Kazuki氏の同人サークルStudio・Hommageが手掛ける『国シリーズ』に、今年の夏は耽溺した。こちらが悔しくなるくらい素晴らしい作品の連続だった。自分でもこういうものを書けたらなと思う物語を見事に言語化し、表現し、演出していた。日々の生活の中で自分の内奥にしまいこんでいた情動や生きることへの活力、創作意欲をもう一度呼び覚ましてくれた作品だった。ここ一か月ほど、ブログを定期的に更新しているのは、すべてこの『国シリーズ』をプレイしたことの恩恵である。僕はもう、Kazuki氏には感謝の念しかない。おもさげねっす。
本文を書くにあたっては思い入れがとてつもなく強い。集中して執筆するために、隣県のコワーキングスペースへと出かけ、その近くに宿を取った。二日間ほどこの作業に打ち込むためだ。語りたいことがふつふつと湧き上がるという心境の一方で、はたして自分が感動した体験を思った通りに言語化できるのだろうかという不安もある。また、執筆するためにも、現在リリースされている『国シリーズ』の全作品をもう一周した。初めてプレイした感動には及ばないものの、やはり胸を打つシーンがあり、もう一度味わいたい場面が多々あった。全作品を通せばかなりの分量になるので、プレイして感動した箇所すべてに言及することは無論できない。けれども、全作品を通してしかわからないシリーズものの奥深さ、一貫したテーマ性も確かにあるはずだ。そうしたものを書ききれるか、僕にとっても割と緊張する勝負のような感じだ。しかし、とにかくこの衝動を形にしなくては、僕自身が情念に溺れかねない。それほど、『国シリーズ』は僕の根幹に食い込んだ作品なのだ。
『みすずの国』
Studio・Hommageの作品をどのようにして知ったのかがよく思い出せない。おそらく定期的にやってくるヴィジュアルノベルをプレイしたいという衝動にかられ、批評空間か何かで作品を見繕っていたときに高評価で提示されていたサークルだったからだと思うが判然としない。
とにかく、1年ほど前に『みすずの国』をプレイした。最初の印象は同人業界のクオリティの高さに驚いたということだった。僕は、18禁のものも全年齢版のものも含めておそらくヴィジュアルノベルを100~200作品くらいプレイしていると思うが、同人ゲームの中では『ひぐらしのなく頃に』シリーズが最も完成度が高いと感じていた。その『ひぐらし』とそん色がない、むしろイラストのレベルでいえば圧倒しているほど『みすずの国』はゲームとして完成していた。
さらに文章力も際立っていた。さすがに30代後半になるので、10代の頃のように駄文も名文も関係なくゲームをプレイし続けるということができなくなった。というか、文章全般に対して、読み進めることが難しい駄文にいきあたった時点でゲームにしろ小説にしろエッセイにしろすぐに読むのをやめるようになっている。とくに、ビジュアルノベル界隈の文章は業界的表現やスラング的なものが横溢しており、その内向けの描写というか、文章を届ける相手へのお約束事みたいな書き方が頻繁に登場するので、早々に文章に胸やけがして読むのをやめる場合が多い。
けれども、『みすずの国』は集中して文章を読み込むことができた。まずはこのハードルを越えない限り、作品の世界に没入することができない。だからこそ、文章力とは、村上春樹もどこかで書いていた通り、とにもかくにも修練を重ね、洗練させなければならない手段なのである。比較すると悪いのだが、名作と呼ばれる『白昼夢の青写真』や『Summer Pockets REFLECTION BLUE』を並行してプレイしているが、途中から進まなくなっている。
『みすずの国』を読み込んでいくと、主人公のみすずが天狗になる素養となる数値を常人よりも大幅に超えてしまったため、社会的制約を受けての生活を送るか、天狗の国に行き自らの力をコントロールできるようになるまで修行を行うか、という選択を迫られる。医者になりたいという夢をもっていたこともあり、みすずは天狗の国に向かう選択をするが、そこでは「人間あがり」と馬鹿にされ、真正の天狗には決して及ばない能力をもって少しでも問題を起こさないように息をひそめて暮らす同類の人間の姿があった。天狗たちに蔑まれながらせまい肩身を寄せ合って生活する他の人間とは異なり、偶発的に別の天狗の国のお姫様とルームメイトになったみすずは、そのお姫様に付き合わされながら天狗の修行を続けていくが、他の人間と同じような能力しかもたないゆえに、当然のように天狗エリートのお姫様らが楽々とこなす修行に耐え切れず、お姫様と訣別しようとする。
ここまでの話の流れでは、天狗の国という設定が興味をそそるものの、あくまで凡作の域を超えないなという印象でプレイしていた。もちろん、個人が手掛けた同人作品が他の商業作品と比較して凡作ということは十分過ぎるほどのクオリティを担保していたことになる。けれども、このままの展開でいえば、良作だなという印象は残っても、数週間したら内容を忘れる作品で終わっていたと思う。
あれ、この人の作品は他とは違うかもしれない、と思わされたのは以下のシーンからである。
「なめるな」
結果的にみすずの挑戦は失敗に終わる。けれども、みすずは実行可能かどうかに関わらず、「自らの在り方を自分以外には決めさせない」という姿勢を全面的に打ち出す。この姿勢が共感を呼んだし、この作品には何かがある、何かが他と違うと感じさせた。その何かを説明することは難しいのだが、強いていえば、この作品の山場のシーンでヴィジュアルノベルのお約束的表現や形骸化に頼らず、作者独自の見解や人生への姿勢が出たように思えた。だからこそ、『みすずの国』のこのシーンはよく覚えている。というか『みすずの国』はこのシーンしか覚えていなかった。
このシーンがあったからこそ、次の作品もやってみようかと思えた。もちろん、このシーンがこれほどの印象を残すのは、他のシーンとの兼ね合いの中で、山場となるように編纂されたいたからということになるのだが。だからやはり、『みすずの国』はある基準を超えた作品となっている。作者の意図にそって最も重要なシーンが最も重要なように演出されている。語るのはたやすいが、そのためにシナリオを書き、イラストを描き、音楽を選出するのはとてつもない労力と構成力を要する。その努力は見事に結実している。
能力が足りない。才能が違う。そもそも能力で競っているわけではない。利己的に立ち回れ。意味のないことをするな。人生を無駄にするな。目立つな。賢く生きろ。
なめるな。自分のことは自分で決める。
生きるって、そういうことだろ?
『キリンの国』
『みすずの国』の印象が良かったので、続きとなる『キリンの国』もプレイした。
『キリンの国』は導入が完璧だと思う。いま教室で授業を受けている窓の外に、「夏」がある。刻一刻と「夏」が過ぎ去っていく。「夏」を逃がすな、捕まえろ。「夏」は特別なのだから・・・・・・。この作品はサークル名の副題であるLet's get to see the beautiful world. を体現していると思う。
こんなことを言われて、「夏」を追いかけない人なんているのか?(いや、いない)。気温が上がる。空が高くなる。かと思えば入道雲が湧き上がり、夏の雨が差す。蝉の鳴き声がする。ひぐらしも鳴く。陽炎が立ち込める。動き出さなければいけなくなるような焦燥感。夏の中に足で、自転車で、車で走り抜けていく。
これらを全身で体感した幼少期はすでに遠い。青年期も過ぎた。それでも、夏がくるたびに心に湧き上がるものがある。『ぼくのなつやすみ』のCMが描くものだ。
圭介とキリンが天狗の国へと旅立つ。新幹線に乗り、山道から密入国を果たし、蚕養(こがい)の里へ。養蚕については紀要に論文を書いたこともあるので、生業の中でもひと際興味がある産業だ。僕は東北の養蚕を多少知っている程度であるから、西日本と思われる場所での養蚕の様子も大変興味深く読むことができた。蚕養の里でカイコが上蔟し、繭となれば、やがて夏は終わってゆく。二人は人間の国へと帰路をとるが、キリンは天狗の国へ、圭介は人間の国へと別れの時が訪れる。この旅は、夏を探し、夏を訪ね、そして最後は別の道に分かれるための旅路であったのだ。
『キリンの国』は『みすずの国』と比べ、スケールがものすごく広がった。『みすずの国』はあくまで人間から見た天狗の国における学生生活の一要素でしかなかったが、『キリンの国』ではそこで暮らす天狗の、狗賓(ぐひん)の生活暦があり、身分があり、生業がある。さらにいえば、天狗と狗賓が培ってきた時間、歴史がある。だからこその差別がある。
『キリンの国』をプレイしていると、『国シリーズ』には人間とは異なる存在を描くことゆえの差別という事象が内在していることがわかる。人間と非人間が同時に存在するのであるから、その関係性を描くのは当然なのかもしれない。しかし、多くのヴィジュアルノベルやライトノベルはその関係性をファンタジーで覆いつくす。差別という事象に踏み込めば、リアルの問題に直接または間接的に直面することになることを避けるためなのかもしれない。
Kazuki氏のブログによれば、『国シリーズ』のモチーフは現実であるということだ。天狗や狗賓という存在はファンタジーだが、それらの要素を備えたものは現実的に存在している。だからこそ、人間と天狗と狗賓の関係において、差別はある。そしてその差別の在り方には歴史があり、時間の経過と共に差別の内容も、差別を通した関係性も変化する。
「夏」を探しに行くというジュブナイル的旅行記と共に、天狗の国における産業構造や支配層と被支配層の関係性が重低音のように描かれる。ちょっと情報量が多すぎるほどだ。
『みすずの国』において、天狗がみすずのような「人間あがり」を馬鹿にしていたように、天狗の国では、天狗を頂点とし、天狗に使役される狗賓(ぐひん)、そしてただの人間というヒエラルキーがある。この階層は天狗に備わる神通力という生得の能力、戦闘力に左右されるため、基本的には生まれたときから自身が所属する階級が決まることになる。もちろん、そもそも人間に多少なりとも神通力が備わった場合は、天狗の国で修行するプログラムが形成されていたり、狗賓であっても神通力の程度によっては天狗に近い階層になったりするので、階級間にはある種の流動性もある。それがこの物語の裏話のように展開していたりもするので、おもしろい。
けれども、みすずと接した天狗の国の姫であるヒマワリなどのように、神通力を高めるために意図的に血統を維持してきた王族がおり、基本的にはそれらの王族たちが天狗の国の支配層となっている。
というわけで、『キリンの国』はスティーブンキングの『スタンドバイミー』のように、子どもたちが冒険する物語であると同時に、その冒険の記憶を大人になった主人公が振り返り、かつての友達が実はすでに死んでいたり、身分が固定された職業に就いていたりと、異なる身分の子どもたちがひと夏を一緒に過ごしたことの意味を図る構造になっていたりする。
それゆえに『キリンの国』は圭介とキリンの物語と、天狗社会の支配者層の思惑が交互に展開する話となっているため、内容が難解な面がある。というか、物語的には「夏を追い求める」話と天狗の国の説明をそれぞれ行わなくてはならないため、情緒的な冒険譚と社会構造の理論的な描写という相性が悪い話が展開される。これはシリーズものに必須の説明パートをどこかで設けなければならない以上、やむをえない話でもあるが、やはりプレイヤーとしては物語の進行に引っかかるものもある。
とはいえ、圭介とキリンが天狗の国を冒険して回る話はべらぼうに面白い。蚕養の里で営まれる養蚕という生業の在り方や、そこでの食事、衣類、祭りの様子。知らない土地の風俗を知り、それに関わっていく話は旅行好きな人ならひとしお楽しめるだろう。僕もそういう話は大好物である。
物語の筋とはあまり関係ないが、ヒデウミという、その後のキリンの保護者になるキャラクターのタバコをのむシーンが実に良い。美味そうに吸うもんだと感心したし、タバコのみがタバコに集中しているときの表情をよく描いている。
ただし個人的に気になったというか、いまでも理解できてない点がある。キリンというキャラクターのことだ。『キリンの国』は圭介という主人公を通して見る物語であるのだから、圭介の心理描写はされても、キリンは圭介が見た様子からしかその内面を推し量れない。それは当然のことだ。だがそれを差し引いても、やはりキリンはよくわからない。『国シリーズ』全体を通しても、キリンの存在とその血筋は物語の肝にあたる部分であるため、『キリンの国』ではその描写を控えたのかもしれない。
僕の読み間違いや記憶違いの可能性も否定できないのだが、キリンは天狗の国で育ち、人間の国へと追い出され、そしてヒマワリという姫様と再会するために、圭介と共に再び天狗の国を訪れた。そしてキリンの身体にはかつて天狗の国で暴れまわったヘビの呪いとその一部が埋め込まれている。このような経験をもっているにも関わらず、キリンは単純で屈託がない人物のように圭介には映る。もちろん、キリンが圭介の前ではそのようにふるまっていたという理解もできる。だが、圭介もまた自分の来歴にまつわる秘密があるために、キリンの前では自分の過去と現在の姿をとりもつように、整合性を図るような立ち振る舞いをする。キリンにはそのような立ち振る舞いへの機微というか、思考と行動を吟味するような描写が見られない。それがキリンという存在への不理解を示しているように思う。
率直にいうと、「こいつはこれだけの過去をもち、天狗の国と人間の国の両方で差別的感情を向けられて育っているのに、ちょっと屈託がなさすぎやしませんか」ということだ。人間の国では、学校生活はともかく、キリンが身を預けている家では弟煩悩な姉的存在に大事にされていたから、屈託がないのかもしれない。だがそれにしても、という違和感は残る。
なんというか、キリンは圭介やヒマワリに対しては能動的すぎるくらい能動的であるのに、他のことに関してはひどく受動的に見える。大切な人とそれ以外を区別して生きるという割り切った分別を行っているほど達観していようにも見えない。だからこそ、キリンというキャラクターはよくわからない。
対照的に、圭介のことは主人公であり、その内面や思考がばっちりと描写されているので、とても感情移入をしてしまう。圭介がもつ他者との一線を画すあり方や、それに矛盾するかのような正義感(義侠心?)の発露、キリンへの情動とその裏にある天狗の国への憎悪という激情。実に魅力的で、友達になりたいと思う男だよ。
・・・・・・
ここまで書いたところで、違和感を覚えたので、もう一度『キリンの国』の最後のシーンをプレイした。そして自分の勘違いに気がついた。そしてようやく『キリンの国』の物語を自分なりに飲み込めた。
キリンは他者に「差別的感情を向けられた」のではない。天狗の国でも人間の国でも「存在を認められなかった」のだ。つまり、キリンには自分を認識してくれる他者がいなかった。正確にいえば、キリンの世界において他者は圭介とヒマワリしかいない。キリンの存在を認知していたのはその二人だけだからだ。だからこそ、おそらくキリンには圭介とヒマワリを除いて他者なるものがよくわからないし、それゆえに自己のこともよくわからない。キリンは衝動的に何かを欲することはあっても、その源泉を他者との関係性において捉えることがほとんどできない。キリンは、そういう存在なのではないか。
キリンのそのような特性を、圭介は理解ができる。圭介もまた天狗の国と人間の国を行き交った者であり、そのどちらにも属することができないからだ。圭介だからこそ、キリンを記号的対象ではなく、存在としての対象として認識することができた。そしてキリンの境遇を理解するからこそ、キリンの世話を焼いていたのだ。
けれどもその関係性は、キリンが再び自分の過去と対峙するために、天狗の国へと再訪することを決意した時点で、終焉が約束されていた。キリンはもう一人の他者であるヒマワリのために、そして圭介が自分の存在を認めてくれたからこそ、一人の存在者としての望みをもつようになっていたのだ。
圭介とキリンの「夏」への旅は、その旅を終えるための、「夏」を終えるための、そして二人がそれぞれの道を歩むための旅であったのだ。村上春樹の『羊をめぐる冒険』において僕と鼠が別れるために再会したように、あるいはレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』においてフィリップ・マーロウがテリー・レノックスの後始末をつけて別れたように。
上記の二つの小説に関して、内田樹が、鼠やテリーらとの友との別れとは、幼年期との別れであると解説している。お互いが個人と個人として訣別し、それぞれの道をゆくためには、まずはお互いが「自己」として立脚しなくてはならない。存在者として主体化しなくてはならない。自己が自己としてあるためには、他者の存在が不可欠となる。自分のことを認知できるのは、他者という回路を通じて自分のことを再認識するからだ。
そして、圭介とキリンには他者がなかなかあらわれなかった。どちらもその存在を認めようとしない国で育ち、存在を否定されていたからだ。それゆえに、圭介とキリンが人為的に仕組まれて出会った結果だとしても、惹かれ合うのは当然であった。だがもし、二人が「夏」への旅路を歩まず、互いが互いを認知し、肯定し合うだけの閉鎖的関係に留まり続けたならば。おそらく圭介とキリンは相互依存に陥り、かえって病んでいただろう。被差別者としての境遇の中に埋没していただろう(その原因が差別にある以上、二人の責任ではないのだが)。
それでも、二人は旅に出かけた。この旅はかつて自分が育った土地への旅であり、過去に向かうための、自分の立脚点を探すための旅でもあった。そして旅の終わりには、別れがあった。別れるために旅に出たのだ。人はそれを幼年期の終わりであり、成熟への脱皮というだろう。
圭介とキリンは、自分の人生を自分で決めることができるようになったのだ。
『雪子の国』
『雪子の国』にまで至ると、僕にとってStudio・Hommageはブランドとして信頼できる同人となった。3作品目となるのだから、間違いない。そして、『雪子の国』は後に続く『ハルカの国』も含めて、今のところ単体としては最も完成された作品だと思っている。『キリンの国』の時点で感動していた僕は、『雪子の国』では都度涙を流しながらプレイすることとなった。それは『雪子の国』があまりに僕の人生の琴線に触れるものであり、自分の人生哲学を代弁してもらったような箇所が多分にあったからだ。おもさげねっす。
『雪子の国』では、あれほど権勢を誇り、狗賓と人間を見下していた天狗の国において戦争が起こり、その趨勢に敗れた一部の天狗が人間の国へと帰化し、没落していく話である。「人間あがり」と蔑まれながら天狗の国に留学していたみすずとちょうど反対の立場で人間の国に留学してきたのが雪子である。ちなみにこれまでの作品を時系列順に並べると、『キリンの国』→『みすずの国』→『雪子の国』となる。『雪子の国』には大人になったみすずやヒマワリも登場する。天狗の国の一部はすでに人間によって開発され、山地国家が更地となって滅亡している。
この展開はまるで『平家物語』のようで、隆盛を極めた平家がやがて源氏に敗れ、破滅していく様子を描いたかのようである。しかし、すでに『キリンの国』において天狗の国という国家が、人間の国または天狗の他国も含めて国家関係の経済力を担保するための「金」を著しく流失していたことが描かれており、人間の国と天狗の国の力関係が人間側に傾いていることが示されていた。いや、そもそもすでに『みすずの国』において「人間あがり」を蔑みながらも、人間を受け入れざるをえなかった天狗の国が、いかに国家としての影響力を失っていたのかがあらわれていたのだ。
『雪子の国』の人間社会にとって、天狗という存在はすでに保護すべき対象であり、天狗の国が独立自治領という体裁をとっていても、実質的には内国植民地または併合国のようなものであった。そのような社会情勢のもと、東京の進学校に通っていたハルタは突然西日本の地方都市に転校し(正確には故郷留学)、ホームステイ先の家で同じように転校してきた天狗の雪子と出会う。
ハルタもまた圭介と同じように複雑な内面をもっている。ハルタの場合は人間の国と天狗の国の越境による境遇の不安定さではなく、人間社会での自身の生い立ちと現在の境遇に起因する複雑さであるのだが。ハルタは落ち着きがあるようでいて、他者との当たり障りのない社交性を有しているが、同時に人間社会で孤立することを恐れないというか、どこか自棄(やけ)になっているところがある。
ハルタが地方都市に転校してきたのは、幽霊を探すためであった。その地方都市においては幽霊騒ぎが全国ニュースとなって持ち上がっており、地元のさしたる関心は呼ばなかったものの、実際にハルタはホームステイ先の家において幽霊を目撃する。ハルタが幽霊の正体に近づくにつれ、そこで出会った人々の過去や背景が明らかになっていき、その過程においてハルタと雪子は仲を深めていく。
『キリンの国』において、すでに『国シリーズ』のヴィジュアルノベルとしてのシステムや音楽、イラスト、演出のエフェクトは一定の水準を超えている。『雪子の国』ではそれらがさらに進化し、後に続く『ハルカの国』ではシステム周りが刷新されいる。シナリオも長くなっていき、イラストや立ち絵も膨大になっている。それら一つひとつにスクリプトとエフェクトをかけている作業となると、「Kazukiよ、おまえ、死ぬのか」と言いたくなる。
『雪子の国』では人間の国が舞台となる。人間の国において、天狗という異分子を社会がどのように扱うか、あるいは天狗と対面した人間はその存在とどのように接し、関係を築くのか。もちろん、これらの各所に偏見と差別がつきまとう。天狗が人間に、人間が天狗に、国家勢力の推移の中で、そのときどきの時流において両者のヒエラルキーが二転三転している。天狗の国で起きていた差別がたやすく反転し、人間の国での差別となる。
そのような世界において、ハルタと雪子は生活する。涙が流れるシーンがいくつもあり、印象が強かった箇所をあげていく。
まずは、猪飼について。ハルタが故郷留学してからできた友達で、ハルタのホームステイ先と何やら因縁がある様子。Kazuki氏もブログで言及していた通り、猪飼とその祖母の話は氏の肉親の話をモチーフにしており、力の入れようがすさまじい。あれ、これ主人公はいつからハルタから猪飼になったの?と思わされるほどだ。
猪飼は祖母に育てられた。祖母には親族間の問題があり、頼れる先がハルタのホームステイをした屋敷の家にしかなかった。ハルタが屋敷に来る前に、猪飼と祖母は屋敷で暮らしていた。しかし、祖母の不注意の可能性をもつ火の始末のトラブルがあり、屋敷の一部が延焼してしまう。焼け落ちた場所には屋敷の貴重な家財が保存されており、そのことごとくが焼失してしまう。さらに、あろうことか屋敷の別の住人が放火を疑われる顛末となってしまい、いたたまれなくなった猪飼と祖母は屋敷から離れる。猪飼にとっては生きている中で最も大事な思い出と存在が屋敷にあるが、その屋敷に一生顔向けできないという想いがある。猪飼は、せめて、焼失した家財を少しでも取り戻すことができるように、偽物のブランド品を販売する金儲けに走るようになる。その屋敷にあらわれたのが、ハルタであった。
もし自分が、猪飼と同じ境遇にあり、同じ経験をしたのなら。きっと猪飼と同じように、屋敷に顔向けできなくなっただろうと想像した。その想像はあまりにやるせなかったので、僕は思わず泣いてしまった。猪飼は身内がしでかしてしまったこと、その償いのために誤った手段を選んだこと、これらすべてを理解していた。それでも、その道をゆくしかなかった。パチモンを売る稼業にしくじり、ヤクザに追われる立場に陥ったとしても。
祖母以外の家族を失い、やっと安心できると思えた屋敷での暮らしを失い、贋作売りの博打に走って銭を失った。猪飼は失い続けた。自ら欲したものに手を伸ばせば伸ばすほど失い続けた。猪飼に残されたものは、顔向けができるようになるまで、屋敷に立ち入らないという意地だけだった。その意地が猪飼を支えていた。意地をなくして、猪飼は生きることができなかったのだ。
この文章を書いていても、涙腺がゆるんでしまう。「意地しか残らんのよ」という言葉は、人という生き物を分解しつくした先に残る唯一のものを示していると思う。意地を張るななんて言葉は完全な誤りだ。意地しかないのだ。自分が選んだ生き方に、自分が決めた物事のすべてに。
さて、最後に雪子の話をしなくてはならない。『国シリーズ』において、いわゆるラブコメがあるのは『雪子の国』だけだ。『雪子の国』は王道の物語だ。そして雪子というヒロインは実に魅力的な女性となった。
僕にとって雪子の魅力はその言葉遣いにある。なんというか、良いタイミングで悪態をつくところが良い。ハルタとの掛け合いの中で、丁寧語から悪態、照れると京言葉が出るバランスが雪子を魅力的にしている。このバランスが少しでも悪い方向にふれると、僕はたぶん雪子を嫌っていただろう。Kazuki氏もギリギリのバランスをせめていると思う。
しかし、雪子を語るには、ラブコメだけでは済まされない。彼女は天狗の国の戦争に敗れ、故郷を人間の開発によって文字通りの更地にされた故郷喪失者の天狗なのである。雪子には祖父に育てられながら田園を歩いた美しい故郷の思い出があった。その故郷を追われ、故郷の復興のために人間の国で官僚に登り詰めようと考えた夢でさえも、故郷の開発によって失われた。雪子には何もない。猪狩と同じく失い続けた存在だ。けれども、猪狩は人間で、雪子は天狗である。雪子は絶えず人間の国からの差別を受け、社会的立場を持たない。
そんな雪子にとって、人間の国で出会ったハルタは生きていくことのよすがなのである。ハルタに嫌われれば、雪子は生きていけない。雪子はハルタと添い遂げる以外の手段をもたないのである。だから、ハルタに頼られると雪子は嬉しい。飛び上がるくらい嬉しい。それが天狗ゆえの異能を求められるのだからなおさらだ。天狗だからこそハルタにできることがあるのであれば、雪子は存在をまるごと許容されることになる。雪子はハルタからの虫のよい頼みを受け入れ続け、悪態をつき、そして自らハルタに求婚する。
ひるがえってハルタにとって雪子とはいかなる存在であるのか。ハルタの異性との向き合い方には、母と生まれそこなった妹との関係に影響を受けているため、ひどくねじれた部分があるらしい。この点は『雪子の国』をプレイしていたときにはわからなかったが、Kazuki氏のブログにそのあたりが詳述されている。
ハルタは単なる異性としての雪子には惹かれない。むしろ、肉親とのトラウマにより異性の性を感じさせる要素を倦厭してしまう。その一方で、ハルタは小さなもの、弱いものを自動的に助けようとする。それはトラウマの裏返しであるのだが、ハルタはそうした社会的弱者を見ると、切り捨てることができない。だからこそ、雪子には両義的な想いを抱いている。
ハルタが雪子からの求婚を受け入れ、雪子との未来を覚悟した後で、雪子に連れられて天狗の国に小旅行に出かけた。そこで、かつて『みすずの国』で登場し、「人間あがり」と見下されながら、ただひたすら天狗の国での修養期間に耐え、人間の国に帰還することを望んでいた祐太朗と出会う。祐太朗は人間の国に戻り、そこでパートナーを得たにもかかわらず、その彼女と離婚し、再び天狗の国と関わる生き方を選んでいた。何が彼をそうさせたのか。
僕は、上記の祐太朗の言葉にどうしてだか共感してしまう。そして共感の後で泣いてしまう。さらには、自分が日本社会で生活することで踏みにじってしまうあまたの他者に罪悪感を抱く。たぶん、ハルタも雪子に対してそのような感情を抱いているのだろう。人間の国が豊かなになるために行っている天狗の国への開発によって、雪子の故郷が奪われる。ハルタの母親はその開発の好景気によって会社の利潤を上げ、その利潤があるからこそハルタは進学校に通い、故郷留学なども簡単にできてしまう。
ハルタは雪子と添い遂げるために故郷留学を終え、東京の進学校を卒業し、無事に有名大学へと進学することになる。しかしこれらの行動は東京に、家族に別れをつげるためであった。ハルタは雪子との結婚に関して、家族の猛反発を受ける。実母は一度離婚しており、ようやく再婚相手やその連れ子、ハルタとの新たな家庭を築こうとした矢先の出来事であった。
母にとってハルタの行動は理解できない。いや、家族のだれもハルタのことを理解できない。彼彼女らの世界において、天狗の子はいないも同然なのである。唯一、ハルタだけが偶然、雪子という天狗と出会い、彼女の存在を受け入れたのだが、それは家族との訣別を意味していた。ハルタは再び東京を離れ、故郷留学先の地方都市で生きることを決意していた。
それでもハルタは粘る。有名大学に進学し、一つの社会的立場を得た後で、人間の国で雪子と結婚することの意味を推し量る。その未来のために着実に準備し、貯金をため、移転先の学費を両親に求める。ハルタは家族と絶縁し、雪子との二人だけの世界を望んでいるのではない。「人間の国」で人間と天狗が共に生きるためには、社会的に両者が許容されなくてはならない。だからこそ、家族の反発を受けてなお、実母と義父への説得をやめない。学費という実利だけが目的なのではない。両親の望む進路と訣別してなお、家族とのつながりを金銭的援助という一つの手段において確保したいのだ。実母と義父と義理の妹はハルタが所属する小さな社会だ。ハルタの決意は社会を切り捨てることにあるのではない。社会に立ち向かってゆくことにある。
駆け落ちのように結婚し、貧しい中でハルタを出産した実母にとって、ハルタは厳しい冬の先に待ちうける希望の「春」であった。ハルタが生まれたことで、彼女は春を迎えることができた。夫と離婚してなお、ハルタに不自由をさせないように少しずつ蓄えを増やしていった。けれども、ハルタは身を切るような冬を選んだ。家族と訣別し、それでも理解を求めるために説得を繰り返し、その都度傷ついていった。ハルタはもう生き方を選んだのだ。
ハルタと雪子の未来はおぼつかない。いや、現代日本で暮らす人々にとって未来はもはやかつてのように自明なものではない。昭和が終わり、平成になってから、この国は失い続けてきた。そして令和の今も失い続けている。
「幸せになれるんだろうか、この時代で、この国で」という雪子の言葉は、人間の国もまた天狗の国ように没落し、滅んでいく見通しを否定できないでいる。『みすずの国』も『キリンの国』も個人の自立と主体化に重点があったと思う。しかし、社会が不安定化した世界で、個人の自立はどこまで力をもつのか。個人が自立してなお、立ち行かない世界が、目の前に広がっているのではないか。そのとき、社会とは、国とは・・・・・・。なぜ、人々は「国」というものを求め、そこに居場所を求めるのだろうか。どうすれば国は人々の居場所になることができるのだろうか。