博物学探訪記

奥会津より

書評 小松理虔『新復興論』ゲンロン叢書,2018

本を買いに出かけ、喫茶店で読む自分と著者の関係

 

 2018年9月7日。郡山は曇り。遅まきながら、小松理虔さんの『新復興論』(ゲンロン叢書, 2018年)を買いに行く。普段であればアマゾンなどの通販で書籍を買うが、この本はどうせ買うなら書店にまで足を伸ばして購入しようと思った。小松理虔さんは実践の人である。だからこそ、この本との関わりも自分の身体を伴って書店という空間に足を運び、店員さんから購入するほうが「筋」のように感じたからだ。

 

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 郡山市のうすいデパートの中にあるジュンク堂書店に行く。うすいにはほとんど訪れる機会がなかったので、この書店がこれほどまでに本を揃えているとは知らなかった。嬉しい驚きである。哲学/社会思想のコーナーに目当ての本があった。

 

 デパートを出て、ドン・モナミという居心地の良いジャズ喫茶に向かい、窓側の席でおいいしいカレーを食べた後に、コーヒーを飲みながら本を開き、ページをめくる。この時間も含めて読み終わるのに2、3日ほどかかった。自分にしては遅いほうである。読みやすい文章でありながら、文を支えている著者の経験の力強さに押された感じがした。その強さは、本を通じて確かに伝わった気がした。

 

 私にとって小松理虔さんは大事な存在である。福島に戻ることを意識してから、理虔さんの記事を読むことで、福島での生活に納得できるような気持ちになった。福島の生活をどうするかは、結局は自分が何を求め、どう動くかなのだな、と実感できた。当たり前のことかもしれない。それでも、その当たり前に納得するためには、他者の言葉が必要であり、その言葉を発信していたのが理虔さんだった。そのときの気持ちを次のように書いている。http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/132249?_ga=2.174324642.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 そういえば、ブログで記事を書こうと思ったきっかけの一つも、理虔さんが地方でライターになるには媒体に関わらず文章を書き続けたほうが良いといった趣旨の発言をしていたからかもしれない。

 

 

復興がもたらす喪失

 

 

「新復興論」という題名のとおり、本書は復興に関する新しい論旨を提示することを目的としている。では、既存の「復興」の何が問題であるかといえば、小松さんは次のように指摘する。

 

①復興助成が手段ではなく目的になるため、かえって助成金への依存体質ができあがること

助成金の受け手が時間に余裕のある高齢者になりやすいため、若者が疎外感を持ち、コンサル会社の企画に終始してしまい、衰退が進むこと

③「復興」のための工事や施設誘致が旧来の町並みや通りを破壊するため、文化的・歴史的景観が失われ、地域性の喪失につながっていること(40-41頁, 178頁参照)

 

 上の指摘の全てに通じる問題は、「復興」のもとに地域の自立性が失われていることである。経済は復興助成が続くまでの一時的なものであるにも関わらずそれに依存し、復興に関わる人々は互いに協力し合うよりも分断が目立ち、復興事業が地域の民俗・文化・歴史を破壊する。復興が物事を回復させ、興すのではなく、その逆になっていることで、福島で起きた災害・人災の被害への対応が、更なる被害を招くというやるせなさにつながっている。福島は今なお、いや、震災から数年が経ったからこそ、再び喪失の時を迎えているのだ。

 

 

当事者と外部

 

 

 具体的な問題を掘り下げてみよう。まず第一に、復興とは誰のためのものか。あるいは誰にとっての問題なのか。この問いは、福島の震災や原発の被害者は誰なのかということにもつながっている。難問である。だが、この難問がきちんと問われたことはあっただろうか。私自身は2011年の3月11日に横浜におり、その翌日には友人と避難もかねて関西に旅行していた。大阪の道頓堀の光景と首都圏の計画停電の光景が対照的であったことを覚えている。家族の一人は郡山で震災を経験し、もう一人は山形で経験した。震災から数年は父の収入が半減したが、私自身の生活にはあまり影響がなかった。けれども、父の状況から被災者のための学費の免除申請を申請し、受理された。私は被災者だろうか?

 

 肯定の側に立つにしろ、否定の側に立つにしろ、論理的にはどちら側にも立ててしまうし、立ってしまう。人は立場の立脚そのものへの思考をやめ(それは苦痛なのだ)、ある立場に自己を定位することで、自身の安定を保とうとする。その行為を私は否定できない。どれだけ多くの人びとが不安定であったのか、想像することもできない。けれども、その立場の違いから対立が生まれる。対立は分断となり、修復できない傷を生む。人々は「当事者」となることで、これまでとは違った人物になりうる。

 

 2018年2月15日に福島県立博物館で行われた館長講座「語りがたきものに触れて」において、静岡県NPO法人クリエィティブサポートレッツ理事長を務める久保田翠さんは、どこに住んでいようと「震災で傷つかなかった」人はいなかったと語った。原発への恐れや事故後の行政措置なども含めて、あるいはあの津波に流される映像を見て、大人であろうと子どもであろうと、日本人であろうと外国人であろうと、男であろうと女であろうと、本当にたくさんの人達が傷ついたのだ。私はちょうどフィリピンからのスタディツアーから戻って間もない時期に震災が起きたこともあり、現地で知り合った人々から心配するテクストを何通ももらい、そのときのやりとりをもとに彼らは復興支援金を集めるボランティア活動を行ってくれた。Pray for Japanの活動を今でも覚えている。

 

 復興が字義通りに過去のありようを回復し、現在あるいは未来を興すものでもあるならば、過去の人びとや未来の人びとをも視野に入れなければならない。過去の範囲はどれほどだろうか。歴史的な史跡や寺社などもまた復興の対象となるのであれば、現在からは途方もつかない過去の人びとや事物もまた復興しなければならないのだろうか。未来に対してはどうだろうか。放射性廃棄物を10万年後まで管理するという計画であるならば、10万年後の人びとに対しても復興の責任が生じることになる(251頁)。

 

 だからこそ、小松さんは「真の当事者」は存在しないと指摘する(50頁)。当事者を福島の「内と外」の論理で特定することはできないし、時間軸においても現代人だけを対象にすることもできない。あのとき何が起きたのか、どのような影響をもたらしたのかを知るためには、「すべての人が当事者だと捉えていかなければならない」(206頁)のだ。

 

 

バックヤード

 

 先に挙げた問題がなぜ理虔さんが住む小名浜では生じているのか。ある地域に暮らす人びとと復興の問題がどのように結びつくのか。これらを知るためのキーワードとして、理虔さんはいわき地方の「バックヤード」性を提示する。いわきは歴史的に見て、一次産業から二次産業、エネルギー供給など諸産業において、首都圏を支えるバックヤードとして機能してきたという。それは首都圏という中央に対して周辺の関係を築くということであり、押し付けられた役割をまっとうすることこそが矜持となるような心性(メンタリティ)を育んできたのである(32-33頁)。

 

 このような中央への依存体制は、歴史的な出来事の積み重なりの上に成立しており、ある部分においてはやむをえなかったところがある。しかし、制度は存続しつ続ける限りにおいて効力を発揮し、人びとはいつしか押し付けられた体制であったものを内面化し、むしろその構造に依存してしまうようになる。世代を重ねるごとに依存の心性は強力になり、制度だけではなく、人びとの心が首都圏との周辺関係に固執してしまう。逆にいえばその心性や体制からはみ出る人びとを更なる周辺に追いやり、自分達の思想だけを純化する外部なき「当事者集団」を作りあげる。復興の問題とは技術的・実際的な面だけではなく、それよりも深遠で不可解な人びとの「心」の問題でもある(320-321頁)。「敢えての依存」が「無意識の依存」にすり変わっていく、人間の精神のあり方をも復興の問題の遡上に載せなければならない。

 

 しかし復興において、このバックヤード性こそが武器になりえると小松さんは語る(113, 140頁)。バックヤードはもはや沈黙しない(本書が出版されたように)。押し付けられるだけの存在ではない。実際われわれの生活は様々なバックヤードに支えられている。それは文字通り支えられているのであって、依存しているのはむしろ中央の側である。復興の問題を「観光」として捉えることとは、バックヤードの闇に光を当てることであり、可視化されたバックヤードはもはや「NIMBY (ノット・イン・マイ・バックヤード)」となり、当事者に限らず全ての人びとが考えざるをえない課題となる。「わたし」だけの問題ではないし、「かれかのじょら」だけの問題でもない。「あなた」の問題でもあり、「われわれ」の問題でもあるのだ。このような指摘をすることで、問題を慣習化し、視界に入りながら考えないようにする態度に抵抗をし続ける。バックヤードの存在を積極的に提示することで、依存の心性の忘却に抗うのである(191頁)。

 

 

思想/ビジョン、文化の自己決定能力

 

 これまでの論旨において見出された共通の問題は、復興における思想/ビジョンの不在である(168-170頁)。あるいは問題への対処をめぐる細やかな配慮/想像力の欠如といっても良いかもしれない。復興がむしろ地域の破壊をもたらすこと、復興に関わる人間関係の多様性/多層性の無視、バックヤード的立場への依存。問題が複雑かつ広大であるからこそ、小手先の復興工事よりも、いったい何が起きて、どんな問題があって、それに関わっているのは誰で、こうでありたい未来の形とは何なのかということへの検討が重要であり、そのことを回避してきたつけがまわっている。もちろん、癒えない傷を抱えている人びとにとって、震災や復興を直視するには更なる時間を要するのかもしれない。生存のための環境をまず整えることも重要だったのだろう。だが、なればこそ、機械的スクラップアンドビルドではなく、トライアンドエラーの試行錯誤の上で復興の方向を模索するべきであったのかもしれない。人びとにあって、傷の深さも、その癒え方も一律ではない。土地や風土もまた一様ではない。それらを単純化してひとまとめにして「当事者」や「被災者」といったレッテルで覆うこともまた、更なる暴力となりうる。

 

 基本的で、遠回りのやり方が必要である。考えること、考えるための環境を整えること、先人の思想を考察すること。こことはどこで、いまとはいつなのか。人びとの「心」を問題として捉えるとき、抽象的な事柄への思考が必要となる。思考を通して改めて「自己」とはなんであり、「自分の地域」とはいかなる場所かを問い直す。それは同時に「他者」とは誰であり、「この世界」とはどんな場所かを問うことでもある。そのような遠回りの先に「自立」という視野が開けてくる。「自立」という思考形態を失うと、押し付けられたものを「自己」とみなし、隷属することを自然だと取り違えてしまう。ソクラテスデルフォイの神託、「汝自身を知れ」から哲学を始めたといわれるが、「自分」とは何かを探ることこそが、復興の一歩であるのかもしれない。こうした中で、理虔さんが小名浜という土地に見出した思想が、先の「バックヤード性」であったのだった。

 

 

実践と経験

 

 しかし、小松理虔さんは「当事者/外部」「バックヤード」「思想/ビジョン」といった発想を思索の上に積み重ねたわけではない。彼は自ら実践し、経験した事柄について想いをはせることによって、これらの着想を得ている。小松さんの肩書きには「ローカルアクティヴィスト」なるものがあるが、彼は行動する人であり、実践から思想を学ぶのである。首都圏から友人が来れば小名浜の日常的な空間を案内し、人びとがどのように日々の生活を営んでいるのか、小名浜という土地にはどのような歴史・文化・社会機構が埋め込まれているのかを紹介する。観光に焦点を当てながら、必ずしも観光地を巡るわけではなく、人びとの日常的営みを再考する「リアルツーリズム」を実践する(95頁)。

 

 私自身、2017年12月10日に小松さんやさんけい魚店という小名浜の魚屋さんが主催する「さかなのば」というイベントに参加している。そのとき次のような感想を残している。

 

イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。

魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。

http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/143423?_ga=2.208116754.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 実際にその場に行き、身体を動かし、目を向け、音を聞き取り、においをかぎ、空気の感触を感じる。そのようにして、その場所において思想をめぐらす。思想は身体的経験と結びつき、身体が記憶する。人びとが日々の生活において行っていることと同じであろう。われわれは常にある場所で活動し、様々な経験を積み重ねている。思想は経験を基盤とし、他者の経験に頭と身体、心を開くことを準備する。そのような活動は他者の活動と触れ合うことで、更に強く記憶される。小松さんにとっては、アジアン・カンフー・ジェネレーションのゴッチこと後藤正文さんと、作家の古川日出男さんを連れて常磐を見て回ったことが、大きな意味をもったとされる(298-299頁)。

 

 「さかなのば」を実施する趣旨が「港町の魚屋さんで魚をつまみにお酒を飲んだら最高だよね」という行為そのものを目的としたように、実践の目的はあらかじめ結果を見据えるものではない。われわれの目指す未来は過去からの束縛をまぬがれえず、常に手探りである。そこに意図はある。だが、その意図が伝わるかどうかは予測がつかず、実践の過程において何かしらのイレギューラーな事態も常に起こりうる。だからこそ、「やりたいことを表明する、そしてやりたいようにやる」(287頁)ことで、ときには他の実践と交じり合い、共存が生まれる。このとき誰もが「当事者」となる。先取りした結果を見据える実践には、「外部」がない。想定外のことが起こりえない。実践の場に身をおくことで、「バックヤード」に光を当て、「当事者と外部」の垣根を飛び越える。そして後から過去の実践を振り返ることで、そこに「思想/ビジョン」を見出してきたのが、小松理虔さんの経験なのである。そうして築き上げた場が、回廊美術館となり、UDOK.となった。結果は後から発見されるものであり、結果もまた次なる実践の過程の中にある(287頁)。

 

 

対話と場

 

 実践のさなかにあって、他者と共存するとき、共にあってなお痛感することは、他者との「埋めようのない考えの違い」であったと小松さんは書いている(221頁)。賛成や反対、当事者と外部といった人々の思考の対立は、同じ場にあってなお維持される。身体を同じ空間に位置づけることはできる。実際われわれは大陸・国・都道府県・市町村・字・集落・番地などの空間の中で共存している。だが空間を共にすることと、思想を共にすることはイコールではない。むしろ迷惑な隣人とどう付き合っていくかが、人間関係の肝でもある。対話は論駁を目的にしない。対話の目的は、自分とは異なる存在の声を聞くことで、異物の中にある自分、他者と共にある自分を自覚し、むしろそこに「自己」を見出すきっかけをつかむことではないだろうか。もし全ての人間の思考様式が同一であったなら、そこには「わたし」も「あなた」も、「われわれ」も「かれかのじょら」もおそらく存在せず、認識することができない。それは「自立」の道とは決定的に違えてしまう。

 

 このような発想は、活動する人ならではのバランスの取り方、他者との折り合いのつけ方だと、私は感じた。活動をしていくからこそ、他者との関係の仕方はやわらかくあらねばならない。他者(という異物、あるいは迷惑きわまりない存在)を受け入れようとする人間こそが、自己の存在を立脚させることができる。このような現場の知恵に関する記述が、私が本書で最も多くを学んだと感じた部分である。

 

 他者との関係において、データや実証をつきつめることは、自己の正しさを主張するために他者を論駁することにつながってしまう。科学的知見はこの世界を観察するための一つのツールであるが、唯一のツールであるわけではない。人びとは世界と多種多様な方法でつながっているにも関わらず、「客観的データ」という単一の世界観において被害や復興を測定することは、たとえ意図しなくとも、他者の排除と自己の拡大に陥ってしまう。賛成/反対の二元論もまた同様の帰結をたどる。難解で複雑だったものを単純化する思考には、常に暴力性がつきまとう。だからこそ、自分の主張や他者の主張の間に鑑賞帯としての「中庸」や「余白」が必要となる(50, 55, 60, 228-229頁)。

 

 福島県産の食物に対する忌避や、他者を受けいれられない自己、あるいは科学的にしろ感情的にしろ極論を支持する、支持しないことの全ての「選択」が担保されなければならない。全員が同一の見解を保持する必要はないし、皆が同じになる必要もない。しかし、われわれはみな「当事者」であるため、自己の行動が他者に影響を与え、他者の行動が自己に影響を与えることには自覚的であらねばならないだろう。他者への配慮と自己の抑制、自他の間に「余白」を設けることは、すなわち一人ひとりの人間が成熟することである。対話の内容が、意見の相違が問題なのではない。対話という営みとその場に参加することの勇気、他者におびえ、自己の傲慢さを自覚するような「自立」のはてにしか、おそらく「対話」は生まれないのだ。

 

 Youtubeに上がっている「【無料生放送】小松理虔 【ゲンロン叢書第一弾】「『新復興論』先行販売特別イベント」」https://www.youtube.com/watch?v=IW1YUQGywNgを視聴した際に、東浩紀さんが小松理虔さんの本に対して「綺麗な文章」であると評価していた場面があった。私も同意する。そこに小松さんの他者に対する配慮や、自制心があらわれているように思う。震災から7年間もの時を過ごし、小名浜を中心に活動することで、傷つかないわけがないのだ。家族の問題、他者との軋轢、職場での諦念、様々な場面で他者の醜さや自分の不甲斐なさをきっと経験してこられたのだろう。このように活動する人が、何も感じずに、「楽しい」だけの時間を過ごしてきたわけがないのだ。しかし、それにも関わらず、他者に語りかける文体の丁寧さ、綺麗さに、小松理虔という人間の純真さと苦悩、そして大人としての成熟がきっと表れているのだと私は思う。

 

 

潮目

 

 このような論旨は、「潮目」という思想に辿り着く(267頁)。これまでの議論は全て二項対立的な言説空間の中で、どのように極論に陥らずに、世界の荒波を渡っていけるかを示唆している。復興/喪失、当事者/外部、中央/周辺、(マン・オブ・ザ・ワールド)/バックヤード、自立/依存、思想/実践、自己/他者、表と裏があるように、光と闇があるように、物事は両面(おそらく多面)的に層を成している。世界はかくも複雑で難解であり、人びとの経験やものの見方、心のあり方も不可解である。そこに分断の層を見ることもあるだろう。だが、波と波がぶつかり合うはざまに、ほんの少しの共存としての重なりも見えるのかもしれない。他の波とぶつかって、傷つくときに、痛みを共有できるのかもしれない。あるいはぶつかり合うのではなく、触れ合う喜びに満たされる瞬間があるのかもしれない。そのほんのわずかな「救い」の時を求めて、われわれは自分の殻にこもるのではなく、世間という大海に乗り出し、他者と関わるのではないだろうか。

 

 そして、潮目もまた移ろってゆく。断絶と思われた裂け目も時間が過ぎるたびに、あるいは場所が変わるごとに、ゆるやかに統合されていくのかもしれない。波風を立てているのは人々の生活、日常的な実践である。生活が無風というわけにはいかない。穏やかな幸福の波もあれば、災害や人災のような荒波もある。そのような波間の中で、せめて、波に翻弄されるだけではなく、異なるものが交わるからこそ意味をもつような、出会うことによって成熟するような、そのような思想を持てるように、私は願わずにはいられない。

 

 

歴史への問い

 

 最後に次の引用に対する警句を述べておきたい。

 

さきほど見てきたように、私たちには、本来、誇るべき歴史や文化がある。しかし、国家の発展のための犠牲を押し付けられ、その過程で、自ら文化を葬り去り、町の誇りは、歴史や文化ではなく、「炭鉱」や「火力」や「原子力」であり続けた。それは、日本を支えているという自負でもあっただろう。しかし、その自負は、私たちが支えているはずの日本によって裏切られるという歴史を繰り返している。近世、近代、そして現代。かくも寡黙に日本を支え、それでも裏切られ続けている土地を私は知らない。

自分たちの上地の軸となる歴史や文化を取り戻すことができず、地域づくりに失敗し、その結果、中央への依存を余儀なくされ、やがてその依存構造をいつの間にか忘れ、自らを周縁化させていき、ついには中央に裏切られる。この地で繰り返されたのは、そのような歴史でもある。それを繰り返さないためには、文化や歴史、芸術といった領域の活動を再起動して、地域の軸を取り戻さなければならないのではないか。本書は、その主張を繰り返してきた。(378頁)

 

 日本の近代や常磐炭鉱を支えてきたのは、常磐に住まう人びとだけだったのだろうか。いや、そうではなかった。次のような研究が示すように、そこには海外から強制動員された人々がいた。

 

・山田昭次「戦時下常磐炭田の朝鮮人労働者について」小沢有作編『近代民衆の記録10

在日朝鮮人』、新人物往来社、1978年

・長沢秀「常磐炭田における朝鮮人労働者の闘争―1945 年10 月―」『在日朝鮮人史研究』第2 号、在日朝鮮人運動史研究会、1977年, 同「日帝朝鮮人炭鉱労働者支配について―常磐炭鉱を中心に―」『在日朝鮮人史研究』第3号、在日朝鮮人運動史研究会、1978年

 

 もちろん常磐地域だけに強制動員が行われたわけではない。大沼郡三島町の宮下発電所喜多方市の与内畑鉱山などの県西部にも朝鮮人労働者や中国人労働者が動員されている。歴史の闇をのぞくとき、そこにはわれわれが想定する以上の「当事者」の存在を散見してしまう。いわきや常磐は確かに首都圏に対するバックヤードであったのだろう。しかし、そのバックヤードの更なるバックヤードとして、かつては日本の植民地があったことを指摘しておきたい。水が低きに流れるように、裏切りや暴力もまたより権力をもたない側に流れ続ける。地域の歴史を再稼動するときに、その歴史を一元化してしまえば、潮目は失われ、過去という異質な他者をも消し去る暴力に身をゆだねることになる。歴史もまた他者なのであり、そこには様々な死者が横たわる。どうか、異なる死者にも目をくばる繊細さを求めたい。

 

 恥ずかしながら、私もまたそのような福島の過去に無自覚だった。たまたま福島の海外移民、開拓者の歴史を調べていた際に、福島県内への朝鮮人動員の研究をしておられた韓国人の方と知り合い、教えていただいた。彼女もまた福島の「当事者」である。国籍を問わず多くの方達が福島や原発の問題、地域医療や労働問題に関わっている。彼彼女らとの間にも対話の場が設けられるように成熟することが、今の私の課題である。