたことなどを、それぞれの文体において表現する、この点だけにはいくらかの力が注がれることを期待してもよいのでしょうか?」。「この手紙交換という企画は、各人に特段、詳細な返答を求む、という性質のものではないと理解しています。ちょっとした思考の収斂過程、あるいはたんに文章を書いてみる機会ぐらいのつもりで、お二人が何かを提示してくれることを望みます。ちょっとは今回の手紙についてのリアクションも欲しいですけどね」。なるほど、この手紙は君が望むように、文章を自分なりに書くことに関しては良い機会になるのだろう。しかし、僕はこのときこう考える。それでは、なぜ書いた手紙を他でもない僕やCに差し出すのだろうか?もしかしたら、僕が知らないだけで、Bは知り合った人々に手紙を差し出す習慣(あるいはそれに類似した行為)があるのかもしれない。僕やCはそのうちの一人なのであり、Bの膨大な人間関係にあってはすでに習慣化した行為なのかもしれない。しかし、仮にBにとって僕やCが手紙を出す最初の相手であり、それはBの「終わりなき日常」の世界においては見つけることが難しい対象であるのだとすれば、いささか事情は変わってくるように思うし、そこにBとCの違いがあらわれる。つまり、「終わりなき日常」に満足せず日常の外に目を向けるBと、日常の外を切り捨て(あるいは「日常」をその都度入れ替えて?)中に溶け込もうとするC、といえようか。

 

 Bは一通目の手紙において、固有名辞がもたらす存在拘束性を仮象しながら、その仮象をはぎとる二人の人物を紹介してくれた。その理屈を、自己ではなく他者にあてはめると、どうなるのだろうか。具体的にいえば、そう、われわれにあてはめるのであれば。この手紙は宛名が書かれた便所の落書きなのだろうか?

 

(「あぁどこに 私の音づれの手紙を書かう!」荒寥地方)

 

 さて、このように君たちに向けてそれぞれ問いを発してきたわけなのだが、僕は僕で答えていかなくてはならない。最初に述べたが、僕はBから提案を受けなければ、自分から手紙を書こうなんて思わない。けれども、提案されれば受け入れ、このように手紙を書く。つまり、僕は君たちに対して受動的なのだ。となると、僕はBのように手紙を介して二人に託す望みなぞないが、二人に何か望まれた場合は、「終わりなき日常」を超えて対応する、ということだ(現在時刻はAM1:54)。この心情を言葉にするのは難しいが、強いて表現すれば、誠意と義理が合わさった感覚が近い。そしてこの感覚は、BやCと共に過ごした時間を回想しない限り芽生えない感情である。このとき僕は、Hとして僕に期待されていることに応えようとしているのだ。そして、君たちがHに期待していることとは、こうゆうことなのだ。それは逆説的に、BとCだから応えようとするのだ。僕はこのようにして、ときどき自分の立ち位置を振り返る。僕がHとして自分に望むこと、他者に対してあるべき姿勢として僕に課すことを確認する。そうして僕はHという名辞に理念を注いでいく。それはBが言うように、Hでもある僕なのかもしれない。それとは反対に、Hでなくてはならない僕なのかもしれない。僕はBとCのことを思い浮かべながら、自分について記述していく。自分なりのBとCを描いていく。ただし、その起点は僕の内にあったのではない。僕を呼ぶ外からの声、すなわち「ちくま、ヒロ宛」という語り出しの手紙にあった。その呼びかけはそれなりに身勝手なものだし、勝手に望まれたものだ。僕が応える理由は義理以外にあまり思いつかないのだが、僕が呼びかけられたと感じたのは確かなことだ。それは、ノイジーな語り掛けだけれども、ビル・エヴァンスが奏でる音の調べに、教会の中で聴くような神聖さとやさしさを勝手に感じるのと似たようなことなのかもしれない。

 

ドビュッシー「月の光」)

 

それでは、ごきげんよう。また来月。