博物学探訪記

奥会津より

2020年4月13日 集落誌調査 金山町大字小栗山②:金山町小栗山の嫁入り

 Aさん(昭和13年出生)は昭和34年の20歳のときに金山町小栗山の旦那さんの家に嫁いだ。小栗山は畑や田んぼが平じゃなかったので驚いたとされる。三島町西方の実家は裕福で何でもあったので、その落差にも驚いたのであった。実家は百姓のかたわら菓子屋をしており、牛を2頭飼って乳をしぼり売っていた。倉も2つあり、そこでは実母がカイコを飼って養蚕を行ったり、雨の日になると子供たちが遊んだりしていたという。実父は村会議員を務め、一番上の兄は青年団の団長でありヴァイオリンもたしなんだ。Aさんは中学校を卒業すると、会津坂下の洋裁学校に進学し、その後、東京にも滞在した。

 

 Aさんが西方の実家でよく覚えているのは、村の祭りで踊り、3年続けて特賞をとったことである。特賞をとると、賞品として「ベベタンス(洋服箪笥)」やスチームアイロン、コタツ布団などを手に入れることができた。Aさんは実母から踊りを習ったが、実母も踊りが達者であり、高齢者の特別賞を受賞していた。その経験は小栗山に移っても活かされ、川口の学校の校庭で踊りを行った際も評判を呼んだ。また、Aさんは歌を歌うことも好きで、「都はるみ」や「藤あや子」、「大月みやこ」らの曲のテープを買って覚え、坂下の公民館などで歌ったという。

 

 嫁ぎ先の家では、夫が百姓を専門に行い、タバコ栽培で現金収入を得ていた。タバコ栽培は15年ほど行った。Aさんも早朝のハツミ(葉積みか?)を手伝ったことがある。夫は五人兄弟の長男であったが、父が戦死したため、家長のような役割を負った。Aさんの「オシュウト(姑)」にあたり、夫の母であるミツさんは父を失った子供たちに対して、「この子たちは育てなきゃなんねぇ」と言い、懸命に働いていたとされる。ミツさん自身もよそから嫁いできたのだが、シュウトが3人(姑および小姑を指すと思われる)もいて苦労したせいか、Aさんには声を荒げることなく優しく家事を教えてくれた。ミツさんがAさんによく語って聞かせたことは、産後のオボヤアケ(産屋明け)までに3週間を過ごした産室から夫が出征に出るのを見送ったことである。義父は妻のミツさんに自分がいないときに子育てに関して何か辛いことがあったら残しておいた手紙を読むように伝えていた。ミツさんがその手紙を読むと、子ども達もおとなしくなったとされる。義父はさらにダイコンの漬物などを自分で作っており、その作り方を記したメモを出生前にミツさんに渡していた。Aさんは実家の兄が当時の金山町長の長谷川ツネオさんと知り合いだったため、会津川口の保育園および小・中学校の調理師として30年間働いた。120人分の生徒の給食を2人の調理師で賄う必要があったため、大変だった。調理師の仕事を終えると、民宿を始めた。Aさんの嫁ぎ先では、夫婦の現金収入および戦死した義父の遺族年金が収入源であった。

 

 Aさんが嫁いできた頃は、小栗山には現在のような国道がなく、段丘沿いに建てられた家屋を、婚姻儀礼の「シンセキマワリ(親戚回り)」として訪問するために何度も村中を上ったり下りたりしたことをよく覚えているという。当時は水道も通っていなかったため、山の湧き水にトイ(樋)をかけて、各家まで水を流していた。婚礼衣装を着けたままトイをまたいで歩くことは大変であり、裾を持ち上げる時には大変気恥しかった。山水が豊富にあったためか、草も豊富にあったとされる。嫁ぎ先では馬耕用に牛を飼っていたが、集落では他に牛を飼っている家はなかった。Aさんは「モッコ(堆肥)出し」のやり方などをミツさんから教わった。小栗山は段丘が多く、田畑の耕地面積が少ないため、百姓ができずにドカタ仕事に出る家が多かった。ちょうどダム開発が行われていた時期でもあったので、その手の仕事が多かったのである。なお、Aさんの西方の実家ではドカタ仕事の人に野菜を売って現金収入を得ていたとされる。

 

 Aさんは「いろいろ苦労すると、人の苦労がわかる」、「自分がやんだこと(嫌な事)は人にはやらない」と話す。

読書ノート 内発的発展論の外延 ――現代の奥会津における生活記録の捉え方――

1.はじめに:どこにいても異郷

 

 2020年4月12日(日)に実施予定だった会津学研究会の読書会(新型コロナウィルス感染拡大防止のため延期)における課題本、赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』(藤原書店, 2015年)を読み終えた。鶴見和子アジア・太平洋戦争後の日本社会において、社会問題や社会運動との関わりを通して自己変革を試み、それに挫折しながらも、将来への展望を示した稀有な存在である。その鶴見の問題・関心を引き継ぎ、土台としながらも、独自の「東北学」を起ち上げた赤坂憲雄と鶴見の対談は、研究者が提起するような狭義の研究課題を超え、一人一人がある地域や集団においてより良く生きるための課題と困難を提示しているように思える。

 

 本稿では、私が課題本を読んで惹き付けられたいくつかのトピックを、同様の課題を取り扱う他の書籍と照らし合わせながらより深く検討し、思考していきたい。

 

 私は福島県郡山市出身であるが、生まれたのは千葉県習志野市である。しかし、満1歳になる前に家族で郡山市に引っ越したため、習志野の記憶は残っていない。郡山では「ニュータウン」と名付けられた駅郊外のベットタウンで育ち、高校卒業後の大学進学をきっかけに上京して大学院を含む6年間の学生生活を送った。その後は、大学院を休学して静岡県の有名な観光地にある博物館で約2年半働き、さらに8ケ月ほどイギリスに滞在してから福島へと戻ってきた。28歳で福島に戻る前から、長期休暇などを利用して定期的に実家には帰省していたが、帰省の度に故郷に戻ってきたという、何か絶対的な安心感を覚えていたかと問われれば、即答することができない。もちろん実家での滞在がもたらす快適さや勝手知ったる我が家という感覚もあるにはあったが、そこを根源的な「産土(うぶすな)」と呼ぶことは腑に落ちない。大学進学後に両親が離婚したということもあり、離婚した当初は父が残る実家に滞在して新たな関係を築くことにはかなりの緊張を伴った。父とある程度良好な関係を築けたと思えるようになったのはここ数年の話である。

 

 上記のような私の経歴と環境は、私の世代にあっては特段珍しいものではないように思われる。大学院に進学することや、博物館で働くといったことは珍しいかもしれないが、高校卒業後に故郷を離れることや、外国での滞在経験、親の離婚といったことは周囲でもよく聞く類の話である。とすれば、出身地を指して「故郷」と呼ぶことはどれほど妥当なことなのだろうか。赤坂憲雄は、どこにいても自身の故郷をモノサシとして他地域を論じる宮本常一への論評として、花田清の「近代をこえるためには、一度、われわれは、徹底した『異邦人』になる必要があるのではないか」という言葉を紹介し、この言葉が宮本常一の学問的姿勢への「致命傷」になりかねないと指摘する。さらには、鶴見和子のことを「どこにいても異郷しか発見できない故郷喪失者」と形容した[1]。だが、このように赤坂が宮本常一を介して花田の発言を引用し、鶴見を異質な存在として扱うことに対して、むしろ現代においては多くの人々が花田や鶴見のような異郷観にこそ親近感を覚えるのではないだろうか。現代では「どこにいても異郷」と感じることのほうが一般的であり、自身が生まれ育った土地を「産土」と感じることのほうが特異なのではないか。戦争や紛争などにより故郷を追われた「故郷喪失者」と私のような人間を等しく扱うことはできないが、「どこにいても異郷」という感覚は近代から現代にかけてますます広まっているように思う。

 

 では、「どこにいても異郷」と感じる人間が、ある場所や地域、集団と結びつくにはどのようにすれば良いのだろうか。鶴見和子赤坂憲雄はどのように他者や地域と関係することを実践したのだろうか。その試みはどこまで成功し、何に失敗したのだろうか。次節以降では、上記の問いを念頭に、主に鶴見和子の経歴と思想を検討しつつ、鶴見と赤坂が共通して行った実践である「地域の人々の生活を書くこと」がどのような意味をもつのかを考えていきたい。

 

2.「故郷喪失者」鶴見和子の実践

 

 鶴見和子は1918年に祖父であり当時の日本政府の外務大臣を務めた後藤新平の宿舎で生まれた。「和子」という名前は新平の夭逝した妻の名前に由来するといわれる。後藤新平は日本が統治した台湾の民生局長を務め、満州経営の重役を担った人物である。吉見俊哉によれば、鶴見和子およびその弟の俊輔は明治国家に揺籃されることから人生をスタートさせながらも、日本という「国家」を相対化する道をたどった知識人であった[2]。和子の学識は1939年にアメリカに留学し、ヴァッサー大学で修士課程を修了した後、日米の開戦によって俊輔と共に日米交換船で帰国するも、戦後に再びアメリカに渡航し、プリンストン大学で博士号を取得するなど、その多くがアメリカで形成された。つまり、和子はアメリカで培った知見によって日本を相対化する視点を獲得したといえる。

 

 日米の往還によって学知を形成した和子は、特権階級としての恩恵を受けながらも、日米間の旧敵国同士や占領/被占領といった関係性にも強く影響された。戦後になると共産党に所属し活動するが、自身の裕福な出自と党の活動に折り合いをつけることが容易ではなかったとされる。それは日本とアメリカの間でいかなるアイデンティティを形成するかという問題にも連なり、自らの生い立ちと行動の間に横たわる矛盾や葛藤を克服することが和子の人生の指針であった。吉見俊哉はそのような和子の生き方を「生まれ変わろうとし続けた人」と形容する[3]

 

 鶴見和子が「知識人」としての殻を打ち破り、「生まれ変わり」を実践するために接近したのが、1950年代における生活綴方運動であった。この運動は、1951年3月に無着成恭が編集し出版された 『山びこ学校』という山形県山元村中学校生徒の生活記録を契機として爆発的に広まった。和子自身は1952年8月に岐阜県中津川での第1回作文教育全国協議会の講演を契機に、この運動に関与したとされる。和子はその協議会に行けば無着成恭に会えると思い、講演を引き受けたという[4]

 

 和子の生活綴方運動への参加の目的は、自身も含めてこれまで学者らが行ってきた「実態調査」なるものの反省に由来する。和子は、「調査をすることによって、調査をした学者自身、また調査された村人自身になんの変化もおこさないとしたら、そのやり方には、やっぱりくらさがあるのだと思う」と話し、さらに「わたしたち大人がうまれかわるために、とくにインテリも学者も、『生活綴方的自己教育』が必要なのだ」と提言した[5]

 

 こうして、和子は「生活をつづる会」を仲間と共に発足し、間借りしていた自宅を開放して生活記録運動を展開した。しかし和田悠は、和子の運動には「具体的な民衆と眼前で出会っていながらも、出会いとして主体化できない鶴見の自己認識構造の問題が浮び上がってくる」と指摘し、インテリとしての自己を反省しながらも、自己改革には至らなかったと評価している。実際に和子は1954年の『エンピツをにぎる主婦』において「紡績女工」と名乗る女性から、「鶴見さんは、わたしたちのことが頭の中ではわかっていて、それはこういうことだとか、ああいうことだとかいうけれど、ほんとうに、心の中では、わからないんだと思います」と指摘され、さらに「生活のきりかえ以外にぬけ道はないのではないか」と提言されている。だが、和子は自身の生活のあり方を「きりかえる」ことはできなかった。ここに和子の認識を実践することへの限界があらわれている。

 

 しかし、和子は生活記録運動での「仲間」から批判を受けながらも、自己変革の重要性を追求する姿勢を保ち続けた。例えば、「内発的発展論」を展開する論文においてその姿勢があらわれている。

 

社会システムを変革するためには, 変革の担い手としての人間の介在が必須だとわたしは考える。そこで, システムを, 社会構造のレベル(社会システム)と, 個人のレベル(パースナリティ・システム)とにわけて考えると, それぞれの個人が, 自己を再組識することによって, その属する社会システムを, 再組識するように働きかけることができる。そのような個人を,キイ・パースンとよぶことができる。さらに個人が, 自己を再組識する場合に, その原動力となる動機づけの体系を, 文化システムということができる。そして, 伝統的な文化を, 現代の必要に応じて, 個々人が再組識(再創造) するときに, 再創造された文化システムは, 変革の動因となりうる[6]

 

 和子は自己の再組織が文化システムの再組織(再創造)に連なると考えており、それがひいては社会システムの変革につながると考えていた。自己変革が社会変革を誘引するのだという思想をもつからこそ、和子は自己変革の重要性を訴え続けたのだろう。そして、それを自身でも例証しようとし、生活綴方運動にのめり込んだ。しかし、その結果は成功とは呼べないものであった。自己を変革するとは単なる認識上の問題ではなく、自身の生活のあり方をも「きりかえる」という実践が必要であったのかもしれない。だが、和子にはそれができなかった。ここに、認識論と生活的実践に横たわる深い溝と、認識―実践―変革が単線的につながるわけでもなければ、相互に独立しているわけでもないことが示唆される。

 

 和子が生活のレベルで変革を実感したのは晩年の闘病生活においてであった。だが、このとき「内発的発展論」が対象としてきた地域や集団といった単位が、個人単位へと変化していることに注目したい。

 

 和子は1996年に脳梗塞で倒れ、なんとか一命を取り留めた際に、「自分が脳出血で倒れたあと、歌が吹き出したときに、ああ、内発性というのは私自身のなかからでてくる」と気づいた。それにより、「地域からもう一つ段階をおとして、個というものの内発性に気づいた。だから今度は、目標は一人一人の可能性を実現することというふうにおいた」と述べている。蜂屋大八によれば、このとき和子は「個人の内面からあふれ出てくるものを実現する場として地域を捉え」るようになったとされる[7]。病気がもたらす生活の変化が認識の変化をも引き起こし、地域を捉える視点そのものが個人の内面によって規定されていることを実感したのである。

 

 上記の和子における思想の変化は、「内発的発展論」への批判への応答でもある。そもそもこの理論にある「内」とは何を指すのかという問いは、和子の従兄弟である鶴見良行からもすでに問われていた。すなわち、「『内』をどのレベルで規定するのか、国家なのか、地域なのか、種族なのか。あるいは、民族、種族が限りなくにじんでいる現状で、内と外の線をどこで引くのか。つまり、『内発』のベースとなるアイデンティティがいっこうに見えてこない」と[8]。この問いに対する和子の応答が「内発的発展論」の理論を変化させることであり、それは自身の生活の変化に支えられて発せられたものであった。蜂屋はこれを「個人の内発性を根源とし、地域の発展の中に個体としての自己創出をいかに位置付けていくかという主体形成の理論に変化した」とまとめている。ゆえに、和子は地域の伝統を発掘し、日常の生活に役立てていく形の地域学の活動を「内発的発展論の新しい展開」として喜んだとされる[9]

 

 この「内」から「自己」への思想変化には、着目すべき対象が曖昧かつ閉塞的になりやすい「内」ではなく、主体としての「自己」に目を向けた点で評価できる。だが、もし生活記録の目的が記録者の自己形成になるのだとすれば、それは記録の対象となる人々はつまるところ誰であっても良く、記録者が自己満足的に実際に生活する人々を一方的に記録するということになりかねないのではないだろうか。これは、記録という行為の暴力性を前面に押し出した発想であり、私には記録者の態度として首肯するこができそうにない。では、生活記録の意義とはいかなる点に求められるのか。そして、記録者の任務とはどのように考えるべきなのだろうか。

 

3.現代の山村における生活記録の意義:「遊び」と「経験の結晶」

 

 実際に鶴見和子赤坂憲雄の対談において、現代の東北の山村はどのように見られたのか。次のやり取りに注目したい。

 

赤坂 そうなってきてます。だから、ムラの人たちは定着民だというのはもう幻想です。つまり、山村に暮らしていても、山と関わる暮らしなんてほとんどありませんから、もう趣味のレベルです、そういうのは。山菜を採るとか、茸を採るというのは趣味。

鶴見 遊びね。

赤坂 遊びですね、生業ではないんです。実際の暮らしはそこから車で三十分、一時間離れた町場に職場があって、サラリーマンです[10]

 

 両者の会話から見えてくる現代の山村は、伝統技術に裏付けられた自給自足の生活といったステレオタイプなイメージとは異なり、すでに山村においても都市型の生活が基盤となり、山村に特有の山菜や茸の採取はあくまで趣味の次元にとどまるという冷静な観察である。赤坂のこうした姿勢は、実際に東北の各地を回り、聞き書きなどを重ねた経験に基づくものであり、安易な印象論に陥らないための堅実さがある。赤坂自身、柳田國男が培った深い雪の中で稲を作り、稲の信仰に生きる人々といった東北のイメージに対して現地調査を重ねて検証した結果、実際に柳田が言及した地域においては明治の後半から稲作が始まったに過ぎず、それを柳田が東北の伝統として取り違えた事例を紹介している[11]

 

 しかし、赤坂が見た現代の山村についての語りは、観察としては優れているものの、それが意味することへの考察には至っておらず、率直に言えばうわべの理解に過ぎないという印象を受ける。それはどこかで鶴見和子が生活綴方運動に安易に接近した姿に似通っており、つまるところ和子と赤坂にまとわりつくアカデミズム的硬直性が現代の東北における山村への理解を阻害していると思われる。

 

 まず、赤坂が趣味と同一視した「遊び」という表現について再考したい。この発言が出たとき、和子は敬愛する弟・俊輔の「遊び」への卓越した見解を思い起こさなかったことが不思議でならない。鶴見俊輔は「遊び」について、「食物を獲得するとか、住居を作るとか、衣服をつくるとかの実際的な諸活動から切りはなされたものとしての純粋の遊び」があったわけではなく、「衣食住を確保する実際的な諸活動(労働)の倍音として、それらをたのしいものにする活動(遊び)」があるのだと指摘する[12]。つまり、遊びを趣味と解すること自体がすでに現代の枠に囚われた理解なのであり、柳田の見解を歴史に照らして批判した赤坂自身の歴史性が問われるべきである。むしろ、遊びとして現代においてもかつての生業に連なる山菜や茸の採取を行っているということは、それだけ彼彼女らの生活のあり方に対して過去の経験が強力に影響を与えているとみなすべきではないだろうか。

 

 私がここ3年ほど福島県大沼郡三島町の間方集落に暮らす昭和12年生まれと昭和13年生まれのご夫婦に聞き書きを行って得た知見は、赤坂が語る山村で暮らす人々の生活が一面的に過ぎるのではないかという疑念を抱かせる。夫の男性は80歳を超えてなお、険しい山に入り込み、ゼンマイなどの山菜や茸類はもちろん、自家で植えた杉や桐の手入れを行っている方である。それは時間を潰すための趣味などではなく、山に入ることが好きなのはもちろんのこと、かつて生業として行ってきたことを、例え頻度が減少したとしても、行い続けるという強い意志を感じさせる。私もその方の山菜採取に同行したことがあるが、趣味という言葉で片付けるには余りに大変な行為である。

 

 この方は、それらの行為が現代の生業にはそぐわないことなどもちろん承知している。山菜採取や茸栽培のみでは生業が成り立たず、土方仕事を長年勤め、定年退職してようやく再び山に入る時間を確保した方である。つまり、彼は生業の歴史的変遷を身をもって体験したのであり、だからこそ、現代においても経済的には意味をなさない採取や林業を続けているのである。現代において意味をなさないこともまた変化する可能性があることを彼は理解しているのであり、「時代が変われば(杉も)何かしらになるかもしれない」と語るのだ[13]。時代の変遷を捉え、現代を相対化した言葉である。

 

 もう一つ、「遊び」となったことの意義を記録に開かれることにおいて考えたい。もし山菜採りや杉の手入れが生業だった時代に、それらの話を語り、聞かせることができただろうか。私は難しいと思う。かつて生業だったものが「遊び」に転化したからこそ、それらを他者に語る余地が生まれ、記録されるに至ったのではないだろうか。藤田省三は、「物(或は事態)と人間との相互交渉である経験」が成立するためには、「必ず当初の経験から一定の時間が経過することを必要としている」と述べる。そして、そのような経験が自覚され、自分にとっての経験となり、思考様式・感受性・行動様式に影響を与えることを「経験の結晶」と呼んだ[14]

 

 しかし、このように人々によって相対化され、対象となった「経験の結晶」は、記録の地平に開かれるようになると同時に、恣意的に美化することも貶すこともできる「虚偽意識の素材」ともなるのであり、だからこそ、「認識(と理解と想像力)が自己の威信を賭けて全力を発揮しなければならないのはこういう時なのである」とされる[15]。傾聴すべき警句である。

 

4.生活記録と地域への関わり

 

 「はじめに」の「『どこにいても異郷』と感じる人間が、ある場所や地域、集団と結びつくにはどのようにすれば良いのだろうか」という問いを、鶴見和子の思想的変遷を辿ることによって見いだされた視座となる、ある地域や集団においてどのような生活を営み、自己形成を図るか、という観点に即して改めて考えてみたい。つまり、私は奥会津でどのような生活を送り、何をしたいのか。どのような人間になりたいと考え、その土地に住まう人々とどのように関われば良いのだろうか。

 

 真っ先に思いついたには、奥会津の歴史・民俗誌を書くことである。だがそれは、奥会津を発展させたいという考えによるものではない。そもそも私は「発展」という言葉が好きではない。「発展」という言葉によって人々が示そうとするのは、経済発展と人口増加であるように思われる(鶴見和子は別の意味をもたせている)が、その発展モデルの実現に寄与したいとは思えない。むしろ奥会津という過疎地域にあって、失われていく事物の記録を残したいというのが私の目標である。それは、渡辺京二が『逝きし世の面影』(葦書房, 1998年)を書くにあたって念頭に置いていたものに影響を受けている。いわく、「私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる」と。急激な過疎化によって奥会津の村々が滅びようとしている。それはもちろん奥会津に限った話ではない。だが、滅びゆく一つ一つの村が「実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだ」のであり、その滅亡を目の当たりにしてできることといえば、滅びゆく様相と在りし日の姿を記録して墓碑銘を作り、鎮魂することであるよう思われる。そしてその先にあるものが新たな文化の創造である。「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である」と渡辺は語る[16]

 

 生粋の異邦人であった渡辺京二から学ぶものは多い。渡辺は1930年に京都で生まれ、1938年に大連に移民し、アジア・太平洋戦争後の1947年に日本に引揚げ、熊本で生活を送るようになった。それゆえ渡辺は、「流浪することこそが人間本来の在り方だ、と。そういう実感があるのです」と話す[17]

 

 渡辺京二は『苦界浄土』の作者である石牟礼道子を世に送り出し、共に水俣病闘争に関わった人物としても著名である。鶴見和子と同様に故郷喪失者たる渡辺が水俣病闘争に関わった理由は、自己変革からの社会変革といった論理などではなく、論理以前の同情心であった。渡辺は古今東西の書物に明るく、筆もたつのであるから、いかようにもそれらしい理屈はつけられたと思われる。だが、渡辺が掲げたのは理想や私心ではなく、「義理と人情」であった。渡辺のこの文言にふれると、自分の目的や主体形成などが問題なのではなく、すぐそこで起きている悲劇や人の苦しみに同情をもって寄り添えるのかが問題であるという気がして、どこか襟を正すような清廉な気持ちになれる。

 

日本の古諺はいう、「袖ふれあうも他生の縁」と。水俣病と自分が係わるというのも、まさに他生の縁にほかならない。その袖は何によってふれ合うのか。こういうことをいうと激怒するある種の人間に対して言おう。それは人におのずから備わる惻隠の情による。水俣病闘争の中では、患者に対する同情に終ってはならないということが繰返し言われてきた。そのことの意味自体はわかるので、私はいつも黙っていたが、心中では同情で何が悪いと叫んでいた。徹底的な同情がどのようにおそろしいものであるかということは、山本周五郎のある短篇を読んだことのある人なら知っていよう。水俣病患者はかわいそうだ、という活動家たちがもっとも唾棄する心情も、それが徹底して貫かれた時は、おそらく活動家たちが夢想もできないような地点まで到達する。水俣病はしょせん他人ごとである。その他人ごとに、日本の生活民はどれだけ徹底的につきあうことができるのか。これは試みるに値する実験ではなかろうか[18]

 

 鶴見和子が「知識人」としての殻を打ち破り、「生まれ変わり」を実践するために生活綴り方運動にのめり込んでいったことはすでに述べた。だが、このことはあくまで和子の問題であり、和子が「仲間」と呼びかけた人々の問題ではなかった。自己の目的のために他者を利用しようとする姿勢がそこはかとなくここにあらわれる。それを敏感に感じ取ったからこそ「紡績工女」から「ほんとうに、心の中では、わからないんだと思います」と見透かされたのではないだろうか。

 

 和子と比較して、渡辺京二には潔さと素直さがある。渡辺自身、その著作を読む限りでは鋭利にひねくれており、他者を論駁するのに嬉々として百万の言葉を費やすような人柄ではあるが、その内には他者への尊敬と配慮があり、だからこそ一本気に他者と関わる姿勢が見て取れる。渡辺は、石牟礼道子という異才の編集者としての役割を50年近くも果たし、さらに石牟礼がパーキンソン病を患った後も看護をして支えた人物でもある。

 

 そう思えば、「内発的発展論」が到達した個人への視点は、なるほど重要ではあるものの、それはまぁ、個々人が好き好きに行えば良いのではないか、という気がしてくる。何か目的をもって地域に関わるのも良いだろうし、そこで望むべく自己を形成するのも立派なことだろう。けれども、その場所で親しくなった人たちと共に毎日を朗らかに暮らせればそれで良いのではないか、とも感じる。私にとっては、その「義理と人情」に該当し、関わりをもったのが集落誌調査や民俗誌である。そしてそれらを「逝きし世の面影」として記録に残す。だがこの記録は「経験の結晶」であり、記録者によっていかようにも描かれる危険をもち、さらに後世へと悪影響を及ぼす可能性もある。だからこそ、記録という行為において人々の経験を書くためには、「自己の威信を賭けて全力を発揮しなければならない」のである。朗らかに、誠実でありたい。

 

 

[1] 赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』藤原書店, 2015年, 20-21頁

[2] 吉見俊哉アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』弘文堂, 2012年, 23頁

[3] 同上, 38頁

[4] 和田悠「1950年代における鶴見和子の生活記録論」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』(56), 2003年, 79頁

[5] 同上, 82頁

[6] 鶴見和子内発的発展の理論をめぐって」『社会・経済システム』10(0), 1991年, 9頁

[7] 蜂屋大八「鶴見和子内発的発展論における地域づくり主体形成の検討」『茗渓社会教育研究』 (8), 2017年, 23頁

[8] 前掲, 吉見俊哉アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』, 167頁

[9] 前掲, 蜂屋大八「鶴見和子内発的発展論における地域づくり主体形成の検討」, 24頁

[10] 前掲, 赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』, 65-66頁

[11] 同上, 166頁

[12] 鶴見俊輔『限界芸術論』筑摩書房, 1999年, 21-22頁

[13]  2019年10月15日の聞き取り調査による

[14] 藤田省三『精神史的考察:いくつかの断面に即して』平凡社, 1982年, 286頁

[15] 同上, 228-229頁

[16] 渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』葦書房, 1998年, 7頁

[17] 渡辺京二『無名の人生』文芸春秋, 2014年, 33頁

[18] 渡辺京二『死民と日常:私の水俣闘争』弦書房, 2017年, 19頁

BとCについて

 

 前方にノートパソコン、スピーカーからはsportifyから流れるビル・エヴァンスの宗教的やさしさに聞こえる “Waltz For Debby”、右手はときおりマグカップに淹れたミルクティーをすすり、下半身はこたつにつっこまれている。Bが書いた手紙の一通目にときおり目を通しながら、キーボードをタイプする。手紙の形式をとっていながらも、その論旨の運び、語り口はやはりBらしさがにじみでているように思う。

 

 Bの手紙を読んで僕の書くことがおおよそ決まる。もしかすると、読んでいなくとも僕は同じような話をしたのかもしれない。「ファック・エスニシティ!ファック・ユア・エスニシティ!」。なるほど。素敵な口上だ。そんなBの視座は、手紙という手段をもって明確に指名を受け、宛名として記された僕やCとの関係をどのように捉えるのだろうか?そもそも手紙というものをやりとりするわれわれの関係とはいったい何なのだろうか?互いに相異なる「終わりなき日常」を生きるわれわれは、住む場所も、生活のしかたも、交友関係もずいぶん違っているのだと思う。けれどもこの一点に関しては確かな実感をもって共通している。すなわち、2012年から2014年まで東京都は国立市にある某大学の大学院に入院していたことだ。われわれ三者の関係の基盤はこのときに作られ、そして派生していった。もちろん、僕とBの関係や僕とCの関係はこのようなくくりでくくられるものではないけれど。

 

 僕はこの手紙においてBとCについて、あるいは二人と僕の関係について書いていこうと思う。君たちは僕がBの手紙について感じたことと、同じようなことを僕の手紙で感じるのかもしれない。

 

ビル・エヴァンス “Danny Boy”)

 

 手紙を書こうと誘ってきたBからの連絡がわれわれの関係を象徴しているのだと思う。つまり、僕やCはそんなことをまず言い出さない。その点において僕とCはよく似ているが、言い出さない理由の内実はおそらく異なっている。僕はそもそも人間関係に億劫さを感じ、特に自分から広めたいとか、久闊を叙したいなどとはほとんど考えない。「普段考えていること、見聞きして感じたことなどを互いに披露してみて、僕らのあいだに望むべき思索と発話のテーブルに乗せること」自体にあまり興味をひかれない。なぜなら、僕は自分が考えたことや体感したことを自分に向けて表すのは好きだが、他人に向けて話したいとは通常考えないからだ。すると僕は困ったことになる。そもそも手紙で書きたいことが特にないのだ。というよりも、BとCに向けて話したいことが特にないのだ。僕がこのような性格の持ち主であることを君たちはよく知っているのだろうね。だからこそ、ふらふらと住む場所を変える僕のもとをたびたび訪ねては、あれしろこれしろと言ってくるのだろうから。

 

 僕の性格も難儀なものだが、Cもなかなかに変わった嗜好をしている。僕が見るに、Cは愛想が良く社交的で、他者に向けてひょうきんな態度をとる。けれども、Cが求めるのは「終わりなき日常」におけるその場の誰かであって、手紙なんぞを介して語り合う誰かなどではないのではなかろうか。Cにとって「終わりなき日常」こそが基本的に関心を向ける対象なのであり、そこから漏れた、あるいは過ぎ去った人々に対しては特に関心が向かないのだと思う。となると、2012年から2014年までは「終わりなき日常」の一部であった(のかもしれない)僕やBはCにとってはすでに通り過ぎて行った過去の残照なのかもしれない。そんなCがどんな手紙を僕やBに向けて書くのか、いささか興味が惹かれるし、そのような行為自体にどこかで「終わりなき日常」では満足しえない人間の姿が浮かび上がる。われわれは望めば、酒を共に飲む相手や、日常の愚痴を言う相手、あるいは自分の趣味を共有する相手は比較的容易に見つけられる。もちろん人口数千人の町村で暮らす僕にとってはそれすら高望みになる場合もあるのだが。しかし、そのような「終わりなき日常」を共に支え合う知り合いができたとして、それなら僕は、君たちは、われわれに何を望むんだい?

 

(Yes they’re sharing a drink they call loneliness, but it’s better than drinking alone)

 

 Bは上の問いに次のように書いている。「ただ、個々が自分の考えていること、相手の手紙を読んだ上で考えたことなどを、それぞれの文体において表現する、この点だけにはいくらかの力が注がれることを期待してもよいのでしょうか?」。「この手紙交換という企画は、各人に特段、詳細な返答を求む、という性質のものではないと理解しています。ちょっとした思考の収斂過程、あるいはたんに文章を書いてみる機会ぐらいのつもりで、お二人が何かを提示してくれることを望みます。ちょっとは今回の手紙についてのリアクションも欲しいですけどね」。なるほど、この手紙は君が望むように、文章を自分なりに書くことに関しては良い機会になるのだろう。しかし、僕はこのときこう考える。それでは、なぜ書いた手紙を他でもない僕やCに差し出すのだろうか?もしかしたら、僕が知らないだけで、Bは知り合った人々に手紙を差し出す習慣(あるいはそれに類似した行為)があるのかもしれない。僕やCはそのうちの一人なのであり、Bの膨大な人間関係にあってはすでに習慣化した行為なのかもしれない。しかし、仮にBにとって僕やCが手紙を出す最初の相手であり、それはBの「終わりなき日常」の世界においては見つけることが難しい対象であるのだとすれば、いささか事情は変わってくるように思うし、そこにBとCの違いがあらわれる。つまり、「終わりなき日常」に満足せず日常の外に目を向けるBと、日常の外を切り捨て(あるいは「日常」をその都度入れ替えて?)中に溶け込もうとするC、といえようか。

 

 Bは一通目の手紙において、固有名辞がもたらす存在拘束性を仮象しながら、その仮象をはぎとる二人の人物を紹介してくれた。その理屈を、自己ではなく他者にあてはめると、どうなるのだろうか。具体的にいえば、そう、われわれにあてはめるのであれば。この手紙は宛名が書かれた便所の落書きなのだろうか?

 

(「あぁどこに 私の音づれの手紙を書かう!」荒寥地方)

 

 さて、このように君たちに向けてそれぞれ問いを発してきたわけなのだが、僕は僕で答えていかなくてはならない。最初に述べたが、僕はBから提案を受けなければ、自分から手紙を書こうなんて思わない。けれども、提案されれば受け入れ、このように手紙を書く。つまり、僕は君たちに対して受動的なのだ。となると、僕はBのように手紙を介して二人に託す望みなぞないが、二人に何か望まれた場合は、「終わりなき日常」を超えて対応する、ということだ(現在時刻はAM1:54)。この心情を言葉にするのは難しいが、強いて表現すれば、誠意と義理が合わさった感覚が近い。そしてこの感覚は、BやCと共に過ごした時間を回想しない限り芽生えない感情である。このとき僕は、Hとして僕に期待されていることに応えようとしているのだ。そして、君たちがHに期待していることとは、こうゆうことなのだ。それは逆説的に、BとCだから応えようとするのだ。僕はこのようにして、ときどき自分の立ち位置を振り返る。僕がHとして自分に望むこと、他者に対してあるべき姿勢として僕に課すことを確認する。そうして僕はHという名辞に理念を注いでいく。それはBが言うように、Hでもある僕なのかもしれない。それとは反対に、Hでなくてはならない僕なのかもしれない。僕はBとCのことを思い浮かべながら、自分について記述していく。自分なりのBとCを描いていく。ただし、その起点は僕の内にあったのではない。僕を呼ぶ外からの声、すなわち「ちくま、ヒロ宛」という語り出しの手紙にあった。その呼びかけはそれなりに身勝手なものだし、勝手に望まれたものだ。僕が応える理由は義理以外にあまり思いつかないのだが、僕が呼びかけられたと感じたのは確かなことだ。それは、ノイジーな語り掛けだけれども、ビル・エヴァンスが奏でる音の調べに、教会の中で聴くような神聖さとやさしさを勝手に感じるのと似たようなことなのかもしれない。

 

ドビュッシー「月の光」)

 

それでは、ごきげんよう。また来月。

 

読書会書評 あのとき特別だったものの先に

 

「うまくいえないんだけど、すごくかなしいときとか、すごくうれしいときとかに、目の前に世界があって、それって世界の切れっ端なんだけど、そのときその人にとっては、その切れっ端が、においも、色合いも、全部完璧だってことだとわたしは思ったわけ。なんかつまんないなあとか思って暮らしてる人のなかに、一個はその完璧なものが残ってる、とも言えるじゃん。それ、すごいと思ったの。だからわたしも、その本を捜してみたいと思った」(角田光代『さがしもの』新潮社, 2008年, 134-135頁)。

 

 人と本、人と読書をめぐる角田光代の短編集『さがしもの』は、文庫化される以前に単行本として出版されたときには、『この本が、世界に存在することに』というタイトルだった。ある本が世界に存在する。でもその本が本当に世界に存在するためには、誰かによって見つけられ、読まれなければならない。その本が、この世界に存在するためには、誰かがその本をさがし出さなければならない。だからこそ、「本を読むのは、そのような行為のなかで、もっとも特殊に個人的であると、私は思っている」(前掲, 218頁)と角田はいう。

 

 角田光代が子どものとき、最後まで読んでつまらないと投げ出し、けれども高校生になって友達から同じ本を渡される。そして、「別世界へ連れ出してくれるばかりでなく、じつにいろいろ考えさせてくれる本だった。なんてすごい本なんだろう、でもどこかで読んだ気がする」という感想を抱く。過去に読んだ本の意味づけが変わる。その本こそが、サン=テグジュペリの『星の王子様』だった。

 

 『星の王子様』のキツネは語る。

 

「おいらにしてみりゃ、きみはほかのおとこの子10まんにんと、なんのかわりもない。きみがいなきゃダメだってこともない。きみだって、おいらがいなきゃダメだってことも、たぶんない。きみにしてみりゃ、おいらはほかのキツネ10まんびきと、なんのかわりもないから。でも、きみがおいらをなつけたら、おいらたちはおたがい、あいてにいてほしい、っておもうようになる。きみは、おいらにとって、せかいにひとりだけになる。おいらも、きみにとって、せかいで1ぴきだけになる……」(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ, 大久保ゆう訳『あのときの王子くん』青空文庫, 2014年)。

 

 キツネは、不特定多数の匿名者には価値を見出さない。キツネにとって価値があるのは、「なつけて」くれる誰かと互いに「せかいにひとりだけ」の存在になることだ。キツネの語りから、「せかいにひとりだけ」の「自分」に主体性を認めれば、長谷部さんが菅家博昭さんの著書から読み取ったことにつながる。長谷部さんは『イヌワシ保護一千日の記録』を読み、「この本の中では、たびたび『自分』が物事を判断する主体たり得たいという心情が書かれる箇所がある」、「他力本願になることは、自分の目に触れないものを受け入れ、信じることでもあると言えるだろう。著者が恐れたのは、その盲信が招く行動意思の喪失ではなかっただろうか。自らの意思の強度を過信せず、敢えて孤独に戦うことを選ぶのである」と、自分を信じて開発運動に取り組む著者の姿勢を評価する。

 

 知らない誰かにとって、菅家さんの住む昭和村大岐は、ただのさびれた、日本に無数にあるであろう辺境の地の一つといえるのかもしれない。だが、そこで何世代もの系譜の中で土地を、自然を「なつけ」てきた菅家さんの家にとっては決して代わりなどない唯一の場所である。それは安易に他の土地と置き換えて良いものではない。そうした志は万人に理解されるものではないかもしれないが、だからこそ、自らを信じて土地を守ろうとするその姿は、読者に強い印象を残すのではないだろうか。

 

 「せかいにひとりだけ」を他人にあてはめれば、渡部さんが指摘するような、「ある一定の地域を思い描くときに一緒に連想される人」のような「地域の人」が思い浮かぶ。渡部さんにとっては、「喜多方とは祖父母のいる土地であり、喜多方を思い描くときには決まって一緒に祖父母の姿がセットで連想された。私にとって、祖父母は喜多方の地域の人だった」とされる。それは親類縁者がいる土地にとどまらない。移動を繰り返す僕達にあっては、「三島町を思い描くとき、猪苗代町を思い描くとき、それぞれの土地に一緒に連想される人たちがいる」のであり、「彼らは私のそれぞれの土地での経験や思い出と結びついている」。

 

 しかし、このように思い浮かぶ特別な他者は、個人の経験にのみ還元させられるものではないと渡部さんは指摘する。例えば、ベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』によれば、国民共同体にとどまらず、「日々顔つき合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである」とされる。このような人々の想像力は、その土地の「自然な」言語のみならず、土地を取り巻く資本主義を骨子とする出版言語などの制度の影響も受ける。個人の経験もまた社会と切り離されたものではないことがわかる。

 

 だが、それはそうした制度・文化的要因によって、人間の土地や自然、他者への関与が完全に規定されることを意味しない。シモーヌ・ヴェイユがいうように、人々の行為は「人為的な国境や言語や習俗や文化をこえて拡がる」不定形で人間的な場においてあらわれるものなのであろう。

 

 これらのことが示唆するのは、人間は「せかいにひとりだけ」の自分、あるいは特別な誰かや土地を基点にして、より広い世界や自然へと目を向ける存在であるということだ。『星の王子様』は、なつけた、特別な誰か・何かがいることを認めたうえで、そこから空を、世界を再び見上げることを促している。

 

「きみは、夜になると、星空をながめる。ぼくんちはちいさすぎるから、どれだかおしえてあげられないんだけど、かえって、そのほうがいいんだ。ぼくの星っていうのは、きみにとっては、あのたくさんのうちのひとつ。だから、どんな星だって、きみは見るのがすきになる……みんなみんな、きみの友だちになる。そうして、ぼくはきみに、おくりものをするんだよ……」(同上)。

 

 特別なだれかや土地の中の「当事者」にとどまっているだけでは、それらの前提となる「世界」をまなざしたことにはならない。それはかえって、特別だったものを貶めてしまう結果となってしまう。小松理虔さんの『新復興論』は、特別なものを失ってしまったからこそ、特別なものの基盤となる世界、すなわち「外部」へと思考を開くことを懸命に語っている。

 

 長谷部さんはこうした小松さんの姿勢を「『今ここ』の意見が進める復興の危うさは、海と堤防の例のように、結果としてその地域の特色や力を奪ってしまうところにある。著者は目の前の現実から飛び出し、広い時間軸と思想で考えるために、観光が持つ可能性を示した。外部との緩やかなつながりや娯楽的な要素が、『今ここ』の理論から飛び出した多様な語られ方ができる福島、あるいは地方を作るはずだ、という。この本の中で著者は二度、いわき市界隈へ読者をガイドする。著者自身の体験や個人的回想をめぐりながら、いわきという地域が持つ歴史とその特色を明らかにしつつ、すべての人が『当事者』たり得るきっかけを提示する」と評価してまとめた。

 

 渡部さんにとっても、小松さんの指摘は身近なものである。渡部さんは、「会津で暮らしていて日常の問題となるのは、小松理虔氏が言うところの『現実のリアリティー』だ。グローバリズムでもナショナリズムでもない、実名を伴う隣人との関係性についての話であり、仕事や娯楽を含めた地域で暮らすことについての話だ。政治や私怨で分断されるものについて、境界を敷かれるものについての話であり、境界をしくことのできない不定形なものについての話でもある」と述べる。

 

 このような「現実のリアリティー」にはまり込むことのないように、小松さんは他者との「相互不干渉的な共存」にたどり着く。長谷部さんは、「相互不干渉的な共存に不可欠なのは、当然ながら『相互』に不干渉な状態である。しかしながらそれは難しい。相手あっての相互的不干渉なのだ。そもそもそれができていれば、こんな共存の可能性を探る必要もない。相互に不干渉であるためには、まずこちらが不干渉であり続けることが、最初のステップとして要求されるだろう。それを実現する突破口として、この本のテーマとも言える観光(外部)の思想が提示されている」と捉えたうえで、「これは大人になることと似ているかもしれない。子どもは自分のコミュニティを選べない。あるいは選択肢が少ない。成長によって、行動範囲や見える世界が広がっていくのを感じながら、自分の居場所を選びとっていく。これは成長することそのもので、自由になるということでもある。観光によって外部とつながることは、地域という制限を超えても、自分の居場所を選ぶことは可能だということを示す一つの答えなのだと思う」と書いた。

 

 確かに、この理屈は大人の理屈だ。そのような理屈を講じる理由も共感できるし、実際に日々の生活を、仕事をする中で、物事をまわしていくためには必要な措置だということはわかる。だが、それでも、本当にそれで良いのだろうかと僕は思ってしまう。例えば、人としてやらなければならないことがあったとして、それが「現実のリアリティー」と相反するとき、僕達は自分にとっての特別なものをはっきりと選ぶことができるだろうか。「大人になること」は自由になるようでいて、不自由になることでもあるのではないか。

 

 この王子くん、しつもんをいちどはじめたら、ぜったいおやめにならない。ぼくは、ネジでいらいらしていたから、いいかげんにへんじをした。

「トゲなんて、なんのやくにも立たないよ、たんに花がいじわるしたいんだろ!」

「えっ!」

 すると、だんまりしてから、その子はうらめしそうにつっかかってきた。

「ウソだ!花はかよわくて、むじゃきなんだ!どうにかして、ほっとしたいだけなんだ!トゲがあるから、あぶないんだぞって、おもいたいだけなんだ……」

 ぼくは、なにもいわなかった。かたわらで、こうかんがえていた。「このネジがてこでもうごかないんなら、いっそ、かなづちでふっとばしてやる。」でも、この王子くんは、またぼくのかんがえをじゃまなさった。

「きみは、ほんとにきみは花が……」

「やめろ!やめてくれ!知るもんか!いいかげんにいっただけだ。ぼくには、ちゃんとやらなきゃいけないことがあるんだよ!」

 その子は、ぼくをぽかんと見た。

「ちゃんとやらなきゃ!?」

 その子はぼくを見つめた。エンジンに手をかけ、指はふるいグリスで黒くよごれて、ぶかっこうなおきものの上にかがんでいる、そんなぼくのことを。

「おとなのひとみたいな、しゃべりかた!」(同上)。

 

 これは近代という時代がもった不自由であるのかもしれない。近代は確かに出生率や寿命の向上、物質的な豊かさをもたらした。だが、それらによって近代人は前近代の人々と比べて、不自由になったのではないか。このように時代を見据えるのが渡辺京二という人である。

 

 『無名の人生』の書評において、長谷部さんは「この本の全体を通して語られるのは、今自分が生きているこの世界と、もう一つ別の次元にある世界を感じることの重要性、それから、各個人にはそれぞれの『職分』があるとする、ある意味での諦念ではないだろうか」と提起した。さらに、「ここで示されるもう一つの世界というのは、神の存在だとか、霊的なものの存在を肯定する言葉ではない。文明や社会の存在よりもずっと根源的な自然の世界である。自然の中で生きてきたはずの人間は、近代化によってその枠から外れ、その存在を無視すぎてしまったこと」であると補足する。

 

 「現実のリアリティー」が所与の事実というよりも、近現代に培われた人間の諸制度がもたらす思考形態であると捉えるならば、目の前にある現実はそこから抜け出せなくなるような現実なのではなく、われわれがそこから抜け出そうとしないような種類の現実なのかもしれない。

 

 そのように考えると、長谷部さんの『無明の人生』を読んでからの読後感は興味深い。

 

  この本は幸せに生きるために役立つか。この本は、僕たちが生きる社会が、物には事欠かない社会ではあるけれども、イコール幸せではなかったと言う気づきを与える。同時に、僕たちが、しかし社会に対する改善の有効打を持ち得ないことを教える。なんと絶望的だろう。

 僕と言う個人は、一つの時代しか生きることはできない。たまたま生きた時代の中で、例えば幸せを感じることができなかったとしても、自分が生きないまた別の時代の中では違っているかもしれない。そんな「かもしれない」というだけの心細い存在であったとしても、自分の受け入れ先があると感じることは、生きることを楽にしてくれると思う。そんな風に、長い時間軸を持って、あるいは時代というものに区分されない自然を感じることができるなら、この本は救いになるのではないだろうか。

 

 そのとおり。われわれはいつだって複数の土地に同時に存在することはできないし、別々の時間を同時に過ごすこともできない。だから、一つの時間、一つの場所は常に特定の時空間なのであり、絶対的に特別なものだ。けれども、われわれは自分にとっての絶対が誰かにとっての相対であり、誰かにとっての絶対が自分にとっての相対であることを知っている。

 

 あるいは、人類史という観点に即せば、自分が体験する悲劇も、喜劇も取るに足らないことであろう。自分の外や、世界を強固に捉えてしまうと、そのような諦観が生まれる。それは自分が不可避的に老いていくことへの境地であるのかもしれない。

 

 だからこそ、長谷部さんは渡辺京二に対して「おそらく著者は、この人間の社会も生態学的な自然のサイクルと同じ視点で語ることができると考えていて、極相がいつかは崩れるのと同じように、今の社会にもほころびが現れることを予感している。その上で、そのほころびを埋めるように生まれてくる社会の一端が、それまでの価値観とはまた違うものとなる可能性に期待しているのではないだろうか」という見解を抱く。

 

 しかしながら、諦念の中にも希望は宿る。2016年4月14日に起きた熊本地震に直面した後で、渡辺京二は次のような文を書く。

 

 だが世の中、私みたいな老骨ばかりではない。熊大近くに住む友人の話では、学生たちはこの地震でかえって活気づいて、笑い声をあげながら彼の家の前を往き来するそうだ。こういう若い人たちが、自分たちの文明がいかにもろい基盤の上に建っているか自覚し、今日の複雑化し重量化した文明を、どうやってもっと災害に強いばかりでなく、人間に親和的な文明に転換するか、考えてみる機会を与えられたのは、ほんとうによいことだ。禍を福に転じるとは、このことをいうのだ。

 私はまた福岡から来た記者から、JRに乗り合わせた客たちがみな重いリュックを背負っているのに、席を譲り合って座ろうとせぬと聞いた。コンビニで買い物すると、店員が話しかけて来るとも聞いた。私自身気づいてみると、街ですれちがう人に、大変だったでしょうと自然に声を掛けていた。私が『逝きし世の面影』で描いたあの人なつこい日本人、人情溢れる日本人が帰って来たのだ。

 自閉していた心が開かれたのではなかろうか。瓦礫の中から、かくありたい未来の人間像が、むっくり立ち上がったようにさえ見える。個として自立していながら、いつでも他者に心が開ける人間。束の間の幻影かも知れない。復興の過程ではかなく消えていく、いっときの和みかも知れない。それでも私たちが、何かきっかけをつかんだのは確かだ(渡辺京二原発とジャングル』晶文社, 2018年, 100-101頁)。

  

 このような災害後の光景は、渡辺が水俣病闘争に人生をかけた後で、つかみとった見地と通じている。渡辺は1990年12月16日に真宗寺で自らの運動の総括を行った。すなわち、「『それじゃお前は何であんなことをやったんだ』という問い、さらに、あんなことをやったということと、今日の自分という在り方がどう繋がっているのかという問いをですね、やはりこれは課せられるわけでして、そこは答えをきちんと出しておかないといかん、しかし誰もやらないということがあります」と(前掲『死民と日常』, 166-167頁)。

 

 だけど一方では「銭はいらん」って。「一銭もいらん」て。「銭貰うための裁判してんじゃない」って言ってんです。それは緒方正人さんもそうおっしゃいましたね。「銭をとったら駄目だ。銭はいらんと思ったから、要するに申請を取り下げた」と。患者認定の中請を取り下げたと緒方正人さんは言われましたね。それが何かってことですよ。

 それが何かってことはね、まっとうな世の中のね、正義ってものを求めたんでしょうねえ。その正義っていうのは何もさ、修身の教科書に出てくるような、背中がピーンとしてせせこましい、そういう正義じゃない。それは人情と言い換えてもいいんだけども。要するに地域社会でですね、地域社会っていろいろあるわけですよ、もうたまらんようなこといっぱいあるわけなんで。だけど地域社会で実現されてる一番いい部分ですね。日本の庶民の道徳ですね、原理ですね、最低限の規範ですね。つまり人と人が何で一つの部落という社会を作って住んでいけるのかっていうことですね。人と人を繋ぐものは何かっていうことですね。それによって自分たちは規定されている。自分たちはそれさえあれば救われる。ところがチッソはどうか。チッソにそれを見せてほしいわけですよ。見せてくれない。同じ人間同士としてですね、同じ人間同士で、自分は当然こうだと思うことがどうして通らないのか。なぜチッソはそのことを認めないのか。どうして世の中がこれを認めないような世の中なのかってことです。

 ですから根本的にはですねえ、やはり人間がお互いの共同性ということでね、お互いの共同性の繋がりで信頼しあって生きていける世界ということでしょうね。共同的な社会は現実にはいろんなもう大変で嫌なことあるわけですよ。あるにしてもね、この人間と人間がお互いそこで信じあって、支えあってですね、そこでちゃ―んとした当然の道理が通る、そういう世の中をですね、求めなはったんですよ。世の中ってのはおかしいけど。そういう生き方を求めなはったわけです、チッソに対して。「どうしてあんたたちはそれができんとかい」って、「ああたたちはどうしてそれが言えんとかな」って、こう言ったんですよ。これを聞きたくてしょうがなかった。ついに聞けなかったわけですけどねえ(同上, 230-231頁)。

  

 ここに渡辺京二(僕との年齢の隔たりのせいか、なぜか彼をこう呼んでしまう)が求める世界観があらわれている。「人と人とをつなぐもの」。星の王子様が「なつける」と言って表現したものを、渡辺は「義理と人情」と言い換える。国家間の戦争に巻き込まれ、水俣病闘争で企業と戦った先に見えたもの。そのように生きてこられたのは、地域共同体のつながりがあったからだと渡辺はいう。

 

 地域社会の具体的な生活にもとづく人々のつながりをまなざすという渡辺京二の姿勢は、菅家博昭さんの思想と重なる。菅家博昭さんがイヌワシ保護活動の先に見据えたものこそが、三島町にある奥会津書房の遠藤由美子さんと共に主催した会津学研究会の発足と、『会津学』の発刊であった。

 

 久島桃代さんが行ったインタビューによれば、遠藤さんには「話者や執筆者の生活の中に今後の会津で生きていくためのヒントが隠されているはずだ、という強い信念がある。そして、人々の生活や生き方を話者の語りを忠実に記録しようとする『会津学』は、次の世代が会津で生活していくための手引書であるとE氏は語る。『会津学』が残そうとしていることの中には、それが何の役に立つものなのか、現状では作り手である自分たちにもはっきりと分からないものもある。しかしそうした「路傍の石」を10冊の『会津学』として積み上げていけば、後にこれを読んだ誰かがその意味を見つけてくれるのではないか、という期待がある」とされる(久島桃代「自地域学『会津学』の活動とその理念」『季刊地理学』62(3),  2010年, 135頁)。

 

 また、菅家さんは「奥会津の山奥にある集落を維持していく仕組みは、先祖から伝えられてきた、日常の家庭や集落での営みのなかにこそあるとK氏は考えている。そこでK氏が採用したのが、地域をより広い視野でとらえながら生活している地域住民の言葉を、出来るだけ多く正確に記録する聞き書きという方法である。K氏の『記憶の森を歩く』は、会津の山間に暮らす人々から、地図には示されないが地域の人々に共有されている地名(呼称)を聞き出す試みである。地名がつけられた場所に込められた人々の記憶を掘り起こし、人びとが集落を維持するための仕組みを暮らしの中から明らかにしようとしている」とされる(同上)。

 

  菅家さんは自身の経験を次のように総括する。

 

 私は一九九〇年代、三十歳になったときに一人子どもができたのですが、生まれた子どもの将来を考えたときに、できるだけ村の森にあるブナとか猛禽類クマタカとかイヌワシとかを残そうと思って十年ぐらい活動したのですが、そのときやった仕事の意味はなんだったかと今考えると、「地域の財産目録を作る」ということだったんだと思います。

 私たちの暮らしている村にはこういう樹がある、こういう草がある、こういう動物がいるということを表現して、だからあまり暴力的な開発はしないでほしいということを表現しました。ところが、財産目録はできたんですが、それだけでは欠けている。いま思うのは、『からむしを育む民具たち』のような仕事をしなくてはいけないんです。

 たとえばブナの樹の物語を集める、ヒロロという草の物語を集める。物語という形をとらないと、小さな子どもたちには理解しがたく、たぶん次の世代に残せないと思うんですね。報告書は物語の基礎になるものだと思うんですが、もっと噛み砕いた物語を、語り回調でまとめて伝えるとうまくそのことが残るんじゃないかなと思うんですね。

 私たちが『会津学』でやっていることは、語り言葉で伝えてきたことを引き受けるということをまず第一にやるんですが、たとえば蓑の話を聞きに行ったとします。はじめの十分位はその話なんですが、後は自分の語りたいことを語るんです。それを大切に受け止めます(会津学研究会『会津学』Vol.5, 奥会津書房, 2009年, 43-44頁)。

  

 このような活動を経て、菅家さんは2018年に『イヌワシ保護一千日の記録』以来、約20年ぶりの単著を著した。その本の「はじめに」は、「なつかしい20世紀と、原発事故を経た21世紀の社会環境はかなり異なるものとなっている。人間が管理できない巨大技術よりも、適正規模で、身の丈にあった暮らしの基本に戻ること、つまり『小さな暮らし』が社会の価値・文化になりつつある」として、時代の変遷を捉えている(菅家博昭『地域資源を活かす 生活工芸双書 苧(からむし)』農山漁村文化協会, 2018年, 1頁)。そして自らの知見を次世代へと残すために、次のような提案を行っている。

 

 生活のために行なう仕事、仕事としてのモノづくりの時代が縮小し、趣味としてのモノづくり、自分のためのモノづくりの時代を迎えていると考えたとき、私は地域のなかでの生活につながる事例調査の提案をしたい。

 私のいう事例調査とは、その土地に自生している植物素材の取得、あるいは田畑・原野・山地で栽培した作物の収穫を経て、一次加工する際に、そこで行なわれた事例を調査することである。それぞれの地域の歴史民俗資料館・博物館などには、加工具(民具)が収蔵されている。その実物を実測作図し、持ち主によって使い込まれた痕を観察し、使用経験者を探し、聞き取り調査を行なう。その際、道具の素材の取得時期、加工の仕方、禁忌、伝承などもできるだけ土地の言葉で聞き取り、記録する。不明な場合はカタカナ表記でよい。

 作業手順についても同様に調査する。これは現在まで日本国内ではほとんど行なわれていない。とくに、産業化する以前の手仕事の時代のことを詳細に聞き取ることが求められる。まだ時間はたっぷりあり、経験者も各地に多く生存している(同上, 2頁)。

  

 菅家さんの思想はどこまでも伝承への真摯さがある。自分が偶然に生まれ育った土地は、先人が人為をもって切り開いていった土地なのであり、それと同時に大地の自然から借り受けたものである。だからこそ、当代の身勝手な人間の開発の論理や、「現実のリアリティー」という言い訳によってこれらの土地を破壊されることには我慢がならない。そして、自分が受け取ったものは次の世代へと託さなければならない。そのために、人と土地の結びつきが希薄となった近現代の世界において、もう一度人間がその土地に住まう意味、その土地と人間が築いてきた過去、自然において生きていくことの意味を掘り起こしているのである。その成果が、菅家博昭『別冊会津学Vol. 1 暮らしと繊維植物』(会津学研究会/奥会津書房, 2018年)にまとめられている。

 

 小松理虔さんにとって、『新復興論』を書いた意味とはいかなることだったのだろうか。渡辺京二と菅家博昭さんに比べればまだ年齢が若い小松さんにとっては、自分の経験を総括するための時間がまだ必要なのだろう。だが、地域において個人が主体的に動くことの意義については次のような確信を抱いている。

 

 私がわかりやすさを文章に求めるのには、もう一つ理由がある。わかる人にしかわからないような文章を書いたところで世の中が変わらないからだ。地方都市というのは得てしてコミュニティに流動性がない。これまで力を持ってきた人たちが、今も未来も変わらず力を持ち続けるというような構造がある。ローカルメディアには、この「変わらなさ」をかき回す役割があると私は感じている。既存のコミュニティからは漏れてしまうようなマイノリティをすくい上げ、新しいコミュニティをつくり、担い手を育てていくべきだ。そのためには、尖ったテーマを、わかりやすい文章で書く必要があると思う(小松理虔「文章術と心構え――誰かではなく『私』が書く」影山裕樹編『ローカルメディアの仕事術――人と地域をつなぐ8つのメソッド』学芸出版社, 2018年, 151頁)。

 

 菅家さんが、子どもが話を理解するためには平易な「物語」が必要であると述べたように、小松さんも「わかりやすい文章」の重要性を指摘する。しかしそのうえで、小題に「『私』が書く」とあるように、誰でもない自分自身が動き回ることによって、結果的に地域の中に循環が生まれることを例証している。だからこそ、他の人々に向けて「徹底して現場に肉薄し、人と人とをつなげ、地域の文化や歴史にアクセスしながら、アクティビストとして発信していって欲しい」(同上, 154-155頁)と提案する。

 

 僕は、小松さんに二度直接対面したことがある。一度目は2017年12月10日にいわき市小名浜にあるさんけい魚店で開かれた「さかなのば」というイベントに参加したときのことだった。以前からブログやWebの記事を読んでおり、その作者に会いに行くことは、人見知りの僕にとっては死ぬほど緊張したし、お酒を何杯も飲まないと話しかけに行けなかったことをよく覚えている。そのときの感想を自分のブログに書いた。

 

 ようやく声をかけることに成功し、お話をさせていただきました。理虔さんはまず自分が動くということを心がけていらっしゃるようで、何もないところに何かを生み出し育む、ということを続けたいとおっしゃっていました。その意味では一つの場所にこだわるのではなく(もちろんご家族の都合もあるので完全に自由になれるわけではない)、新しい場所に飛び込んでいきたい、というお考えであるようです。それは、場を立ち上げた自分がやがて地元の権威になってしまい、せっかく開いた場所が再び閉じてしまうことを懸念されているようでもありました。

 あぁ、世の中はこのような人によって動いているのだと思いました。地域をかきまぜ、場所を、人を外に開かせる。そうしなければ固定化した価値観のもとで地域は衰退にはっきりと向かってしまう。地方を転々として生活してきたわたしにも思い当たることが多々あります。

 動く、というのはとても大事なことです。身体を動かして、自分の視界を別の場所に、別の方角に向ける。見たことがない景色を見る。右に行ったことがなければ、左には行けない。下に行ったことがなければ、上には行けない。

 イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。

 魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。

http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/143423?_ga=2.114169927.1538336736.1553558485-1100865628.1550105425

 

 二度目は、2018年9月21日に郡山市のSHOKU SHOKU FUKUSHIMAで行われた「『新復興論』出版記念 小松理虔さんといわきの旨い魚と酒を楽しもうナイト」というイベントの場であった。また一人で不安になりながら『新復興論』を片手におそるおそるお店のドアを開けると、本に付箋を貼りまくったせいか、小松さんと以前よりもじっくりお話することができた。このとき僕が抱いた印象は、小松さんが本で書いたことは、ある意味ではそうであってほしいという希望であり、それこそ「現実のリアリティー」とはこんなにも地域で活動する人を脅かしてしまうのか、というものだった。『新復興論』を書くことによって小松さんにもたらされた日々の苦悩が、小松さんを仏教の教えへと導いていた。また、自分の限界と役割を非常に自覚しており、自分は次世代のための捨石になれれば本望だ、という主旨のことを語られた。

 

 あのとき特別だったもの。いや、自分の意志とは関係なく特別にされてしまったもの。大連からの引揚げ、水俣病闘争、博士山リゾート開発反対運動、イヌワシ保護運動、そして東日本大震災。これらの出来事が渡辺京二や菅家博昭、小松理虔を「個人」たらしめた。平穏無事に生きていれば、いつまでも匿名の集合体の中で、健やかに、波風立てることなく暮らしていけたのかもしれない。けれども、僕達はきちんと認識しないだけで、災害が、テロが、貧困が、戦争が起きている「世界」の中で今日も暮らしている。これらの著者達が書いたそれぞれの特別を僕達読者はなぞるように少しずつ読み込んでいき、比較をし、自分の経験に照らし合わせる。そしてコーヒーやお酒を飲みながら、思ったことを語り、自らもまた文章を書いていく。そうして、僕達の中にも特別が生まれる。だから、人は、あのとき特別だったものを経て、その先にあるものを望んでいる。

 

 いわゆる『星の王子様』と呼ばれる作品の青空文庫版の翻訳を行った大久保ゆうは、タイトルを『あのときの王子くん』にしている。その意図は、原題のLe petit princeにおける定冠詞、Leをどのように訳するかにあらわれる。unや aなどの不定冠詞が名詞につく場合は原則的には「そのものが世の中にたくさんあって、そのどれでもいいからひとつを取り出したいとき」である。かといってLeの固有性を重視しすぎると、それはthe Earthのような普遍性を示すだけで、個人の具体的経験を軽んじてしまう。

 

 ゆえに、大久保は「この "petit prince" に定冠詞がつくだけの関係が、操縦士と少年の間にあります。少年が星にいたから、操縦士にとって大事になったわけではありません。6年前、あるひとりの小さな王子が操縦士の前に現れ、その少年と操縦士はしばらく時をともに過ごします。つまり、操縦士は少年のために時間をなくすのです。そして、ふたりは絆を作ります。だからこそ、6年後の操縦士は、その少年に定冠詞を付けることができますし、付けなければなりません」という(前掲, 『あのときの王子くん』)。ありふれたものが特別なものに変わっていくための共有された時間こそが、われわれを不特定多数の誰かから、固有の名前をもった個人の付き合いへと変えていくのである。

 

 語り手にとって、〈星の王子さま〉だから大切なのでなく、6年前のサハラ砂漠に下りたとき、〈あのとき〉に出会って一緒に過ごしたからこそ、少年はかけがえのない存在なのです。そのほかのどのときに出会えたかもしれない王子くんではなく、〈あのとき〉の王子くんが大事なのです。だから童話のように超越した時間を話すのではなく、追憶の話として、個人的な体験の話として語られます。

 そして、語り手から〈あのとき〉が語られると同時に、読み手はそれを追体験し、操縦士と同じようにその少年と関わりを持ちます。本を読む行為によって時間をなくし、そのために少年が大切なものとなることもあるでしょう。そして、王子くんというのは、ほかの誰が読んだときでもなく、自分がこの本を読んだ〈あのとき〉の王子くんとなるはずです(同上)。 

 

 ここに、本を読むことの、だれかと読むことの、そしてそれを書いた作者について考えることの思想があらわれている。そして、その先にあるものとして行ったのが、僕達が書いた書評だと思う。願わくばこの読者の想いが作者に伝わりますように。

 

 

読書会 トーマス・クーン, 中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房, 1971年(原書は1962年出版)

 

 各自の報告を松崎なりにまとめると、本書評のテーマは「パラダイム――下から見るし、横からも見る――」ということになる。つまり、報告者はクーンのパラダイム論を、クーンに足りてない事柄およびそれぞれの視点と素材に基づき論じなおし、より広い枠組みで捉えたうえで、「政治的なもの科学技術」との関連を考察したのであった。

 

 田中報告は、クーンと同時代に科学史を研究したジョルジュ・カンギレム『反射概念の形成』(1955)の議論を参照し、クーンの科学革命論を批判的に検証した。その際提出した論点は、生気論と機械論の対立という視点であり、そこから「生命にのみ備わり生命たらしめている特別な原理が存在すると想定するか、それとも生命活動も物質や電気信号に最終的には還元できると考えるか」という問いを喚起した。この問いは自然を観察する主体としての人間が肉体の内部・機能にもつ自然と人工の不可思議な結びつきに着目することによって、クーンが素朴に区分してみせた自然と科学の関係へ再考を促した。

 

コペルニクスケプラーガリレイらは、天体運動論から人間中心主義を追放したが、その人間中心主義は人間の運動論に存続したのである…運動の生理学でのコペルニクス的転回、それは脳と感覚・運動中枢という二つの概念の分離、離心的な中心の発見、そして反射概念の形成の際に起こった」(カンギレム『反射概念の形成』pp.150-151.)。

 

 咳やくしゃみ、瞳孔の大きさの変化、熱いものに触れて手を引っ込めること、こうした反射概念は、人間の身体を「このスイッチでここが動く」というように機械として説明する機械論を形勢する。カンギレムが挑むのは、反射概念の発見者として顕彰されてきたルネ・デカルトの神話であった。

 

 カンギレムがデカルトの代わりに紹介するのは、イングランドの解剖学者で化学者のトマス・ウィリス(1621-1675)である。デカルトと同じく心身問題を解決しながら身体運動を説明するためにウィリスも「動物精気(spiritus/esprit)」の概念を用いる。しかし、デカルトが「精気が充満した風船」のような筋肉が縦横に拡張/収縮することで関節や器官を動かすという説明をするのに対し、ウィリスは次のような説明をなす。

 

 ウィリスにとって、動物精気は現実化されるのを待っている一つの可能態である。それは不意に生起する精気だ。一瞬ほんの一条の光が差したかと思うと、精気は突然爆発する…神経内の間隙を埋める液汁に把持され運ばれてゆく精気は、肉体の抹消器官を浸している動脈血の中に自らの活性や運動能の増援剤を見つけだす…それから、大砲用火薬に似たその起爆性の混合物に点火が成され、火薬のような爆発が生ずる。収縮並びに運動を引き起こすのはこの筋肉内の爆発である」(同上、pp.76-77.)。

 

 カンギレムは「ウィリスが何か説明をするために比喩を用いるとき、その比較の典拠とされるものはほとんどの場合火器である」(同上、p.77.)ことに気がつく。つまり、ウィリスが精気を火薬の火花や光のイメージで捉えそれを貫徹したがゆえに、それが瞬間的に神経情報を伝播させ、そして跳ね返る(反射する)ものとして想像することができたのだ。この背景には彼の師であるヤン・ヴァン・ヘルモント(ネーデルラントの化学者、花火製造技師で「ガス」の概念を確立した)との系譜関係があり、またより広くは15世紀以降の火器技術の普及があったはずである。ここに、ある科学的説明をなす際に参照するものはクーンが唱える科学者集団のパラダイムというよりも、より偶発的で広範な人間関係、あるいは何かしらの出来事にもとづく社会的イメージの共有からなるパラダイムがあるのではないか、という視座が導かれる。

 

 田中は、「ガリレオは振子の観測を、アリストテレスは落下物体の観測を、ミュッセンブルークは電荷を充した瓶の観測を、フランクリンは蓄電器の観測を解釈した。しかし、このような解釈のどれもがパラダイムを前提としているのである」(『科学革命の構造』p.138.)という言葉を引きながら、次のような問いを提出する。

 

解釈を形作るのは常に「パラダイムを前提として」であると本当に言えるのだろうか?ここではむしろ、ある現象が力学の対象なのか化学の対象なのか、学問分野の境界線をどのように設定するのかが問題になっているのだが、クーンとしてはこれを科学の前段階に位置する事例と考えるのだろうか?

 

 科学者集団のパラダイムを決定するパラダイム、すなわち「社会的パラダイム」とでも呼ぶべき諸範囲・区分の決定を規定するものとは何か、が問われている。ここから、「実験科学というそれ自体一つの技術であるような科学が、生政治という『パラダイム』の出現においてイメージの源として果たした役割を考察することも可能なのではないだろうか」と田中はまとめる。

 

 このような田中のクーン的なパラダイムへの疑義を、黒岩報告も共有する。黒岩のまとめは、そのままクーンの内容説明と批判になっている。

 

パラダイムという概念を一般的に普及させた当のクーンの議論では、「パラダイム」という語が指すものは――こう言ってよければ――パラダイムではなかったのだ。クーンの言う意味でのパラダイムは、たとえばフーコーが使うような意味でのパラダイムとは、名の同一性と本当にささやかな内容の類似性以外は、全く関係のないものである。クーンは、「通常科学」、すなわち、ある少数の学者集団内で共有されているさまざまな事象の確認と判定と結論の枠組みとして、他の箇所ではさらに限定して科学者に理解と説明の枠組みを与えるある一定の具体的なモデル業績として、パラダイムという語を使っている。そして、その通常科学の内部において、徐々に変則性の発見が蓄積されていき、その量的蓄積がある段階に達すると、「科学革命」と彼が呼ぶものが生じると考えている。そうして、その革命の結果生じるのは、何ということはない、再びまた別の「通常科学」というわけである。

 

 上記のクーンへの批判を念頭に、黒岩は科学が対象とする「自然」とはそもそもどのように考えられてきたのか、あるいは「自然」を思考するときに対置される「社会」とはどのように考えられてきたのか、そして自然と社会の関係はどのように互いが互いを定義しあいながら形成されてきたのかをホッブズ、ルソー、ヘーゲルダーウィンマルクスルカーチなどの思想にそって歴史的に論じてみせた。先に田中が提示した「社会的パラダイム」という概念もまた、自然の定義との対応の中で定義されるものと捉える必要がある。

 

 例えば、黒岩はマルクスの次の言葉を紹介する。

 

ダーウィンが、分業や競争や新市場の開拓や《諸発明》やマルサス的《生存競争》を伴う彼のイギリス社会を、動植物界のなかでも再認識しているということは、注目に値する。それは、ホッブズの言う《万人の万人にたいする戦いbellum omnium contra omnes》だ。そして、それは『現象学』のなかのヘーゲルを思い出させる。そこではブルジョワ社会が《精神的な動物界》として現われ、他方、ダーウィンでは動物界がブルジョワ社会として現われるのだ(『エンゲルス宛書簡』, 1862)。

 

 既述の田中があげたウィリスの「動物精気」の発想は常に火器のイメージを伴っているとされた。ここではダーウィンも同様に動植物界を再認識する際に人間社会で行われる諸種の活動や制度を参照していることが、マルクスによって論じられている。つまり、人間が自然を対象化する際には認識者を取り巻く社会制度が参照されることを示している。では、その社会とは何かを定義するためには、自然との関係を論じる必要がある。ルソーが自然と比較して「社会への堕落」を論じ、ヘーゲルが「第二の自然」を提唱し、ルカーチは「第二の自然」を自然と見なされるまで凝り固まった因習として捉えたように。このことによって、人間の自然・社会・科学の観念もまた歴史的な変化を遂げてきたことが明らかとなる。このとき、「歴史的パラダイム」とでも呼ぶべき視座が導かれる。

 

 自然と歴史とはそもそも対立するものとして捉えられてきた。大地や天空など不変をシンボルとする自然と、人間生活の移ろいやすさに代表される歴史の観念を念頭におけば、想像にかたくない。しかし、黒岩はそのような自然と歴史の関係を踏まえたうえで、その宥和を目指したベンヤミンアドルノルカーチの思想を紹介する。

 

 ルカーチは「歴史が自然として/自然が歴史として把握される瞬間」に接近し、ベンヤミンは歴史と自然がともに克服可能なものとして現れる契機としての「変移」という概念を打ちたてた。

 

悲劇とともに歴史が舞台に登場するとき、歴史は文字として現れる。自然のかんばせには、変移の象形文字で〈歴史〉と記されている。悲劇によって舞台にのせられる自然-歴史のアレゴリッシュなかんばせは、廃虚としてありありと現前しているのである。(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

 

 このような黒岩の自然と歴史の対立と宥和への姿勢は、クーンが唱える変調としての革命――それはいずれは元の木阿弥に戻るだろう(通常科学)という予期からなる――とは異なり、真理の到来可能性の場が訪れるかもしれないという意味での革命を提起する。すなわち、「私たちは、むしろ科学革命を、あらたな通常科学のはじまりではなく、真理が到来するときとして、すなわち、そのようにして〈科学〉という概念すらもついに完全に止揚されるような瞬間として、想い描くこともできるのではないか」と。このときわれわれが目の当たりにするかもしれない、それはそれは美しい眺めを、ベンヤミンは次のように描写してみせた。

 

……経験的なものは、それが極端なものとしてより精確に識別できるものであればあるほど、それだけ深く、その核心に迫りうるものとなる。概念は、この極端なものに由来する。ちょうど、母の身近にいるという感情から子供たちが母のまわりに輪を作るときにはじめて、母は、傍目にもはっきりとそれと分かるほど溌剌と生きはじめるのと同じように、それぞれの理念も、そのまわりに極端なものが集まってくるときにはじめて、明確な輪郭を示す(同上)。

 

 この光景は理念として描かれたものである。だが、実際に人間社会の中で革命や真理を期待するような場面がたびたび現われたのもまた事実である。その一つが、1960年代という時空間ではなかったか。松崎報告が着目したのは『科学革命の構造』が出版された1960年代の世界情勢であり、当時の「社会的パラダイム」の内実を検証した。

 

 ビートルズが好きな人なら、彼らがまさに「レヴォリューション」を1968年に歌い上げたことをご存知であるだろう。

 

You say you want a revolution

Well you know

We all want to change the world

 

 

 しかし、このような革命への期待と唱和こそが、当時の社会的危機を逆説的にあらわしているといって良い。クーンは「革新的理論は、危機に対する直接の反応として現われる」、「そして危機感がない時には、このような予測は無視されていたのである」として科学革命を導くのは通常科学の危機であると書いている(『科学革命の構造』, 84頁)。だが、パラダイムパラダイムを考えるのであれば、当時の科学がもたらした危機が広範に共有されていたからこそ、1960年代前後に多くの思想家が科学に関する著作を連ねたのであると理解する必要がある。

 

 例えば、ハンナ・アレントの『人間の条件』(原著は1958年出版)の冒頭一文は次の通りである。

 

 一九五七年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた(ハンナ・アレント『人間の条件』 筑摩書房, 1994年, 457頁)。

 

 

 アレントは衛星ロケットの打ち上げから、人間の世界疎外という考察を導き出した。彼女が危惧する事態とは、「近代テクノロジーの起源は、このような道具の進化にあるのではない。むしろその起源は、もっぱら無用の知識を求めるという完全に非実践的な探求にあるのである」という人間の科学技術に対する姿勢である(同上, 457頁)。それは、クーンが述べる「パラダイム、またはパラダイム候補のない所では、ある専門の発展に役立ち得るすべての事実は、同じように大切であるように見える。その結果、学問の発展が一定のコースに乗った所と違って、まだ初歩的な事実を無茶苦茶に集める活動が行なわれる。さらに一定の型の、より本質的な情報を求める理由が存在しないものだから、初期の事実蒐集は、普通手近に手に入るデータに限られる」(『科学革命の構造』, 18-19頁)という科学者の無反省な手法そのものを批判しているのだ。

 

 初代ゴジラの映画(1954年)が示すのは、科学が目的なく生み出したモノをどのように処理するか、というきわめて困難な「政治」的課題である。原爆や水爆実験、核ミサイルといった存在を省みれば、生まれてしまったモノがもたらす無視できない破壊・破滅・混乱への危機感が強くあらわれている。

 

 ゴジラ製作の東宝プロデューサーである田中友幸は次のように述べている。

 

水爆実験で、恐竜が太平洋のどこかで眠っていた、それが東京を襲う、その寓意としては、人間が造り上げた水爆という文明の利器により、また人間が作った東京というような大都市、つまり人間が人間のために復習されるという理念(川崎市岡本太郎美術館ゴジラの時代』六耀社, 2004年, 8頁)。

 

 放射線の問題は、半減期にかかる10万年という歳月を大地に埋め込む。放射線と10万年共にある世界とは、黒岩が述べたように人間の営みがすでに自然となってあらわれてくる世界である。1945年以降の自然とはそのようにしてある。

 

 こうした終末的世界観は、スタンリー・キューブリック監督映画の『2001年宇宙の旅』でも踏襲されている。

 

人類は、じつは神ならぬ地球外知性体によってもたらされた石板状の教育装置の力で、四〇〇万年前(小説版では三〇〇万年前)に猿人だった時代より密かに誘導されてきた。やがて二一世紀を迎え、同じ異星人が同じく四〇〇万年前に月に残した目印、すなわちもうひとつのモノリスが掘り出され、太陽の光を浴びた瞬間に発した電波エネルギーの飛跡をたどり、土星(映画では木星)をめざすべく巨大宇宙探査船ディスカバリー号が送り出されるも、あいにく船体を統御するスーパー・コンピュータHAL9000の発狂という異常事態が発生。そして、まさしくその結果、人類の代表者デイヴィッド・ボーマン船長は、土星木星)をめぐる巨大なるいまひとつのモノリス、すなわちスター・ゲートヘ呼び込まれ、彼は時空間を超えていよいよ超人類として生まれ変わり、かくして大団円では、巨大なるスター・チャイルドが核武装された地球を見下ろすように虚空に浮かぶ。(巽孝之『『2001年宇宙の旅』講義』, 平凡社, 2001年, 14頁)。

 

 ところで、人はなぜ危機を感じることができるのだろうか。もちろん、それは想像力の問題でもあるだろう。だが、多数の地域で多数の人々がある危機への想像を「肌身に感じる」ためには、身体への働きかけが重要となるのではないか。クーンが唱えた「通常科学の危機」は生身の科学者が実験器具を用いて実験を繰り返すことによって気づかれるものであった。科学と身体を結びつけるもの、それが「技術」(テクノロジー)という視座である。マルセル・モースは身体技法について次のように述べる。

 

道具を用いる技法に先立って、ありとあらゆる身体技法がある。わたくしは心理‐社会学分類学の仕事なる、この種の作業の重要性を誇張するつもりはない。しかし、それは無視できない事柄ではある。なにひとつとして秩序のなかった諸観念の真っただ中に、秩序がもち込まれたのである。諸事実を配置する場合にも、原則に基づく正確な分類がその内部で可能となった。この物理的、機械的、化学的目的への不断の適応(たとえば、われわれが飲むときの)は、一連の整備された行為、それも、個人にあってはみずからによってのみならず、その受けた一切の教育、彼みずからが属する社会全体をとおし、その社会で占める位置において、整備された行為のなかで追求されるのである(M・モース, 有地亨, 山口俊夫訳『社会学と人類学Ⅱ』弘文堂, 1976, 133頁)。

 

 映画館に行って座席に座り、音響を聞きながらスクリーンをまなざす行為とは、どこまでも身体的活動であり、さらに複数の人間が共通の空間に身を置く共時的体験でもある。キューブリックは『2001年』の演出に関して、「わたしが狙ったのは視覚的体験だ。言葉で整理することを避けて、潜在意識に直接突き刺さるエモーショナルで哲学的な映画だ」と非常に意図的であった。この技法を執り行うためには、1952年の『これがシネラマ』に代表される、「観客を巨大スクリーンで包囲するシネラマは、現在のアイマックスのような体感映像システム」装置を要したことはいうまでもない(町山智浩『<映画の見方>がわかる本』洋泉社, 2002年, 19-20頁)。

 

 科学が無目的にやっかいなものを生み出してしまうこと、それは目的論的世界観から機械論的世界観への一つの移行を示している。だが、科学が無目的に不特定多数の人間に働きかけることは、それ自体が危機の象徴であると同時に、危機に対処するための、あるいは危機に反応して革命を起こすための人々を身体的に動員する契機ともなりえる。

 

 ボブ・ディランが1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでフォークギターからエレキギターに持ち替えたことの意義をもう一度捉えたい。

 

ロックンロールを商業主義に侵された悪魔の音楽と見なしていたフォーク・ファンからは、激しいブーイングが巻き起こり、ディランは途中で演奏を切り上げることを余儀なくされた。しかし、そのときこそ、ロックンロールの野性とフォークの知性が融合して、新しい音楽ロック・ミュージックが誕生した瞬間であった。ディランは、ロックンロールに新しい機知と言語運用能力を持ち込み、同時にフォークに電気増幅に伴う直接性をもたらした。このようにして、ティーンエイジャーと大学生の音楽市場を力ずくで接続したディランは、インテリもエレキギターを手にする新たなる音楽シーンを創造したのであった(福屋利信「ボブ・ディランと対抗文化」『英語と英米文学』 (45), 2010年, 90頁)。

 

 既存の身体技法にそぐわない体験をすることは、諸種の「驚異」によって一種の停滞・白紙状態を生み出す。ロック・フェスティバルの場に身をおいて起きたことを言語化することは難しい。映画館で『2001年宇宙の旅』を見た直後に誰かその内容をすぐさま説明できるだろうか。現在の空白を説明するためには、過去が必要となる。『2001年』は未来のビジョンのみならず、人類の歴史を新た形式(モノリスというキューブに魅せられる人類)で語ってみせた。過去と未来が交錯する時間と場所。エイリアンな体験こそが、パラダイムの変革のきっかけとなる。危機と驚異を身体的に察知した人々こそが、革命を起こすのである。

 

 伊藤報告は、科学における非目的性を強調した松崎とは対照的に、科学に目的を授与することにまつわる科学者集団内の政治性を重視した。さらにこれまでの論旨をふまえれば、クーンのパラダイム論が現代どのように扱われているかを例証するものでもある。ハリー・コリンズはクーンの科学革命への思考を現在、次のように説明している。

 

もし科学革命の経過の中で、科学者が世界について考える仕方が変わり、それによって、世界が変化するとしたら、そのとき、世界は固定した基準ではなくなってしまう。世界は、もはや、すべての理論形成の基盤ではないのである。もし、科学者が異なった考え方で世界を考えたときに、世界そのものが変化するならば、何が真とみなされるかが、科学者の生きる場所や時代によって変わるだけではなく、何が真であるかも、科学者の生きる場所や時代によって変わることになる(ハリー・コリンズ『われわれみんなが科学の専門家なのか?』法政大学出版局, 2017年, p.35-6)。

 

 コリンズはクーンのパラダイムの変動性に注目して論旨をうち立てていると言って良いだろう。では、このような変動の契機を科学者の行為に即して捉えると、どのような事態が想定されるのだろうか。

 

 伊藤・徳安は伊藤が主催した事前会、エヴァレット・カール・ドルマン『21世紀の戦争テクノロジー』(2016)の輪読において、「技術の流出」について論を進めている。科学者集団の内部で自閉している限り、クーンのパラダイム論や通常科学は変動してなお安定的だといえる。だが実際のところ、科学技術をだれが、どのように共有するかはすぐれて政治的な問題でもある。そして、「『どの技術は普及を認められ、どの技術は流出を防ぐか』という政治的な意思決定者(≒国家や資本家)の存在による権力の行使を無条件に追認することでもあるのではないか?」という問いを立てる。

 

 この問いから現代の科学の状況を考察すると、次のような仮説が生まれる。

 

中国で遺伝子操作した双子が生まれた。このことが含意する問題は非人道的であるとかいう話ではなくより本質的には、ヒトが「目的的に生まれる」という点にある。本来、生命というのは生まれた時点ではあらゆる可能性が無制限に与えられて生まれてきている。ところが、遺伝子操作で生まれた双子は生まれながらにして「遺伝子操作によって生まれた子はどうなるのか?」という命題を背負わされており、その命題に答えるという目的からは例え自ら死を選んだとしても逃れることができない(なぜなら、死を選ぶ、ということもまた「遺伝子操作によって生まれた子」の選んだ行動として結論づけられるからである)

このことが意味するのは、技術というものは「問いとそれに対する解」として規定されるといえるのではないか。別の言い方をすれば、技術の持つ暴力とは「問いとそれに対する解を規定する」という点に起因するのだろう。

 

 問いを立てているようで、実はそれは答えをあらかじめ用意している。このような視座は、ハンナ・アレントが現代の「人工的リアリティ」について描いてみせたことに不思議なほど重なる。つまり、「実際、今日人間の創造力は、かつて夢とか幻想の中で精いっぱい想像されたものをはるかに越えているだろう。しかし残念なことに、そのおかげで今ふたたび人間は、以前よりももっと強力に自分自身の精神の牢獄の中に閉じ込められ、人間自身が作り出したパターンの枠の中に閉じ込められているのである」と(前掲『人間の条件』, 455頁)。コリンズが唱えるように、もし万物の尺度を人間だけに求めるのであれば、このような事態が起きることは想像にかたくない。

 

 この「精神の牢獄」に対する伊藤・徳安の見解は、問いと答えの一元化された結びつきをずらしていくことだとされる。

 

だとすれば、我々が技術に対して持ちえる権利とは、「問いとそれに対する解」を読み直すということにこそ生じるといえる。つまり、水を入れ持ち運ぶという瓶を使って、発火させるという「火炎瓶」、あるいはこね混ぜて食べるという目的の小麦粉を使って、引き起こす「粉塵爆発」そうした事象に象徴されるような、問いと解を読み直すということが、抵抗の端緒となるのかもしれない。

 

 クーンのパラダイム論を安易に受け入れると、伊藤が指摘するように、「コリンズの議論の方向性は基本的にはクーンの提示したパラダイムの構造をより細分化して呈示しているにすぎず、パラダイムそのものを根拠づける理論的基礎についての検討がなされていない、ということに尽きる。このことは別の観点から捉えるならば、クーンのパラダイム論は、科学者集団の特殊な性質については明らかにしてはいるけれど、科学者と社会との接点については考察されていない」という問題に行き着く。だが、これまでの各報告者は、まさにクーンのパラダイム論を下(歴史的)から見たり、横(社会的)から見たり、はたまた上(現代的)から見たり、斜め(系譜的)から見て、考察してきた。

 

 田中報告はクーンと同時代のカンギレムの科学史を検討することで、「パラダイムパラダイム」が存在することを指摘し、黒岩報告はそこから「歴史的パラダイム」を、松崎は「社会的パラダイム」を描写してみせた。伊藤報告はクーンの「パラダイムのその後」について言及することで、クーンのパラダイム論を批判的に検討することの重要性を再び指摘したといえるだろう。以上が今期の群知堂の活動報告、「政治的なものと科学技術」をテーマに、各報告者が「パラダイム――下から見るし、横からも見る――」を試みた。これまでの叙述が、打ち上げ花火のように発火され、爆発し、光臨を降り注ぎ、やがて散って消えていくような情景を浮かび上がらせるものであれば良い。みなが、「人間火薬庫」でありますように。