東洋文庫探訪記
2018年4月9日。郡山市からさくら交通の高速バスで東京駅へ。晴天。バスの中では音楽を聞いたり、寝たりしながら本も読む。ヘイドン・ホワイト, 上村忠男訳『歴史の癒法』作品社, 2017年
ホワイトの議論は歴史家による歴史の全体化についての指針を提供する。全体として措定していることはいかなる概念なのか。
東京駅到着後、山手線で駒込に向かう。今日の目的は六義園と東洋文庫ミュージアムの見学。
昼食後に六義園へ向かう。東京にこんなところがあるのかと思うほど、広々とした庭園である。新宿の新宿御苑を窺わせる。
外国人客が多い。東京駅から30分足らずで来られる庭園文化に注目が集まるのかもしれない。
一時間ほど散策し、東洋文庫へ。天気が良いので心地よい。
東洋文庫は以前から学芸員の募集や、教育に熱心なので注目していた。本日初訪問。
展示の仕方がおもしろい。ビジュアルに力を入れ、ミュージアムを身近なものにしようとするキャプションがよくわかる。
特別展のハワイに関する展示を見たくて来館した。ハワイに限らず太平洋の島嶼を総合的に扱い、歴史や文化を一覧できる形にしている。
移民という国家事業と移民者の生活誌。移民先の島々の表象の仕方。植民地史の比較史でもある。
外国だけではない。植民は沖縄や小笠原諸島、伊豆諸島にも当てはまる。
しかし、もう一歩がほしいと思う展示だった。
巣鴨駅まで歩き、電車で池袋の大都会という居酒屋へ。天気が良いので喉が乾く。ビールが飲みたい。
ビールを飲みながらこの文章を書いている。
お酒を飲むと映画を見たくなる。ブラックパンサーが良いかも。
さかなのば
港町の魚屋さんで魚をつまみにお酒を飲んだら最高だよね
という趣旨のイベントに、2017年12月10日に参加しました。
企画は小名浜のフリーライターである小松理虔さんで、主催の場所はさんけい魚店*1という小名浜にある魚屋さんです。
わたしが福島で生活するときに、この人の生き方を参考にしようと思った方が小松理虔さんです。わたしはお酒も好きですし、魚を食べながら日本酒を楽しむついでに、ぜひ一目、理虔さんを見てみよう(できたら話をしてみよう)と、勇気をふりしぼって参加してみました。
当日は郡山市からいわき市に向けて出発し、いわき市立草野心平記念美術館、いわき市暮らしの伝承郷、いわき市立美術館を見学した後で、会場近くのビジネスホテルにチェックインを済ませ、イベントに臨みました。
会場は老若男女が笑顔でさかな(魚・肴)とお酒を楽しんでおり、あぁ、近所にこんな所があったら日々の鬱憤を晴らすにはもってこいだろうなぁ、と羨ましく思います。
わたしは明らかに「いちげんさん」であり、微妙に所在がないので、普段よりもとても早いペースでお酒を飲み、財布の中身をすり減らしていました。お酒を出してくれるお兄さんが丁寧に「このさかなにはこのお酒があう」と紹介するままに、杯を飲み干していました。
ハイペースの理由はもう一つあり、会場にいる理虔さんになんとか話しかけられないだろうか、でも胃がひっくり返りそうに緊張する、酒をのまねば、という意識が働いておりました。というのも理虔さんに話しかける地元の方らしき人々が絶えなかったので、いま行くと迷惑になるかなぁ、という不安がぬぐえなかったのです。いやまぁ自分が臆病なだけなんですけど。
ようやく声をかけることに成功し、お話をさせていただきました。理虔さんはまず自分が動くということを心がけていらっしゃるようで、何もないところに何かを生み出し育む、ということを続けたいとおっしゃっていました。その意味では一つの場所にこだわるのではなく(もちろんご家族の都合もあるので完全に自由になれるわけではない)、新しい場所に飛び込んでいきたい、というお考えであるようです。それは、場を立ち上げた自分がやがて地元の権威になってしまい、せっかく開いた場所が再び閉じてしまうことを懸念されているようでもありました。
あぁ、世の中はこのような人によって動いているのだと思いました。地域をかきまぜ、場所を、人を外に開かせる。そうしなければ固定化した価値観のもとで地域は衰退にはっきりと向かってしまう。地方を転々として生活してきたわたしにも思い当たることが多々あります。
動く、というのはとても大事なことです。身体を動かして、自分の視界を別の場所に、別の方角に向ける。見たことがない景色を見る。右に行ったことがなければ、左には行けない。下に行ったことがなければ、上には行けない。
イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。
魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。
理虔さんとお話をすませ、血中にも十分にアルコールを送ったわたしの口はいつのまにか滑らかになり、小名浜の地元の人とも少しお話することができました。とても嬉しかったな。イベントが終わってもその足で、お酒を出してくれたお兄さんとお話をしていた方2名と共に焼肉屋さんに行って、しめの1杯とお肉を食べました。
良い夜だったな、と思って、床についた。
福島での生活
10年ぶりに、福島に戻ってきました
イギリスの生活を終えたあとで、福島で生活をしています。
高校卒業を機に、実家のある福島県郡山市を出て、10年以上の月日が経ちました。福島出身者としては、どうしても2011年の震災が影響力をもち、自分と福島との距離をはかりかねたり、福島のことをうまく消化できない日々が続きました。
イギリスで生活しているとき、幾度となく福島のことを考え、なぜか福島に関わる記事ばかりを読んでいました。
実家の親のことを考え、福島での生活を想像しながらも、はたして福島で暮らすことが自分の人生にとって良いことかどうかがわかりませんでした。福島で暮らすことに納得できるかがわかりませんでした。
小松理虔さんという存在
そんなとき、小松理虔さんといういわき市小名浜出身のフリーライターの記事を読みました。
これだと思いました。
理虔さんは福島県のテレビ局に就職したあと、中国上海で編集者として働き、小名浜に戻ってきて、蒲鉾メーカーで働いていた方です。小名浜ではフルタイムの仕事をもって働くかたわら、ウェブマガジンがオルタナティブスペースを管理し、日々を過ごしています。
理虔さんの記事を読んでいると、人は土地に拘束されるのではなく、土地を生きる(活きる)存在だと思えます。もちろん、人と土地、地域の関係は何不自由なくというわけにはいきません。しかし、それでも人は自らが住まう場所で、日々の営みをこなし、そこに生きることの喜びと楽しさを見出していく生き物だと思いました。そうでなければ、人はその場所で暮らしていくことができないのだと思います。
その町で暮らすこと
詩人の大岡信氏の作品に調布Ⅴという作品があります。
まちに住むといふことはまちのどこかに好きな所を持つといふこと。
まちのどこかに好きな人がゐるといふこと。
さもなけりや、暮らしちやいけぬ
その場所には、好きな所があり、好きな人がいる。
そんなことを見つけられたら、どこでだって生きていける気がする。
2018年3月29日
ナショナル・ギャラリー National Gallery
中世から近代までの西欧絵画を網羅するイギリスの国立美術館
ナショナル・ギャラリーはロンドンのセントラルの中でも、さらに中心に位置しています。少し南に歩けば、ビッグ・ベンやウェストミンスター大寺院も見ることができますし、晴れた日にはテムズ川のほとりを歩いて楽しめます。
余談ですが、年末年始のカウントダウンでは、ロンドンで花火が上げられますが、このナショナル・ギャラリー周辺は花火を見るための絶好のスポットであり、多くの人々で混雑していました。
13世紀末から20世紀初頭までのヨーロッパ絵画を網羅
ナショナル(国立)という名称がついていますが、この美術館のコレクションはイギリスの作品に限ったものではありません。ゆえに、館内にはイタリアやフランス由来の作品が多々あります。
1824年に創立されたナショナル・ギャラリーですが、その設立の趣旨は、イギリスにおける美術の遅れといった問題意識があったようです。
まずは、1823年に発起人の一人であるサー・ジョージ・ボーモントが展示と保存のための建物を条件として、自身のコレクションを国家に寄贈することを約束します。その後も、聖職者のホルウェル・カーなども同じ条件のもとで寄贈を確約しました。こうした人々の寄贈には、ルーベンスやレンブラントの著名な作品も含まれていたようです。
1824年には、ナショナル・ギャラリー設立のための決定的な出来事が起きます。一つは、サンクト・ペテルブルク出身の金融業者、ジョン・ジュリアス・アンガースタインのコレクションが売りに出されたことです。二つ目は、オーストリアから戦績の支払いがあったことで、ギャラリー設立の予算の目処がたったことでした。
現在のトラファルガー・スクエアに施設が移転されたのが、1838年ですが、どうもこの新しい建物は評判が芳しくなかったようです*1
「もっと知りたいと切実に望んでいる人々」のために
イギリスにおけるナショナル・ギャラリーなどの国立博物館・美術館は基本的に入館料が無料となっています。これは、フランスやイタリアの国立ミュージアムにはみられない、イギリスの顕著な特徴です。そのおかげで、実に様々な背景の人々が、気軽にミュージアムに行き、作品を鑑賞するという文化が定着しています。イギリスにも多くの課題がありますが、ことこの文化政策に関しては、わたしは手放しで称賛しています。
ナショナル・ギャラリーは来館者がより静かで落ち着いた環境で作品を鑑賞するために、何度か移転の話が持ち上がっていたようです。しかし、「1857年度ナショナル・ギャラリー用地問題に関する議会諮問委員会」に対するコーリッジ判事の意見に代表されるように、「ロンドンの雑踏のただなか」にあってこそ、ナショナル・ギャラリーは価値があるという考えが根底にあるようです。
彼の意見では、「美術についてはごく控えめな知識しか持ち合わせないが、もっと知りたいと切に望んでいて、仕事で手一杯なので、ときどき半時間か一時間の暇ならあっても、丸1日の暇はめったにない――そういう階層の大勢の人々」のためにこそ、ミュージアムは存在する意味があるとされます。
こうした姿勢は、現在でも踏襲され続けており、コーリッジの言葉はこのギャラリーの理念にもなっています。「絵画がそこにあるということ自体はコレクションの目的ではなく、手段に過ぎない。その手段によって達成すべきは、人々に精神を高めるような喜びを与えることなのである」と*2
クロード、ターナー、モネ、風景画の英仏文化交流
ウォーター・ルームから17世紀の絵画方面の通路を通ると、8角形の小さな小部屋につきあたります。そこでは、イギリスの天才画家ウイリアム・ターナーの絵と、彼が影響を受けたフランス人画家のクロード・ロランの絵を同時に見比べることができます。
これらの絵の配置は、ターナーの遺言によるものでした。彼は自身の絵とロランの絵を来館者に見比べさせるだけでなく、主要な絵画形式としての風景画が17世紀の所産であることを主張しようとしたとされます*3
まばゆい日の光にさらされた港町の光景は、様々な技巧がこらしてあるにも関わらず、見るものにただ純粋な美しさ、このような風景画に出逢えることの喜びを感じさせます。
クロードの影響を受けたターナーは、光を積極的に絵の中に取り入れます。こうした試みが、われわれのよく知るフランスの印象派の絵よりも半世紀ほど早く行われていたのですから、ターナーの才能には舌を巻きます。
また、実際に印象派の人々もターナーの作品に影響を受けていたようです。例えばモネの作品の変化の仕方は、ターナーのそれと重なるところがあります。ターナーが歴史画や神話をモチーフにした写実的な絵画から出発し、やがては非常に抽象的なモチーフの中で、光や色のあり方を追及していったように、晩年のモネも目を患いながら、より抽象的な描き方や、やや奇抜な色遣いになっていきました。
上の作品は、テムズ川とウェストミンスター寺院を描いたモネの作品です。クロードの影響を受けたターナーに影響された印象派の一人が、ロンドンの絵を描くというのは、どこか運命的なもの歴史的なものを感じますね。
さて、今回は長くなってしまいましたが、やはりロンドンはヨーロッパの中心といえるところがあると思います(ブレクジットによって状況は変化しつつありますが)。ロンドンの中でも中心にあるナショナル・ギャラリーでは、ヨーロッパの絵画の歴史を一覧できます。ヨーロッパの中心でヨーロッパを眺めるという経験は、少し不遜な気もしますが、とても貴重で特異な経験になると思います。
2017年3月12日
*1:エリガ・ラングミュア著, 高橋裕子訳『ナショナル・ギャラリー・コンパニオン・ガイド 増補改訂版』イエール大学出版, 2016年, 9-10頁
*2:同上, 10頁
*3:同上, 182頁
*4:クロード・ロラン Claud Lorrain≪海港、シバの女王の船出≫Seaport with Embarkation of the Queen of Sheba, 1648年, カンヴァスに油彩, 149×197cm
*5:ウィリアム・ターナー William Turner≪カルタゴを建設するディド≫ Dido Building Carthage, 1815年, カンヴァスに油彩, 155.5×231.85cm
*6:クロード・モネ Claude Monet, The Thames below Westminster, 1871年頃, キャンバスに油彩, 47x73cm
Seaford Museum
かつての軍事施設が博物館に
Seaford Museumは、セブン・シスターズという丘陵の岸壁が有名な海沿いの町、シーフォードにある博物館です。
この付近の港町からはフランス行きの船が出ており、フランスとの関係が深い土地柄です。イギリスとフランスは、百年戦争などの例もあるように、隣国同士であり、歴史的な因縁も浅からぬ間柄です。
実際にこの博物館もかつては、フランスから進行してくる軍団を監視するための見晴台や要塞として機能していたようです。
また、第一次世界大戦以降は、イギリス軍の練兵のための訓練場所としてシーフォードは利用されており、それらに関連した展示もありました。
雑多で穏やかな展示室
この円形の建物の入り口から下に降りていくと、展示室があります。中はけっこう奥行があって、意外に広く感じられます。
展示では、シーフォードの軍事的歴史を扱っていますが、その他にも、イギリスの近代における服飾や生活文化の展示もありました。
良く言えば幅広い展示を扱っているともいえますが、率直にいえば、展示にあまりまとまりがなく、雑多な印象も受けます。
例えば、なぜかラジオのコレクションの展示がされていましたが、特に他の展示との関係が説明されていないので、なんでこんなところにあるのだろう、と不思議に思いました。
けれども、どこか懐かしく温かいような空間だと感じました。おそらく個人の寄贈によって形成されたコレクションが、まとまりがあるような、ないような形式で展示されています。古いものが自然と集まった結果として出来上がった博物館、というような印象を受けます。
説明が少ない分、これは何だろう、あれは何だろうと想像が膨らみますし、こんな古い物がまだあったのか、というような率直な驚きも生まれます。近代的な博物館が切り捨てていった、見知らぬ物が集まることの不思議さ、珍奇さといった感慨が、この博物館には未だ残されているように思えるのです。それはまるで「珍奇の部屋」であるように。
古びた過去はどこへ行く?
昨今の世の中では、古い物はどんどん捨てられ、新しい物に置き換わっていきます。古びた物たちは、どこへ行けば良いのでしょうか。そうした古びた過去たちをわたしたちは捨て去ってしまって良いのでしょうか。
博物館の維持は決してたやすいものではありません。ある地域にこのような施設を設立すること、そして維持していくことによって、ようやく過去の物たちは行き場を得るのです。そのことで何か経済的な利益が生まれることはないかもしれません。けれども、わたしはこのような博物館が、きちんと残されていることに、とても嬉しくて安心する想いを抱くのです。
2017年3月7日
Brighton Museum & Art Gallery
保養と娯楽の港町、ブライトンにて
ブライトンはロンドンから列車で南に一時間ほど下った場所にある港町です。
ロンドンから手軽に行ける観光地であり、多くの人々でにぎわっています。
特に上の写真のBrithton Pierと呼ばれる長い橋には、遊園地やゲームセンターなどが入っており、家族連れの人々が余暇を楽しんでいる様子がうかがえます。
ちなみに、森薫の『エマ』という漫画でも、保養地としてのブライトンが紹介されています。
ブライトンが現在のような姿になったのは、いかなる歴史が関わっているのでしょうか。
Brighton Museum
ロイヤル・パヴィリオンという名所のすぐ近くに、このミュージアムがあります。
エントランスを抜けると、すぐに色々なインテリアデザインの展示が目に入ります。特に、古今東西・新旧様々な椅子のコレクションが展示の特徴であるようです。
ブライトン・ミュージアムでは、美術品の展示だけはでなく、ブライトンの歴史も展示しています。
ブライトンの歴史
ブライトンは漁業を中心として港町として発展し、17世紀中葉まではサセックス州で最も発展した街になりました。ところが、1700年代になると、漁業は衰退し、人口も減少してしまいます。
こうした街の状況を変えたのが、一人の医師によるある治療法の考案でした。Dr Richard Russell が海水の飲用と海水浴のために患者をブライトンに送り始めたのです。
こうしてブライトンは保養のためのリゾートとしてにぎわい始め、新たな雇用が生まれ、再び急速に発展していったのです。
1840年代には列車が開通し、ブライトンは保養地から観光地へと変化します。その結果さらに多くの観光客がブライトンを訪れるになります。となると、観光客のためのナイトクラブなど、夜の娯楽も提供されるようになり、ブライトンは昼夜を問わない娯楽の街となりました。
このような歴史は、日本でいえば鎌倉や伊豆などの地域にも通じるものがあり、興味深い港町の歴史であるように思います。
アフリカとヨーロッパ
また、特別展では、アフリカのファッションの現在というテーマの展示がなされていました。多くのドレスなどの衣装がアフリカらしいカラフルな色合いで作られており、その斬新な装いは十分にイギリスやヨーロッパのファッションの世界に影響を与えているのだと感じました。
イギリスにいると、人々の関心がアフリカに多く注がれていることに気が付きます。日本にいるとアフリカというのは貧困などのイメージが先行した「遠い国」ですが、ヨーロッパの諸国にとってみれば、移民の関係もあり、とても身近な地域なのだと感じられます。
住む場所が変われば、関わりをもつ人々も、身近な人々も、手に入る情報の種類も変わります。それは当たり前のことかもしれません。けれども、その当たり前を実感することは、とても大切なことなのだと思います。
2017年3月7日
ヴィクトリア&アルバート博物館 Victoria and Albert Museum
イギリス屈指の総合博物館
Natural History Museumのすぐ近くに、このヴィクトリアン&アルバート博物館があります。
館内の広さはロンドンのミュージアムの中でも屈指であり、展示内容も絵画のみならず、古今東西の衣装やファッション、歴史、生活用品などを展示しています。規模でいえば大英博物館には及ばないものの、より人々の社会生活に密着したドレスや音楽など、展示に魅力的な幅があります。
博物館と美術館の性格を兼ね揃えた、まさに総合博物館といえるでしょう。
芸術とデザインの原理のための知識をめざして
V&Aは、もともとはThe South Kensingtom Museumとして、1857年に誕生しました。その目的は、"knowledge of the arts and of the principles of design"を向上するための教育施設でした。アートと並んでデザインの探求が重視されていたことがわかります。
館内の3階の回廊付近に、V&Aの成り立ちが詳しい説明が展示されています。
Luxury, Liberty & Power
大英博物館の展示が主に古代から近代までのイギリス史を扱うのに対して、V&Aでは中世の宗教改革から現代の製品、ファッションに至るまでの各時代におけるイギリスの歴史の特徴をわかりやすく解説しています。
例えば、イギリスといえば紅茶のティー文化が盛んでありますが、このような流行が生まれたきっかけは何だったのでしょう。
こうした食文化の発展は主に18世紀後半から19世紀前半にかけて起きたと考えられるようです。そもそも上の写真のようなティーセットを揃えるためには、安価な品々を大量生産するための工場や機械技術の発展が不可欠でした。すなわち、産業革命を筆頭とする産業の発展なくして、ティー文化は成り立たなかったといえるでしょう。
また、この時代に古代ギリシャの研究や調査発掘が進んだことも、大きな要因であったようです。一見するとギリシャと紅茶には関係がないように思えますが、ギリシャの人々が重視した、余暇を楽しみ充実させようとする精神が、手本とされたようです。
もちろん、海外からもたらされた紅茶の原料や砂糖、あるいは陶磁器といった生産品も見逃せません。イギリスがスペインやオランダを後追いし、海外に進出した結果、多くの外国の文化や貿易品がイギリス国内にもたらされました。
特にお隣のフランスでは、ルイ14世の治世下において、豪奢で華美な装いやふるまいが流行り、こうした生活様式はヨーロッパに広く普及していきました。
この時代、少なくない人々が徐々に貧困から解き放たれ、生活を美しく高価な物品で快適にすることを覚えたのです。
彫刻の空間展示
V&Aでは彫刻物も見事に展示されています。これらは、一つ一つが順番に並べられているのではなく、ある空間を満たし、彩るような配列で展示されています。
イギリスやヨーロッパの展示の特徴は、展示品の一つ一つに焦点を当てるというよりは、それらの展示品を利用して空間をデザインすることに重点を置いているように感じられます。そうしたことを可能とするのは、やはり多くの貴重な資料をふんだんに所蔵しているからでしょう。また、博物館や美術館自体が貴重な歴史的建築物であるため、内装をも含めた展示を鑑賞者に提供できるような工夫がなされています。
圧倒的な歴史と、圧倒的な展示品、そして圧倒的な建築物。ヴィクトリアン&アルバート博物館は、まさに博物館の始原となった「珍奇の部屋」を連想させるような、素敵なミュージアムです。
2017年3月5日