9月1日(日)に福島市のイオンシネマ福島で山田尚子『きみの色』(2024)を、フォーラム福島でピエール・フォルデス『めくらやなぎと眠る女』(2022)の日本語吹き替え版を観てきた。
『きみの色』は説明しがたい映画だ。ストーリーや展開が難解というわけではない。むしろ物語的には起承転結がはっきりしているし、主要人物の出会いからバンドを組んで卒業式に演奏するまでの筋書きはどちらかといえば単調といっても良いかもしれない。
その単純なストーリー展開にもかかわらず、僕は画面の中で流れるアニメーションに滔々と見入ってしまった。まずはこの点がすごい。シンプルな内容の話にこれでもかというアニメーション的技巧がはりめぐらされている。光と色の表現や、キャラクターの表情、各シーンを切り取る画角、音楽の変遷、これらが細かく細かくちりばめられ、鑑賞者を映画の中に引き込む。
何か大きな事件が発生し、事件に巻き込まれた主人公らが能動的に活躍し、やがてその原因が解明され、大団円を迎えるといったシナリオを用いずとも、ある人生の一時期に人々が出会い、交流を重ね、出会いがもたらす特別な何かを共有し合う。こうした経験に宿る「美」を抽出する作業によって描かれる物語は、十二分に人の心を打つ。
『きみの色』を観たのは、山田尚子氏の作品に期待するものがあったからだ。気づけば氏のほとんどの監督作品を観ている。『けいおん!』(2009)、『けいおん!!』(2010)、『映画けいおん!』(2011)、『映画 聲の形』(2016)、『リズと青い鳥』(2018)、『平家物語』(2022)などなど。
記憶が定かではないが、印象が強く残っているエピソードに、『けいおん!!』のある話が浮かびが上がる。たしか唯たちが修学旅行に出かけた後で、残されたあずにゃんたちが憂の家に集まる話だったと思う。だれも何も話さず、気だるげに静かな時間を過ごすシーンがあったはずだ。そのシーンが何とも言えず良かった。説明ができないのだが、押井守がいうところの「映画の時間」が流れていたのだと思う。
『リズと青い鳥』にも同じものを感じた。それをアニメーションで演出できる山田尚子氏には何か唯一無二のものを感じさせる。だからこそ、氏の作品は定期的に観ているし、見終わってから話しの展開はほとんど思い出せないのだが、こういうシーンがあって、その中の雰囲気がとても素敵で美しかったな、という印象が強く残る。
『きみの色』もやはり美しいアニメーションだ。最後のライブシーンの音楽と映像も素晴らしい。一つ気になったのが、三人の主要人物たちの出会いから各やりとりがどうにも大げさというか、オーバーリアクションのような気がして、鑑賞中もそれだけがノイズとして響いた。特にルイのリアクションは、なんでいちいちこの人はすっとんきょうな反応をしているんだろうと少し不快になったほどだ。
せっかくの美しいアニメーションの流れが、変なリアクションで阻害されているようで、どうもなと鑑賞中も感じていた。そしてその理由を自分なりに考えてみた。そして思いついたのが、三人の主要人物たちは出会ってからずっと緊張して、あがっていたんじゃないかということだった。
ルイについて考えてみると、降雪がひどくなって離島の教会に泊まらざるをえなくなったシーンで、ルイは母親に連絡を取っている。そのときのルイの会話姿を観て、「あれ、この子は普通な感じでも話せるんだな」と思った。むしろ、ルイのあの姿こそが彼の日常なんだと思う。落ち着いていて、少しつき話した感じの話し方をする男の子。
ルイは、テルミンという楽器に直接触らないで音を出す世界最古の電子楽器を演奏できる。医者になるための受験勉強をしながら、そのようなマニアックな楽器を演奏し、キーボードやシンセサイザー(かな?)も使え、音楽編集や録音機器にも習熟している。このことからも、彼が楽器の練習と音楽知識の習得に膨大な時間を費やしてきたことがわかる。
そのルイが、はじめて自分の音楽の趣味と通じ合える人たちと出会った。だからこそ、彼はトツ子ときみと会っているときには、普段の彼じゃなくて、飛びぬけてハイテンションで、声がうわずってしまうようになっていたのではないか。そしてそのあがりっぷりは、トツ子ときみにも少なからず共通していて、あの三人は三人として出会っているときには常にどこか緊張していて、反応の仕方が大げさになり、ときにはすっとんきょうなリアクションをしてしまうと、こういうことではなかったのだろうか。振り返ってみるとそのように考えられる。そういえば、自分が10代のときにもこういうことってあったよなと、苦虫を嚙み潰す思いがする。
逆にいえば、彼女たちは三人でいるときには、普段とはまったく違う体験だったのだと思う。バンドを組んで、音楽を共鳴することで、ものすごく強力な感情の交流を行っていたのかもしれない。その感情が演奏後もほとばしっており、三人の身体をふるわせていたんじゃないか、と思われる。
『きみの色』を観た後で、このどうにも言語化しにくい作品をどう考えたら良いのだろうかと思い、他の人の感想やレビューを読んでいた。その中に、新海誠と山田尚子の対談記事があった。
この対談に対して、Twitterで次のような意見が出ていて、興味深かった。
山田尚子氏の演出は感性的表現を重視することが多い。扱う作品のテーマ自体が人間の五感にまつわるものが多いからなのかもしれないが、感性という個別的・身体的な感覚からなるものを、どのように人工のアニメーションによって演出し、鑑賞者への共感を呼ぶか、という難題に挑んでいる。
上記のツイートを参照すれば、「世界は自明に美しい」という前提に対して、人間はその美しさを看取し、さらに共感することまで可能なはずだ、という視点を山田氏は抱いているのではないだろうか。人間は五感的に(あるいはその欠損も含めて)「美しさ」を見出し、その「美しさ」への共感はどこかで普遍性をもつ。山田尚子というフィルターを通しながらも、あるいはそれゆえにこそ、アニメーションを通じて鑑賞者とも「美しさ」を共感できる部分をもつはずだという想いがあるのではないか。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)