博物学探訪記

奥会津より

2020年4月13日 集落誌調査 金山町大字小栗山②:金山町小栗山の嫁入り

 Aさん(昭和13年出生)は昭和34年の20歳のときに金山町小栗山の旦那さんの家に嫁いだ。小栗山は畑や田んぼが平じゃなかったので驚いたとされる。三島町西方の実家は裕福で何でもあったので、その落差にも驚いたのであった。実家は百姓のかたわら菓子屋をしており、牛を2頭飼って乳をしぼり売っていた。倉も2つあり、そこでは実母がカイコを飼って養蚕を行ったり、雨の日になると子供たちが遊んだりしていたという。実父は村会議員を務め、一番上の兄は青年団の団長でありヴァイオリンもたしなんだ。Aさんは中学校を卒業すると、会津坂下の洋裁学校に進学し、その後、東京にも滞在した。

 

 Aさんが西方の実家でよく覚えているのは、村の祭りで踊り、3年続けて特賞をとったことである。特賞をとると、賞品として「ベベタンス(洋服箪笥)」やスチームアイロン、コタツ布団などを手に入れることができた。Aさんは実母から踊りを習ったが、実母も踊りが達者であり、高齢者の特別賞を受賞していた。その経験は小栗山に移っても活かされ、川口の学校の校庭で踊りを行った際も評判を呼んだ。また、Aさんは歌を歌うことも好きで、「都はるみ」や「藤あや子」、「大月みやこ」らの曲のテープを買って覚え、坂下の公民館などで歌ったという。

 

 嫁ぎ先の家では、夫が百姓を専門に行い、タバコ栽培で現金収入を得ていた。タバコ栽培は15年ほど行った。Aさんも早朝のハツミ(葉積みか?)を手伝ったことがある。夫は五人兄弟の長男であったが、父が戦死したため、家長のような役割を負った。Aさんの「オシュウト(姑)」にあたり、夫の母であるミツさんは父を失った子供たちに対して、「この子たちは育てなきゃなんねぇ」と言い、懸命に働いていたとされる。ミツさん自身もよそから嫁いできたのだが、シュウトが3人(姑および小姑を指すと思われる)もいて苦労したせいか、Aさんには声を荒げることなく優しく家事を教えてくれた。ミツさんがAさんによく語って聞かせたことは、産後のオボヤアケ(産屋明け)までに3週間を過ごした産室から夫が出征に出るのを見送ったことである。義父は妻のミツさんに自分がいないときに子育てに関して何か辛いことがあったら残しておいた手紙を読むように伝えていた。ミツさんがその手紙を読むと、子ども達もおとなしくなったとされる。義父はさらにダイコンの漬物などを自分で作っており、その作り方を記したメモを出生前にミツさんに渡していた。Aさんは実家の兄が当時の金山町長の長谷川ツネオさんと知り合いだったため、会津川口の保育園および小・中学校の調理師として30年間働いた。120人分の生徒の給食を2人の調理師で賄う必要があったため、大変だった。調理師の仕事を終えると、民宿を始めた。Aさんの嫁ぎ先では、夫婦の現金収入および戦死した義父の遺族年金が収入源であった。

 

 Aさんが嫁いできた頃は、小栗山には現在のような国道がなく、段丘沿いに建てられた家屋を、婚姻儀礼の「シンセキマワリ(親戚回り)」として訪問するために何度も村中を上ったり下りたりしたことをよく覚えているという。当時は水道も通っていなかったため、山の湧き水にトイ(樋)をかけて、各家まで水を流していた。婚礼衣装を着けたままトイをまたいで歩くことは大変であり、裾を持ち上げる時には大変気恥しかった。山水が豊富にあったためか、草も豊富にあったとされる。嫁ぎ先では馬耕用に牛を飼っていたが、集落では他に牛を飼っている家はなかった。Aさんは「モッコ(堆肥)出し」のやり方などをミツさんから教わった。小栗山は段丘が多く、田畑の耕地面積が少ないため、百姓ができずにドカタ仕事に出る家が多かった。ちょうどダム開発が行われていた時期でもあったので、その手の仕事が多かったのである。なお、Aさんの西方の実家ではドカタ仕事の人に野菜を売って現金収入を得ていたとされる。

 

 Aさんは「いろいろ苦労すると、人の苦労がわかる」、「自分がやんだこと(嫌な事)は人にはやらない」と話す。