博物学探訪記

奥会津より

厚切りジェイソン、藤井靖史、菅家博昭: 会津探訪の長い一日

2018年7月8日(日)晴れ

 

昼前に郡山から会津若松へ車で向かい、渡部さん・長谷部さんと合流して、会津風雅堂の講演会に参加する。

 

講演会「どうせ田舎?チガウダロ!~可能性だらけ!福島のこれから~」

会津風雅堂 13時~15時

主催者:公益社団法人日本青年会議所 東北地区 福島ブロック協議会会長 赤津慎太郎

講演者:株式会社テラスカイ役員 厚切りジェイソン会津大学 準教授 藤井靖史

 

厚切りジェイソン

 

 日本社会の学制(学校生活・受験制度)、労働制(就職試験、新卒制度)は50年前からほとんど変わらず、社会情勢に適応させないことで、優秀な人材を輩出しにくい構造になっている。

 

 アメリカでの経験と比較すると、日本社会は多様性に乏しい。そのことは国際社会における競争という面から考えてみても、不利にはたらく。Googleなどのトップ企業で働くためには、その道の先端専門家にならなくてはならない。1000人で競争した場合、999人よりも優れている人材のみがトップに立てる。では、残りの「凡人」である999人はどのように競争に打ち勝てば良いのか。

 

 厚切りジェイソン氏は、自分は成績的には優秀だが、トップになる器量はなく凡人であったという。しかし、ミシガン生まれ、コンピューターサイエンスのスキル、日本語能力を組み合わせることで、能力の多角化・多様化を図った。つまり、各分野において10人中1人が保持するようなスキルを3つ持っていれば、1/10×1/10×1/10=1/1000の人材になることができる。多様な能力を複数所持することは、結果的に先端専門家と同等の地位に就くチャンスを手に入れることに等しい。999人の代替可能な「凡人」を育成するよりも、多様なスキルをもつ人材を登用できる社会システムを構築すべきである、というのが厚切りジェイソン氏の主張である。

 

 そのためには、初めから1/1000の技術を目指すような「職人業」的スキル構築ではなく、最低限に必要なことを実施して、たとえ失敗したとしても実践を繰り返すことで改善をめざすMVP式(実用最小限の製品: minimum viable product)が望ましい。MVP式は人生哲学に対しても適用できる。自分の職業や年齢に関わらず、とりあえずやりたいこと・やってみたいことに挑戦し、自分の枠を広げ、多様な自己を構築するということだ。実際に厚切りジェイソン氏はエンジニアとして働きながら、お笑い芸人を志し、成功している。

 

②藤井靖史

 

 藤井氏もまたアメリカの一流企業でコンピューター・エンジニアとして働いた経験をもつ。藤井氏の講演で印象的だったのは、講演の途中で「対話の時間」をもうけ、参加者同士が話し合うよう促したことだった。藤井氏が人と人をつなげる「場」の重要性を意識していることがうかがえる。

 

 藤井氏は会津に引っ越していらい、生活の中で地元の人々と触れ合う機会に恵まれ、日本で失われかけている地縁が残っていることに驚いたという。人々の「親切の中」で育つ子どもは幸福であり、このような地域の過去と現在の「時代をつなげる」役割を積極的に果したいと考えるようになった。これは生活面のみならず、日本の社会構造にもつながる側面をもつ。

 

 日本の企業は商品を中心にハードウェアなどの構造を作ることはできるが、商品を介した人々のつながりという対流・ムーヴメントを作ることができない。商品は商品であるのみならず、人々の関係をつなぐ媒体として作用するのであり、そのことで人的交流が生まれ、商品もまた更なる購買の対象となる循環が生まれる可能性をもつ。「関係人口」という概念が含意することは、関係そのものに価値があり、関係がヒトやモノを動かす原動力となることである。人々が集まることはそれだけで可能性なのだ。そして、かつては無尽(むじん、奥会津では「むんじん」と発音する場合がある)や講などの風習によって人々が集まる場を形成してきたことにならい、現在でもこのような対話のシステムを構築する必要があると藤井氏は語る。

 

 二人の講演者が共に指摘するのは、時代の変化に対応する社会システムの変化の必要性である。厚切りジェイソン氏はトライアンドエラー(try and error)を繰り返すことで、新たなスキルや価値、関係を構築する方法を述べ、藤井氏は過去の文化や風習を参照しながら、現代において有用な歴史を模索する。歴史を頼みにするよりも、自ら歴史を作り上げる厚切りジェイソン氏と、現在の課題を歴史の教訓に学ぶ藤井氏といったところだろうか。どちらの指摘も重要であり、現代的な課題は双方向、多方面において検討されるべきである。

 

 両者の問題点を述べるのであれば、次の通りである。厚切りジェイソン氏の方法論は新自由主義的、言い換えれば現代的思想を背景にしている。確かに多様なスキルは生存のために重要だが、そもそもそのようなスキルを入手することが難しい境遇にいる人々に対しては有意な発想とはいえない。多様なスキルを手に入れるだけの学識と金銭、時間を持てる人は限られており、一日のほとんどを労働に費やさなければいけない人々などには一律に適用できる方法論ではない。

 

 また、試行錯誤などの繰り返しを適用できない分野の事柄もある。例えば文化財の保護や伝統産業などに対して、技術の向上は無論のこと大きな影響をもたらすだろうが、失敗しても次に行くという機会が制限されている場合には、より慎重な取り組みを要するだろう。

 

 最大の問題として、試行錯誤を行う方針そのものが時代に適応できなくなったときにどのように対処するかが不透明である。時代状況が大きく変化する時代(少子高齢社会と人口減は人類が初めて経験する事態である)にあって、どのような試行錯誤を行うかは、現代をより広範な歴史へと位置づけて初めてその問題を明確に認識できるのではないだろうか。

 

 藤井氏に対する意見として、藤井氏が良しとして参照する過去とは実際にいかなるものであったのかが問われる。現在のフィルターを通して見る過去は、すでに失ったもの、あるいは失いつつあるものとして、なるほど現代のわれわれの眼にはまぶしく見えるかもしれない。しかし、失いつつあるということは時代状況に適応できなくなった、あるいはそぐわなくなったということであり、それをいたずらに復活させようとしても長続きはしないだろう。

 

 また、ほとんどの風習や文化はプラスの面もあればマイナスの面もある。どのような過去を参照しようとも、その良いところだけを選び取ることは難しいかもしれない。過去と現在の時代状況をまずは事実レベルで把握し、その後比較検討、場合によっては改変を含めて過去の出来事を参照すべきではないだろうか。

人数は確かに何事を始めるにしても推進力として重要であるが、人々の利害関係や目的の配分などを適切に行えなければ、おそらく何事も始められない。そうかといって、中心的な立場の者がトップダウン的に物事を推進していけば、多様であるための人員が硬直化し、株式会社などの運営方法と変わらない組織形態になる。昨今の風潮として、場をとりまとめるリーダーの養成が声高に叫ばれるが、それは従来のトップダウン方式あるいは中心-周辺関係の構築とほとんど変わらない。われわれはむしろ、遅々として物事が進まないことを受け入れながら、利害の異なる(ときに敵対する)人々の話に耳をかたむけ、地道に物事を進めることに慣れていかなくてはならない。

 

会津学研究会 菅家博昭『生活工芸双書 からむし(苧)』(農文協)出版記念講演

三島町西隆寺 16時~19時

司会:遠藤由美子

講演者:菅家博昭氏

 

 会津風雅堂で講演を聴き終えた後、会津美里町方面から農道を通り、三島町西方の西隆寺へ向かう。

 

 私はからむしに関する知識はあまりなく、からむしのことを知れば知るほどおもしろいという読み方はしない。むしろ仕事で関わりをもち、集落誌調査の手ほどきを受けた菅家博昭氏に対して興味があり、菅家氏がなぜからむしと関わり、単著を執筆するに至ったのかを知りたいと思っていた。

 

 新刊をぱらぱらめくりながら、菅家氏の話を聞いて考えたことをここに書く。専門的な話に対していかに一般的な意味づけを行えるかの試みである。

 

 からむしに限らず人間は植物資源を活用してきた。資源の活用はその技術の伝播を含めて集合的・社会的な営みである。当然その営みは自然環境や社会集団による制約を受けるが、そのことがかえって集団のアイデンティティの形成を促進し、植物利用を通して集団の特色が浮かび上がる。そこに暮らす人々は植物資源の所在を生活圏に組み込み、集落の範囲や自分達の存在を確定する足場として築くことになる。実際に菅家氏はからむしを調査するなかで、利用法や態度がからむしの生息地・生産地によって異なることを発見する。人々はからむしと多様な関わりをもち、その利用法を独自に編み出す一方で、一度生まれた方法や環境のもとに拘束される。このような植物利用にまつわる自由と拘束が、地域にアイデンティティをもたらすのである。

 

 植物利用の多様性と独自性は、他地域との関係構築につながる。昭和村であれば、からむしを織ることによって上布の原料を生産し、新潟に流通させていたとされる。ただし他地域への貿易は植物栽培の産業化をまねく事例もあり、資源の枯渇や他地域との面倒ごとに巻き込まれる場合もある。足場を築くこととは、他者や他地域に認知される領域を生み出すということであり、関係を生むこともあればやっかいごとを招く可能性もあるというわけだ。アイデンティティの構築とは他とは異なるという点で、社会的な営みであり、それは自他関係の構築につながる。その一方で、人々の生活が他地域・他集団によって拘束されることもまた、いま一度指摘しておかなければならないだろう。

 

 しかし、一度築いた足場はやがて時代が変遷するごとに、足跡へと変わっていく。植物利用の技法が伝統として脈々と続いていく例もあるだろうが、伝統もまた時代ごとに「発見」されていく。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが『創られた伝統』(1983)を編集したように、太古のものと思われた「伝統」は近代になって「伝統」として発明された例が多々ある。伝統は不変を意味しない。むしろ、それぞれが築いた足場は時代ごとに意味や目的を変える。からむしでいえば、クジラ漁の網の素材として使われたこともあれば、軍服の素材として使われた例もある。

 

 菅家博昭氏がからむし利用の現代的意味を、「いまや農産物を加工し販売する6次産業化の流れや、地産地消、あるいは生活工芸への注目という社会の趨勢は、これまでにない流れとなっており、21世紀が目指すべき「自然との共生」を考えるなら、「小さな暮らし」の価値を感じるものである」(『生活工芸双書 からむし(苧)』, 2頁)と述べる一方で、からむし利用の歴史的変遷を詳細に記述するのは、現代もまた過去に変わっていくことを示唆している。しかし、大きな社会変化の中にある現代にとって、現状や未来への指針を模索する際には、過去はいつでも有益な情報を提供する。足場は足跡となり、さらにこれまでの軌跡を顧みるための例となる。

 

 そのような過去の参照は、正確かつ詳細であることが望ましい。実際に過去がどうであったかの情報は改変の試みも含めて多くあるだけ、過去は豊かになりうる(ただし煩雑にもなりうる)。先の厚切りジェイソン氏と藤井靖史氏に足りない点はこのことだろう。現代において有効な方法論もまた、時代が変われば無用の長物になりうる。未来に対する指針は通り過ぎる現在にのみあるのではなく、過去を振り返ることで見えてくるものもあるだろう。しかし、過去を参照する前に、過去とされるものを詳細に検討し、資史料を用いて探求する試みもまたなされなければならない。

 

 奥会津昭和村にあって、人々とからむしの関係はこれまでに変化してきたし、これからも変化していくだろう。しかし、いまなお「からむし」という植物に接近できることを称賛したい。人々の足場が記録としてのみならず、生活の実践として残っていることは珍しい。昭和村には「からむしという足場」が残っている。しかし、これらは自然に残されたのではなく、残そうとする意志と実践の結果として残っているのである。私が菅家氏に『生活工芸双書 からむし(苧)』という本を著した意味を尋ねた際に、もともとからむし工芸博物館にある史料を活用するために、その利用法を調べており、人と素材の付き合い方を追求したいと考えていたと答えられた。また、菅家氏は仕事を通じて社会とつながることを人生の指標として掲げており、農業は仕事として、からむしの探求は社会への責任として行っていると話している。足場を残すのも、足跡をたどることも、そしてそれらを軌跡として歴史を描くこともすべて、人の営みである。菅家博昭氏の本を読めば、人とは顔と名前をもった個々人であることがわかるだろう。

 

 人々という匿名が物事を進めているわけではない。みんなが集まれば何事かが解決されるわけではない。名前と顔をもち、生活を営む一人ひとりが、自分の時間を割いて、集まりに参加し、ある問題を引き受け、実践を積み重ねてようやく、解決の糸口が見えてくる(かもしれないし、そうではないかもしれない。結果が保証された実践などない)。そのような実践の記録を綴ったものが、『生活工芸双書 からむし(苧)』という本なのだ。

 

 ということを、会津学研究会で話を聞いて、そのあとぼんやりと考えて思いつきました。まだ実際に本を読んでいないので、読んだらまた別の感想が出てくるかもしれないので、あしからず。