博物学探訪記

奥会津より

ニーチェにおける閉ざされた感応 ――〈ディオニュソス〉の翳りと〈権力への意志〉への没落――

 1887年に刊行された『道徳の系譜』は、副題および巻頭言にあるように、「一つの論駁書」であり、「最近公刊された『善悪の彼岸』の補遺および解説」として世に出た。ゆえに、ニーチェが表現手段としてこだわったアフォリズムの形式が影を潜め、学術論文のような文章が書き連ねられている。訳者の信太正三が解説するように、『ツァラトゥストラはこう言った』への誤解に対して『善悪の彼岸』を執筆し、さらにその『善悪の彼岸』への誤解に対して本書を執筆するなど、当時のニーチェは自身の思想が社会に理解されず、その対応に追われる混迷の中にあった。その結果、ニーチェが思想家として打ち出した初期の思想は変質していき、『道徳の系譜』は「彼の生涯と思想の道程の分水嶺ともいうべき象徴的意味をになっている」のである(624-625頁)。

 

 ニーチェ思想の分水嶺である本書の意義を捉えるためには、ニーチェがそれまでに展開してきた思考や概念を把握する必要がある。ゆえに以下では、ニーチェの総特集が組まれた『現代思想』第4巻12号(青土社, 1976年)の各論考をもとに、ニーチェを読む際に注意しなくてはならない彼の経歴や思想、概念について述べる。

 

 ニーチェ実証主義的古典文献学者としてのキャリアに見切りをつけ、思想家としての独自性を発揮したのは1889年に『音楽の精神からの悲劇の誕生』を出版した際であった。この『悲劇の誕生』では、芸術を芸術たらしめている概念として「ディオニュソス的」と「アポロ的」という概念が提起されている。「ディオニュソス」とは激情と陶酔の神であり、生の根源に潜む懊悩する意志そのものである。反対に、「アポロ」は静観と夢想の神であり、根源的意志が現象的に分化する中で夢見た華やかな表象の神である(三島憲一ニーチェ著作解説」304頁)。この両者の調和による悲劇を描いたギリシャ人こそが芸術を創造したのであり、ニーチェの世界観においては自身が文献学者として慣れ親しんだ古代ギリシャ世界こそが基底をなしている。

 

ディオニュソス的〟という言葉で表現されているのは、一者性への衝動であり、個人、日常、実在を越え、消滅の深淵を越えて包越するはたらきである。つまり、それは、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態へと激情的に、かつ苦悩しつつ溢れ出るはたらきであり、あらゆる変転のうちにありながらも、等しいもの、等しく力あるもの、等しく至福なるものとしての生の全体的性格にたいし、狂喜しつつ肯定を発語するはたらきである。それは、生のもっとも恐ろしい、もっとも問題とすべき諸特性をも是認し、神聖視する大なる汎神論的な共歓と共苦である(『力への意志』)。

 

 ディオニュソス的世界観が提示しているのは、主客の対立といった二元論を越えて、一者 性、すなわち一元論的な「生」の根源・全体性の視点から世界と人間の和解・回復・調和を展望した思想である(山崎庸佑「ニーチェ現象学」86頁)。主客二元を基調とした近代哲学において、人間と世界、人間と自然の一元的把握による全体的「生」を希求したことが、ニーチェの最も偉大な点であるだろう。

 

 この一元論の追求はニーチェの著作の随所に看取できる。山崎庸佑によれば、ツアラトゥストラ=ニーチェのいう「身体」や「自己」は、「力への意志」と呼ばれる根源の生のことであり、「大地」や「生」とほぼ同義であるとされる(同上, 87頁)。また、足立和浩によれば、ニーチェにとって「自己」とは「仮面」のことであり、自己解釈のたびに新たな仮面が想定され、それが永遠回帰として繰り返されると、やがて自己と仮面は区別ができなくなり、無名性の主体、あるいは言語(エクリチュール)のみが生ずるとされる(足立和浩永遠回帰としての『ニーチェ』:来るべき『後語』のためのプロペドイティーク」)。ニーチェの用語法は上記の概念を考慮して検討しなければならない。ニーチェは個別なものが個別でありながらなお、自然や世界、根源的かつ全体的な生へと「開かれていく」ことを夢想していたのである。

 

 さて、以上のニーチェの思想や概念を踏まえた上で、『道徳の系譜』を検討してみると、ニーチェの思想的変遷が明らかになると思われる。まずは、『道徳の系譜』がいかなる論述を提示しているのかを確認したい。以下は筆者による本書の要約である。

 

1. 人間主体は、思考/〈活動〉によって形成される。

2.〈活動〉に〈作用〉するのは〈権力への意志〉である 

3.〈意志〉における〈約束〉によって、人間は時間性を手に入れ、偶然的から必然的な存在となる。

4.〈約束〉できる意志をもつ人間とは哲学者・貴族であり、彼らは自発的で責任の自覚をもち、自己には畏敬を、同格者には尊敬を、奴隷へは感情の放埓を向ける特徴をもつ。これこそが〈良心〉である。

5.〈約束〉ができない人間とは奴隷であり、彼らは外発的なため命令者を必要とする。

6. 生の本質とは他者への侵害・抑圧・搾取および〈苦悩〉を与える悦楽である。

7. 良心の疚しさが、意識の内面化および非利己的価値の創造、他者への暴力的働きかけをもたらした。

8. 良心の疚しさの起源は、①人間が所詮は社会と平和との制縛にからめこまれているのを悟ったとき、②種族は徹頭徹尾ただ祖先の犠牲と功業とのおかげで存立するという確信、負債の意識をもったときである。

9. キリスト教の普及は人間を「崇高な奇形児」としてきたが、それは〈隣人愛〉の処方による。

10. 近代世界では〈意志の自由〉を欠いた畜群的人間の大発生により、専制的支配の準備がなされる。

11. 人間の〈権力への意志〉とは、禁欲主義的理想による〈没意味〉からの離脱である。

(引用元は次を参照

hinasaki.hatenablog.com

 

 

 これらの理路において、基底となるのは〈権力への意志〉であり、生の全体的根源が「ディオニュソス的」なものから変容したことがわかる。その結果、ニーチェの思想は「人間と世界、自然との調和」から「力による支配」の肯定へと切り替わった。

 

真実に約束することのできるこの自由となった人間、この自由なる意志の支配者、この主権者、――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼びおこすか――彼はこれら三つのものすべての対象となるに〈値する〉――を、知らないでいるはずがあろうか? 同時にこの自己にたいする支配とともに、いかにまた環境にたいする支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手にゆだねられているかを、知らないでいるはずがあろうか?(426頁, 下線筆者)

 

 現実の進歩はつねにより大なる権力への意志と進行という形であらわれ、そしてつねにおびただしい数の弱小な権力を犠牲にすることによって遂行されるということである。それどころか、ある〈進歩〉の大きさは、そのために犠牲にされねばならなかったものすべての量のいかんによって測定される。(453-454頁)

 

 この理路には二つの大きな瑕疵がある。一つは、根源的生とは、芸術のごとく、世界や自然との感応によって呼び起こされるものであったが、〈権力への意志〉は明らかに思考によって形成されたものである。つまり、ニーチェがあれほど軽蔑した理性によって構想された〈権力への意志〉としての「生」とは、果たして全体的かつ根源的な生であるといえるだろうか。二つ目は、仮に〈権力への意志〉を生の根源として措定するならば、その意志がふるった自然や世界への侵害・抑圧・搾取もまた肯定されるはずであり、つまるところニーチェが批判する近代世界の在り方が肯定されるということである。結果として、貴族や哲学者が二元論的に世界を把握し、支配し、形骸化することに対して、ニーチェは批判の術を失うのである。

 

 この思想的変遷がもたらすものを、ニーチェ自身が予期していた可能性がある。というのも、ツァラトゥストラが10年こもった山から人里に下りていくとき、「わたしも、あなたのように没落しなくてはならない」(傍点筆者)と太陽に向かって呼びかけるからである。

 

 さらに、この〈権力への意志〉がもたらす没落こそが、〈永劫回帰〉と〈超人〉への呼び水でもある。「力が慈しみとかわり、可視の世界に降りてくるとき、そのような下降をわたしは美と呼ぶ」。ツァラトゥストラはこう言った

 

 

筆者レジュメへのコメントと応答

 

コメント:

「明らかに思考によって形成された」で引っかかりました。権力への意志は理性的活動の産物といえる根拠はありますか?もちろん、長年の思索の末に結晶したものではあると思うのですが、もっと直観的な、もしくはニーチェ自身の欲望や願望の具現という点で情念的な気もするんですよね。権力への意志は理性によって構成されたという割には理詰っておらず『道徳の系譜』の中でも強引な適用が目立つため、本当にそうなのかと疑問です。それが、畜群に対して反復的になされる攻撃的な記述、もしくは価値判断の基準や内実を最後まで理論化できなかったことにつながっているのかもしれません。

 

前ページの要約で触れられているように、確かに人間主体は思考/〈活動〉によって形成され、かつまた〈活動〉に〈作用〉するのは〈権力への意志〉だと思います。けれど、人間主体は超えでて超人たろうとしたニーチェはそれこそ世界や自然との感応を通じて<権力の意志>を獲得/直観したのではないかというのは解釈的すぎるかもしれませんが、可能性としてはあるのかなと。

 

コメントへの応答:

「最後に次のような問題がある。すなわち、われわれは意志をば真に作用するものとして認めるか、われわれは意志の因果関係を信ずるか、という問題である。もしわれわれがこれを肯定するとすれば――根本のところ、意志の作用力を信ずることは、われわれが因果関係そのものを信ずることだが――、そうならわれわれは意志の因果関係をば唯一の因果関係として仮定することを試みなければならない。もちろん〈意志〉は、〈意志〉にたいしてだけ作用しうるのであって――〈物質〉(Stoff)にたいしてではない(たとえば、〈神経〉にたいして作用することはできない――)。要するに、われわれは思いきって次のような仮説を立ててみなければならない。すなわち、〈作用〉が認められるところではどこでも意志が意志に作用しているのではないか――そしてあらゆる機械的な事象は、そのなかにある力がはたらいているかぎり、それはまさに意志の力、意志の作用ではないか、という仮説である。――かくて結局においてわれわれの衝動的生の全体を、意志の唯一の根本形態――すなわち私の命題にしたがえば、権力への意志――の発展的な形成および分岐として説明することができたなら、また、すべての有機的機能をこの権力への意志に還元して、そのうちに生殖や栄養の問題の解決――これは一つの間題だが――をも見いだすことができたならば、それによってわれわれはあらゆる作用する力を一義的に権力への意志として規定する権利を手に入れたことになろう。内部から観られた世界、この〈叡知的性格〉にしたがって規定された特色づけられた世界、―― これこそはまさに〈権力への意志〉なのであって、そのほかの何ものでもないだろう」(75-76頁)

 

 この文からわかるとおり、〈権力への意志〉という概念は、「衝動的生の全体」の作用概念として「仮説」されたものです。この「仮説」づける作業をコメントさんが言うようにニーチェの「直観」として解釈することも可能ですが、その場合においても、直観として得た「権力への意志」という概念を「生の全体」と関連付けることは、論理的思考であり、因果で説明するものです。しかし、その論理性に潜む理性そのものを疑ったのがニーチェの思想ですので、ここではニーチェ自身の論理性に潜む「理性」(論理付け)を問題にしなくてはなりません。なぜ、「生の全体」の根源的作用因を「権力への意志」として仮説できるのか、それが直観においてであるのならば、その直感が自然や世界との調和において発露されたものであるとどうして言えるのかが説明されていません。ニーチェがもし「人間と世界、自然との調和による支配」を字義通りに「調和」的かつ直観的に発想したのであれば、コメントさんや私が指摘するような理論的欠陥も本来問題とはならないですし、それが調和的に感応されるのではないでしょうか。

 

コメント:

「〜措定するならば…肯定されるはず…」の両者のつながりがわからなかったです。措定することと肯定されるということの関係性については説明が欲しい(口頭でされるかもですが)かなと思いました。


確かに自然支配は権力の意志の発現で、人間ひいては万物の根源的な衝動だとは思うのですが、ニーチェはそれが畜群道徳という形式で行使されていることを問題化しているのであって(したがって、そうした道徳がもたらす自然支配は否定される)、426pの引用にあるような主権者による自然支配のみを肯定しているのではないか、筆者さんの論じられた意味での措定と肯定はそんなに必然的な関係にないのではないかと思いました。


してみると、人間の位階のように、権力の意志のうちにもニーチェなりの序列や価値判断があると思ったのですが、どう考えられますか?

 

コメントへの応答:

 生の根源的作用としての「権力の意志」によってなされたことの全てが自然や世界の結果なのであり、そこに人為がいかに関わろうが、その人為もまた自然状態(権力の意志)の結果であるといえるのではないか、と私は解釈します。つまり「畜群道徳」だろうが「貴族道徳」だろうが、「権力の意志」のあらわれであるので、その一方を批判することは理性あるいは道徳的判断基準を設定しなければできないはずではないでしょうか。しかし、ニーチェはそれを「畜群道徳」として価値判断するという理性ないし道徳的基準を定めています。さらにそれをキリスト教の歴史として例証しようとしています。形式批判を行うということは、その形式を含んでいるはずの生の全体の部分的に切り貼りするということにつながるのではないでしょうか。

 

「人間の位階のように、権力の意志のうちにもニーチェなりの序列や価値判断があると思ったのですが、どう考えられますか?」


 この『道徳の系譜』を読むと、そのように読めてしまうことが、ニーチェの思想においては問題であると思いました。つまり、位階があるとすればその理由を提示しなくてはなりません。とすると、ある作用のさらに作用因が、というように無限後退していきます。そのように概念を細分化していくことは、全体的かつ根源的生という一元論的発想と矛盾します。ですので、あらゆる作用の元となる「権力の意志」を仮に位階分けした場合、その時点で細分化された権力という発想を可能にしてしまうと私は思います。これは「生成」の論理ではなく、還元論です。


 私とコメントさんのニーチェを読むことの相違点は、おそらく直観や理性のはたらきをどのレベルに置くかという点にあると思います。私は位階分けや関連付けが根拠をあげて説明される場合は、それを理性のはたらきとして解釈しますが、コメントさんは直観によって上記の発想が生まれる可能性を想定しているような気がします。なので、私が一元論者としてのニーチェ像を強く押し出すのに対して、コメントさんはニーチェの概念の区分け(それによって理論が破綻してもいるわけですが)を重視し、「超人」と「個人」への流れを強調されるのではないでしょうか。