博物学探訪記

奥会津より

「生」と「世界」の映し方――押井守と映画論――

はじめに

 

 押井守の映画には、2020年度の前期に読んだニーチェの『善悪の彼岸 道徳の系譜』(筑摩書房, 1993年)に連なるような思想があらわれていると思う。個人の主体化とそれに伴う責任の問題や、その問題を取り巻く社会情勢への見方に両者の類似点が垣間見られる。その問題を突き詰めれば、「生」とはどのように描写できるのか、という問いと同時に、「生」を取り巻く世界のあり方をどの角度から映し取るべきか、という問いを引き受けることになるだろう。

 

 『押井守の映画50年50本』(立東舎, 2020年)を読み、さらにそこで紹介された映画を実際に見ていくと、ここ半世紀の間、映画という媒体はこの二つの問いに果敢に挑み、多彩な表現・表象を生み出してきたのだな、という実感が湧いてくる。では、映画において描かれる「生」と「世界」の関係性とはいかなるものか、そして、われわれはいかなる表現・描写からその関係性を想起し、把握できるのかという問いを、押井の映画を見る・語る視点にそって追及してみたい。

 

  1. 映画的リアリティ=世界観

 

2001年宇宙の旅』が宇宙の時間を固定したように、『ブレードランナー』は未来のリアリティを固定した。「未来は雑然としたものなんだ。カオスなんだ」というあの映像。もはやカオス的な表現なしに未来のリアリティを映画で表現できない。エポックメイキングとは、それくらい決定的な発明を指すんだよ(『押井守の映画50年50本』, 16-17頁)。

 

 ここでいうリアリティとは「世界」の表現である。真っ白な宇宙船の中で「美しき青きドナウ」が流れ、ゆったりと歩く乗務員が歩行しながら360度回転して方向転換を行う。あるいは、巨大なビルの壁面に舞妓のCMが流れる摩天楼を舞台に、1台の宇宙船から降り立った男が、雑然とした未来の都市空間の屋台でうどんをすすり出す。あらかじめ宇宙船や未来都市がそのようにあったのではない。そのように描写されて初めて宇宙船がある世界や未来都市がある世界が創造されたのだ。その世界では核戦争が間近に迫る中で人類の超人化が目指され、レプリカントが奴隷労働を強いられる。だからこそ、自分の生存の条件であるHALにボーマン船長が立ち向かう姿や、レプリカントと共に追われる立場となったデッカードの姿を描くことが、「生」を映すことにつながるのである。

 

  1. 快感原則=情動

 

――『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』のどこに惹かれるのでしょうか?

押井 やっぱり快感原則だよね。快感原則にものすごく忠実に作られている。それも映像と音楽の相乗効果による快感原則(同上, 23頁)。

 

 西部のとある駅に一人の男が降り立つ。荒野に軽やかでありながらも、どこか寂し気なハーモニカの音が響く。3人のガンマンが懐の銃に手をそえる。一瞬の銃声がこだまし、ガンマンが倒れる。物語の幕が上がる。

 

 寂しさの正体とは、アメリカを横断する大陸鉄道の敷設によるフロンティアの終焉であり、西部の荒野に生きたガンマン達の存在意義が資本家に取って代わられることだ。あるいは、自分の家族を殺した仇の復讐がついに終わることかもしれない。つまりは、時代の変遷である。それぞれの登場人物に執拗なまでのクローズアップでカメラが迫り、顔に刻まれた一つ一つの皺に各自が辿ってきた人生の年輪があらわれる。静と動の時間が重層的に流れ、最後の一対一の果し合いが物語の結末を告げる。映画の画面に没入し、胸が高ぶること、それが快感原則であり、「生」の歓びである。

 

  1. 映画的時間=主観的な時間=映画的整合性

 

ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』に流れる重たい時間というものは、映画じゃないと実現できない、僕が大好きな時間。「だから映画を見ているんだ。だから映画が好きなんだ」と気づく瞬間。映画が醸し出す、独特の映画のなかだけで成立する時間というのかな。これは映画だけに流れる特権的な時間だと思うよ(同上, 119頁)。

 

 『ラストタンゴ・イン・パリ』において安アパートのベッドで戯れるだけの男女、『タクシードライバー』において深夜の都市を虚ろな顔で徘徊する男、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』において苦悩に満ちた異形の生涯を語る男。映画の中の光景と映画を見ている自分の意識の区分があやふやになり、時間が経つのを忘れ、いつのまにか意識を失い、そして目覚める。映画の筋書きも関係なく、ただ画面を眺め続ける時間。このような瞑想にも似た時間が流れるときが、映画にはある。映画の「世界」に入っていくときの「快感原則」、そして映画の中に滞在することの「映画的時間」。前者は映画の中の非日常を描き、後者は日常を描く。この3つの観点が、押井守が映画に向ける視線・まなざしである。

 

押井守の映画が示すもの:日常と非日常の溶解

 

 ところが高校生だった僕たちは、そうはいかなかった。デモが終われば家族の待つ自宅に帰らざるを得ない。家に帰ればおふくろが泣き、親父とは殴り合いになる。家族という小さな社会ではあったが、それでも、現実と戦わざるを得なかった。高校生の学生運動の方が、はるかに実践的な社会との格闘だったのだ。その時から僕は、現実と向き合わない理念はまるで意味がないと、ぼんやり考え続けてきた(押井守『凡人として生きるということ』幻冬舎, 2008年,170頁)。

 

 1960年代後半の学生運動に挫折した押井は、日本で革命は不可能だと判断し、映画監督を目指すようになる。そこで培った思想が上記の引用である。その思想が如実にあらわれているのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)だ。高橋留美子原作の本作では、学園祭前夜の友引高校を舞台に、永遠に繰り返されると思われたどんちゃん騒ぎ=日常が、実のところラムの願望を反映した不変の「世界」の創出であり、その造られた日常を維持するために、世界の歪さに気づいた人物から順に、舞台から排除されていく物語を描いている。いわば現実の日常そのものが常に異物の排除から成り立っていることを示しており、だからこそ最後に、様々なシーンの片隅でひっそりと登場していた幼きラムを模した少女が、主人公のあたるに向かって「責任とってね」と告げるのである。

 

だから、僕は今、あえて「原発推進派になります」と言っている。

それはひとことで言えば「責任をとらなければいけないだろう」という話であり、文化的にも歴史的にもそれが正しい態度だと考えているからだ(押井守『コミュニケーションはいらない』幻冬舎, 2012年, 60頁)。

 

 「責任」とは、ニーチェが貴族と奴隷を区別する上で、非常に重視した資質であった。自らの行為に「責任」を持つことは、過去や未来の自己あるいは他者に対して「約束」することができるということであり、この姿勢が人をして時間性を獲得させるのである。だが、ニーチェや押井が過ごした社会においては、「責任」を引き受ける人間などごく少数であることから、両者は大衆を衆愚または「畜群」として描くことになる。

 

 では、日本社会における「責任」とは何か。幾重もの覆い(忘却・否認・修正・敬遠)が責任の内実と所在を曖昧にする日常において、それを明らかにするためには、非日常を呼寄せなければならなかった。押井は『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)において、ベイブリッジへの1発のミサイル・テロによって、自衛隊の事件への関与を疑う警察組織が首都圏に非常事態宣言を発令し、東京で内戦が勃発するのではないか、という非日常の世界を描いてみせた。さらに言えば、その非日常すらも日常に溶け込んでいくような、もはや何が日常で何が非日常かを区分することができない「例外状態」がモニターに映し出された。この映画に対する飛鳥川強の描写が優れている。

 

 環状八号線や東京駅や渋谷駅前、新宿の大ガードの下に戦車が配置されるいかにもなカットの一方で、渋滞にはまっている戦車、犬や猫と戦車が同居する空間、戦車の前での記念撮影などの日常的な描写がたんたんと積み重ねられていく。やがて夜になり、人影の消えた街角に雪が降り始める。雪景色の中、国会議事堂を遠景に戦車が静止している(小野寺徹ほか編『押井守論』日本テレビ放送網株式会社, 2004年, 273頁)。

   

 つまり、押井守にとって「生」とは、日常に立脚する「世界」の暴力や歪みの構造を描くことではじめてその存在を浮かび上がらせるものなのである。反対に、日常において人間は、自らの主体などではなく、何らの責任も感じない、空虚な存在である。

 

 電車に乗っていても、周りの人間が空っぽに見える。僕もはた目からはそう見えるだろう。表情もないし、ぼんやり何か考えてるのかもしれないけど、特定の個人がそこにいるわけじゃなくて、反応するというレベルで人間がいるだけ(同上, 028頁)。

 

 押井守が自身の作品で描く人間は、キャラクター名を冠する人物を除くと、基本的に虚ろで表情がなく、まるで背景の一部のような存在感の無さを示す。だが、その元になっているのはわれわれが現実世界で実際に日々あきるほど見慣れた人間の虚無である。人間は身体を外在化し続けることで必然的に「人形」になるのだと押井は言い切る。

 

 ここにはニーチェと押井の相違点もあらわれている。ニーチェは空虚な人形(奴隷)としての人間から何とかして「超人」を目指すべきだという理念を唱えたが、押井にとっては人間が人形となるのは必然である。では、人形としての人間が示す「生」とは何か。それを描いたのが『イノセンス』(2004年)であった。ほぼ全身をサイボーグ化している主人公のバトーには、公安としての職務と愛犬、そしてある女の記憶が生活の全てである。そんな彼が何を望むのか。

 

 決まってるんだけど、残る思いというものはきっとあるはずだと思うんです。自分の運命を甘受するにせよ、そこに残る思いはきっとあるはずだと。それがある種の女性に対する思いだとか、自分と暮らしている犬に対する思いだとか、失われた自分の身体に対する思いだとか。(中略)思いを残すってことが生きることの内実なのかなあと(同上, 035頁)。

 

 押井が描く「生」とは、責任者なき日常において日々人間性を失い、人形に近づきつつある人間が残すもの、それこそが「記憶」であり、「ゴースト」と呼ばれるものの正体であった。このような押井の志向は、自身が見出した映画的世界を構成する3つの要素、「リアリティ(世界観)」・「快感原則(情動)」・「映画的時間(主観的時間)」のうちの「リアリティ」と「映画的時間」に重きを置いているといえるだろう。だが、この比重の偏りは、押井が「アニメーション監督」であるよりも「映画監督」であることを示唆している。果たして、押井守の作品はアニメーションである必要があるのだろうか。逆に言えば、アニメーション的世界における「生」の描写は、映画的世界とは別の道を辿るのではないか。

 

アニメーション的世界における「生」

 

 アニメ評論家の氷川竜介は、細田守の作品を論じながら、アニメーションの原義について、次のように論じる。

 

なぜならば、アニメーション(animation)の語源になっているのはラテン語のアニマ(anima)であり、その意味は「生命、心」だからです。つまり動く映像を通じて「《いのち》の有無」を伝えようとしているのか、形式的に動かしているに過ぎないのか、人はチェックしながらアニメーションを鑑賞しているわけです(氷川竜介『細田守の世界:希望と奇跡を生むアニメーション』祥伝社, 2015年, 27-28頁)。

 

 静止画を積み重ねることで「動き」を生み出し、動画として見せる。それがアニメーションの仕組みである。ならば、アニメーションが映す「生」の基盤は「動き, move, motio」となる。そこから派生してmovieが生まれたことを鑑みれば、映画とアニメーションの共通項は「動き」であるといえるだろう。この「動き」から「生」の躍動を描き続けてきたのが宮崎駿である。このことは押井守自身も指摘している。押井の常に冷徹な認識による映画の解体・再構成といった手法の作品制作では至ることができない「動き」の境地に宮崎駿は達している。そもそもアニメーションの「動き」を解体してしまえば静止画に戻るだけである。

 

 鈴木敏夫によれば、高畑勲宮崎駿の特性を「彼の人物の持つおそるべき現実感は、対象の冷静な観察によって生まれるのではない。たとえ彼の鋭い観察結果が織り込まれるとしても、彼がその人物に乗り移り、融即合体する際の高揚したエロスの火花によって理想が血肉化されるのだ」と語ったとされる(鈴木敏夫『仕事道楽:スタジオジブリの現場』岩波書店 2008年, 72頁)。『未来少年コナン』を見れば、滅亡した世界に生きる少年の「動き」が生命の豊かさを溢れんばかりに発揮していることがわかる。その「生」は世界の荒廃に引きずられず、むしろ「生」の豊かさが世界を豊かに変えていくかのようである。これこそが「快感原則」が示す「生」の情動ではなかったか。

 

 押井守は「世界」を通して「生」を映し、宮崎駿は「生」を通して「世界」を映す。そしてニーチェは、前者の視点を『善悪の彼岸 道徳の系譜』で描き、後者の視点を『ツァラトゥストラはこう言った』で描いている。「世界」を解体していった先に見出される「生」を描くか、「生」の躍動が「世界」に投影される様子を描くか、甘美な問いでありながら、回答者の嗜好や人生があからさまに映し出される問いでもある。