博物学探訪記

福島県郡山市より

長崎探訪記

2018年7月20日、夕方。博多駅から高速バスに乗り、長崎駅に到着。下の写真の時刻は16時15分ほど。

 

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この日は駅近くのホテルにチェックインして、特に行動せず。

 

翌21日より、長崎探訪を行う。

 

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 長崎市の南北を中心に市電が走る。大人一回120円で、ほとんどの観光地付近まで市電で向かうことができる。朝方はゆったりと座れるが、昼過ぎになるとだいぶ混雑していた。

 

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長崎原爆資料館着。アジア・太平洋戦争の一つの結節点であり、「戦後」という時間軸だけではない概念を早期させる場所である。広島の原爆ドームには行ったことがないので、日本の原爆に特化した資料館への訪問は、ここが初めてとなる。

 

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 年月日が刻まれる。和暦ではなく、西暦を用いることに、日本史の文脈には回収できない位置づけであることがわかる。

 

一見してアジア人と思わしき鑑賞者の姿が目に入る。原爆の投下は敵/味方や戦勝国敗戦国、加害者/被害者といった分類をひどく難しくする。

 

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原爆投下に関する一つの説明が私の目を捉える。祖父が沖縄県の南洋開拓移民の2世として生まれたテニアン島から、原爆を搭載したB29が飛び立った。祖父にとっては1944年にテニアン島での戦争が終わり、米軍キャンプにおいて捕虜とされていた時期のことだった。南洋群島における戦争の終結から、日本本土の戦争終結に関わる判断に影響をもたらす原子力爆弾の準備が始まる。

 

 

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テニアン会会誌』の第一号に掲載された「1977 年・版板 グレン・マクルア」のテニアン地図には、日本占領期におけるテニアンの土地利用の面影はなく、代わりにアジア・太平洋戦争の史跡を示すものとして、地図中にも “WWⅡ JAPANESE KAHE FIELD”
といった地名や、“WWⅡCIVILIAN INTERNMENT”、 “ATOMIC BOMB LOADING SITE” が書かれている。

 

長崎の歴史と、祖父の個人史がテニアンを媒介として交差する。

  

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原爆投下の年月日が展示、そして日本史、あるいは世界史に刻まれたのと同様に、原爆の被爆は人々の身体に刻印を刻む。被爆者達にとって戦後は戦争の終わりを意味しない。また、内部被爆を受けた子孫にとっても戦争の終わりは訪れない。

 

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原爆の投下は、「日本人」の物語だけにも収束しない。朝鮮人を筆頭とする中国人や台湾人、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの捕虜もまた被爆している。加害と被害が入り乱れる。軍都としての、あるいは捕虜収容場としての長崎の顔もまた浮かび上がる。誰から誰にとっての加害で、誰に対する被害なのかを単純化する企ての全てに対して、無数の多種多様な顔と名前がそれぞれの存在を主張している。

 

資料館を出てから、平和公園に向かって歩く。真夏の日光が容赦なく照りつける。街の中に転々と原爆の跡が示される。

 

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町並みの至るところで、原爆の記憶の風化を防ぐモニュメントが建っている。町を歩く人々は歴史の中をさまよう。風光明媚な明治期の西洋建築や、趣深い江戸期の建物が残る一方で、原爆の傷跡もまた生活の風景の中に溶け込んでいる。

町が、場所が過去を記録し、記憶している。

 

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浦上教会

 

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長崎県県立美術館

 

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オランダ坂

 

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大浦天主堂

 

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 グラバー園

 

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アジア系の旅行者が宿泊していると思われる豪華客船。現代を象徴する顔。

 

長崎の町を歩いていると、町の場所ごとに異なる歴史の流れがあることに気がつく。

江戸時代の貿易港として栄えた出島、明治の造船業の発展と共に異人館が並び立つ南山手、そして原爆資料館平和記念公園がある浦上方面。それぞれの地区が異なる時期の歴史を内包し、長崎を歩く人は、時代に応じた異なる長崎の様相を目撃することになる。

それは同時にどこに原爆が投下され、被害の範囲がどの程度であり、どの場所が過去の町並みを残すことができたかをも示している。それは残酷なほどにはっきりとわかってしまう。 

 

翌7月21日の午前中に、長崎歴史文化博物館を訪問する。近世から明治期までの長崎の歴史を中心に展示している。もとは長崎奉行所があった場所に、この博物館は建てられている。

 

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長崎は時間の流れを惑わす町だ。ある時期を特定して長崎の歴史を論ずることは難しく、さりとて通史的な発展史観で語られるほど、楽観的な記憶を宿していない。それゆえ、多層な顔と町並みが並置されている空間を、歩行者は歩くことによって感知する。

 

これは長崎に特有のことであるのだろうか?いや、そうではないだろう。そもそも画一的に一元化した過去をもつ町や場所など本来はどこにもない。その土地がもつ記憶と過去は他の土地と同様ではない。近代や現代、古代のみで語られる町村もまた存在しない。

 

しかし、そうであっても普段われわれが目にするものはどこかでどこにでもあるように感じてしまう。歴史がある町とは、過去の痕跡を豊かに残す町である。だが、その痕跡は時の経過と共に失われてしまう。だからこそ、長崎という町はいずれ失われる過去の痕跡を、人為をもって残そうと努めていることがよくわかる。

 

過去を未来に残す行為は、とても繊細さが要求される営みである。現代から判断した過去だけを残すのではなく、未来を基準に残すべき過去を選定する。それは町にとって不都合な事実に対しても誠実に行わなければならない。

 

ひるがえって福島はどうだろうか。原爆の被害に関して外国人被爆者の存在をアーカイブするような真摯さをもって、原発事故という出来事を表象することができるだろうか。