博物学探訪記

福島県郡山市より

書評 小松理虔『新復興論』ゲンロン叢書,2018

本を買いに出かけ、喫茶店で読む自分と著者の関係

 

 2018年9月7日。郡山は曇り。遅まきながら、小松理虔さんの『新復興論』(ゲンロン叢書, 2018年)を買いに行く。普段であればアマゾンなどの通販で書籍を買うが、この本はどうせ買うなら書店にまで足を伸ばして購入しようと思った。小松理虔さんは実践の人である。だからこそ、この本との関わりも自分の身体を伴って書店という空間に足を運び、店員さんから購入するほうが「筋」のように感じたからだ。

 

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 郡山市のうすいデパートの中にあるジュンク堂書店に行く。うすいにはほとんど訪れる機会がなかったので、この書店がこれほどまでに本を揃えているとは知らなかった。嬉しい驚きである。哲学/社会思想のコーナーに目当ての本があった。

 

 デパートを出て、ドン・モナミという居心地の良いジャズ喫茶に向かい、窓側の席でおいいしいカレーを食べた後に、コーヒーを飲みながら本を開き、ページをめくる。この時間も含めて読み終わるのに2、3日ほどかかった。自分にしては遅いほうである。読みやすい文章でありながら、文を支えている著者の経験の力強さに押された感じがした。その強さは、本を通じて確かに伝わった気がした。

 

 私にとって小松理虔さんは大事な存在である。福島に戻ることを意識してから、理虔さんの記事を読むことで、福島での生活に納得できるような気持ちになった。福島の生活をどうするかは、結局は自分が何を求め、どう動くかなのだな、と実感できた。当たり前のことかもしれない。それでも、その当たり前に納得するためには、他者の言葉が必要であり、その言葉を発信していたのが理虔さんだった。そのときの気持ちを次のように書いている。http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/132249?_ga=2.174324642.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 そういえば、ブログで記事を書こうと思ったきっかけの一つも、理虔さんが地方でライターになるには媒体に関わらず文章を書き続けたほうが良いといった趣旨の発言をしていたからかもしれない。

 

 

復興がもたらす喪失

 

 

「新復興論」という題名のとおり、本書は復興に関する新しい論旨を提示することを目的としている。では、既存の「復興」の何が問題であるかといえば、小松さんは次のように指摘する。

 

①復興助成が手段ではなく目的になるため、かえって助成金への依存体質ができあがること

助成金の受け手が時間に余裕のある高齢者になりやすいため、若者が疎外感を持ち、コンサル会社の企画に終始してしまい、衰退が進むこと

③「復興」のための工事や施設誘致が旧来の町並みや通りを破壊するため、文化的・歴史的景観が失われ、地域性の喪失につながっていること(40-41頁, 178頁参照)

 

 上の指摘の全てに通じる問題は、「復興」のもとに地域の自立性が失われていることである。経済は復興助成が続くまでの一時的なものであるにも関わらずそれに依存し、復興に関わる人々は互いに協力し合うよりも分断が目立ち、復興事業が地域の民俗・文化・歴史を破壊する。復興が物事を回復させ、興すのではなく、その逆になっていることで、福島で起きた災害・人災の被害への対応が、更なる被害を招くというやるせなさにつながっている。福島は今なお、いや、震災から数年が経ったからこそ、再び喪失の時を迎えているのだ。

 

 

当事者と外部

 

 

 具体的な問題を掘り下げてみよう。まず第一に、復興とは誰のためのものか。あるいは誰にとっての問題なのか。この問いは、福島の震災や原発の被害者は誰なのかということにもつながっている。難問である。だが、この難問がきちんと問われたことはあっただろうか。私自身は2011年の3月11日に横浜におり、その翌日には友人と避難もかねて関西に旅行していた。大阪の道頓堀の光景と首都圏の計画停電の光景が対照的であったことを覚えている。家族の一人は郡山で震災を経験し、もう一人は山形で経験した。震災から数年は父の収入が半減したが、私自身の生活にはあまり影響がなかった。けれども、父の状況から被災者のための学費の免除申請を申請し、受理された。私は被災者だろうか?

 

 肯定の側に立つにしろ、否定の側に立つにしろ、論理的にはどちら側にも立ててしまうし、立ってしまう。人は立場の立脚そのものへの思考をやめ(それは苦痛なのだ)、ある立場に自己を定位することで、自身の安定を保とうとする。その行為を私は否定できない。どれだけ多くの人びとが不安定であったのか、想像することもできない。けれども、その立場の違いから対立が生まれる。対立は分断となり、修復できない傷を生む。人々は「当事者」となることで、これまでとは違った人物になりうる。

 

 2018年2月15日に福島県立博物館で行われた館長講座「語りがたきものに触れて」において、静岡県NPO法人クリエィティブサポートレッツ理事長を務める久保田翠さんは、どこに住んでいようと「震災で傷つかなかった」人はいなかったと語った。原発への恐れや事故後の行政措置なども含めて、あるいはあの津波に流される映像を見て、大人であろうと子どもであろうと、日本人であろうと外国人であろうと、男であろうと女であろうと、本当にたくさんの人達が傷ついたのだ。私はちょうどフィリピンからのスタディツアーから戻って間もない時期に震災が起きたこともあり、現地で知り合った人々から心配するテクストを何通ももらい、そのときのやりとりをもとに彼らは復興支援金を集めるボランティア活動を行ってくれた。Pray for Japanの活動を今でも覚えている。

 

 復興が字義通りに過去のありようを回復し、現在あるいは未来を興すものでもあるならば、過去の人びとや未来の人びとをも視野に入れなければならない。過去の範囲はどれほどだろうか。歴史的な史跡や寺社などもまた復興の対象となるのであれば、現在からは途方もつかない過去の人びとや事物もまた復興しなければならないのだろうか。未来に対してはどうだろうか。放射性廃棄物を10万年後まで管理するという計画であるならば、10万年後の人びとに対しても復興の責任が生じることになる(251頁)。

 

 だからこそ、小松さんは「真の当事者」は存在しないと指摘する(50頁)。当事者を福島の「内と外」の論理で特定することはできないし、時間軸においても現代人だけを対象にすることもできない。あのとき何が起きたのか、どのような影響をもたらしたのかを知るためには、「すべての人が当事者だと捉えていかなければならない」(206頁)のだ。

 

 

バックヤード

 

 先に挙げた問題がなぜ理虔さんが住む小名浜では生じているのか。ある地域に暮らす人びとと復興の問題がどのように結びつくのか。これらを知るためのキーワードとして、理虔さんはいわき地方の「バックヤード」性を提示する。いわきは歴史的に見て、一次産業から二次産業、エネルギー供給など諸産業において、首都圏を支えるバックヤードとして機能してきたという。それは首都圏という中央に対して周辺の関係を築くということであり、押し付けられた役割をまっとうすることこそが矜持となるような心性(メンタリティ)を育んできたのである(32-33頁)。

 

 このような中央への依存体制は、歴史的な出来事の積み重なりの上に成立しており、ある部分においてはやむをえなかったところがある。しかし、制度は存続しつ続ける限りにおいて効力を発揮し、人びとはいつしか押し付けられた体制であったものを内面化し、むしろその構造に依存してしまうようになる。世代を重ねるごとに依存の心性は強力になり、制度だけではなく、人びとの心が首都圏との周辺関係に固執してしまう。逆にいえばその心性や体制からはみ出る人びとを更なる周辺に追いやり、自分達の思想だけを純化する外部なき「当事者集団」を作りあげる。復興の問題とは技術的・実際的な面だけではなく、それよりも深遠で不可解な人びとの「心」の問題でもある(320-321頁)。「敢えての依存」が「無意識の依存」にすり変わっていく、人間の精神のあり方をも復興の問題の遡上に載せなければならない。

 

 しかし復興において、このバックヤード性こそが武器になりえると小松さんは語る(113, 140頁)。バックヤードはもはや沈黙しない(本書が出版されたように)。押し付けられるだけの存在ではない。実際われわれの生活は様々なバックヤードに支えられている。それは文字通り支えられているのであって、依存しているのはむしろ中央の側である。復興の問題を「観光」として捉えることとは、バックヤードの闇に光を当てることであり、可視化されたバックヤードはもはや「NIMBY (ノット・イン・マイ・バックヤード)」となり、当事者に限らず全ての人びとが考えざるをえない課題となる。「わたし」だけの問題ではないし、「かれかのじょら」だけの問題でもない。「あなた」の問題でもあり、「われわれ」の問題でもあるのだ。このような指摘をすることで、問題を慣習化し、視界に入りながら考えないようにする態度に抵抗をし続ける。バックヤードの存在を積極的に提示することで、依存の心性の忘却に抗うのである(191頁)。

 

 

思想/ビジョン、文化の自己決定能力

 

 これまでの論旨において見出された共通の問題は、復興における思想/ビジョンの不在である(168-170頁)。あるいは問題への対処をめぐる細やかな配慮/想像力の欠如といっても良いかもしれない。復興がむしろ地域の破壊をもたらすこと、復興に関わる人間関係の多様性/多層性の無視、バックヤード的立場への依存。問題が複雑かつ広大であるからこそ、小手先の復興工事よりも、いったい何が起きて、どんな問題があって、それに関わっているのは誰で、こうでありたい未来の形とは何なのかということへの検討が重要であり、そのことを回避してきたつけがまわっている。もちろん、癒えない傷を抱えている人びとにとって、震災や復興を直視するには更なる時間を要するのかもしれない。生存のための環境をまず整えることも重要だったのだろう。だが、なればこそ、機械的スクラップアンドビルドではなく、トライアンドエラーの試行錯誤の上で復興の方向を模索するべきであったのかもしれない。人びとにあって、傷の深さも、その癒え方も一律ではない。土地や風土もまた一様ではない。それらを単純化してひとまとめにして「当事者」や「被災者」といったレッテルで覆うこともまた、更なる暴力となりうる。

 

 基本的で、遠回りのやり方が必要である。考えること、考えるための環境を整えること、先人の思想を考察すること。こことはどこで、いまとはいつなのか。人びとの「心」を問題として捉えるとき、抽象的な事柄への思考が必要となる。思考を通して改めて「自己」とはなんであり、「自分の地域」とはいかなる場所かを問い直す。それは同時に「他者」とは誰であり、「この世界」とはどんな場所かを問うことでもある。そのような遠回りの先に「自立」という視野が開けてくる。「自立」という思考形態を失うと、押し付けられたものを「自己」とみなし、隷属することを自然だと取り違えてしまう。ソクラテスデルフォイの神託、「汝自身を知れ」から哲学を始めたといわれるが、「自分」とは何かを探ることこそが、復興の一歩であるのかもしれない。こうした中で、理虔さんが小名浜という土地に見出した思想が、先の「バックヤード性」であったのだった。

 

 

実践と経験

 

 しかし、小松理虔さんは「当事者/外部」「バックヤード」「思想/ビジョン」といった発想を思索の上に積み重ねたわけではない。彼は自ら実践し、経験した事柄について想いをはせることによって、これらの着想を得ている。小松さんの肩書きには「ローカルアクティヴィスト」なるものがあるが、彼は行動する人であり、実践から思想を学ぶのである。首都圏から友人が来れば小名浜の日常的な空間を案内し、人びとがどのように日々の生活を営んでいるのか、小名浜という土地にはどのような歴史・文化・社会機構が埋め込まれているのかを紹介する。観光に焦点を当てながら、必ずしも観光地を巡るわけではなく、人びとの日常的営みを再考する「リアルツーリズム」を実践する(95頁)。

 

 私自身、2017年12月10日に小松さんやさんけい魚店という小名浜の魚屋さんが主催する「さかなのば」というイベントに参加している。そのとき次のような感想を残している。

 

イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。

魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。

http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/143423?_ga=2.208116754.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 実際にその場に行き、身体を動かし、目を向け、音を聞き取り、においをかぎ、空気の感触を感じる。そのようにして、その場所において思想をめぐらす。思想は身体的経験と結びつき、身体が記憶する。人びとが日々の生活において行っていることと同じであろう。われわれは常にある場所で活動し、様々な経験を積み重ねている。思想は経験を基盤とし、他者の経験に頭と身体、心を開くことを準備する。そのような活動は他者の活動と触れ合うことで、更に強く記憶される。小松さんにとっては、アジアン・カンフー・ジェネレーションのゴッチこと後藤正文さんと、作家の古川日出男さんを連れて常磐を見て回ったことが、大きな意味をもったとされる(298-299頁)。

 

 「さかなのば」を実施する趣旨が「港町の魚屋さんで魚をつまみにお酒を飲んだら最高だよね」という行為そのものを目的としたように、実践の目的はあらかじめ結果を見据えるものではない。われわれの目指す未来は過去からの束縛をまぬがれえず、常に手探りである。そこに意図はある。だが、その意図が伝わるかどうかは予測がつかず、実践の過程において何かしらのイレギューラーな事態も常に起こりうる。だからこそ、「やりたいことを表明する、そしてやりたいようにやる」(287頁)ことで、ときには他の実践と交じり合い、共存が生まれる。このとき誰もが「当事者」となる。先取りした結果を見据える実践には、「外部」がない。想定外のことが起こりえない。実践の場に身をおくことで、「バックヤード」に光を当て、「当事者と外部」の垣根を飛び越える。そして後から過去の実践を振り返ることで、そこに「思想/ビジョン」を見出してきたのが、小松理虔さんの経験なのである。そうして築き上げた場が、回廊美術館となり、UDOK.となった。結果は後から発見されるものであり、結果もまた次なる実践の過程の中にある(287頁)。

 

 

対話と場

 

 実践のさなかにあって、他者と共存するとき、共にあってなお痛感することは、他者との「埋めようのない考えの違い」であったと小松さんは書いている(221頁)。賛成や反対、当事者と外部といった人々の思考の対立は、同じ場にあってなお維持される。身体を同じ空間に位置づけることはできる。実際われわれは大陸・国・都道府県・市町村・字・集落・番地などの空間の中で共存している。だが空間を共にすることと、思想を共にすることはイコールではない。むしろ迷惑な隣人とどう付き合っていくかが、人間関係の肝でもある。対話は論駁を目的にしない。対話の目的は、自分とは異なる存在の声を聞くことで、異物の中にある自分、他者と共にある自分を自覚し、むしろそこに「自己」を見出すきっかけをつかむことではないだろうか。もし全ての人間の思考様式が同一であったなら、そこには「わたし」も「あなた」も、「われわれ」も「かれかのじょら」もおそらく存在せず、認識することができない。それは「自立」の道とは決定的に違えてしまう。

 

 このような発想は、活動する人ならではのバランスの取り方、他者との折り合いのつけ方だと、私は感じた。活動をしていくからこそ、他者との関係の仕方はやわらかくあらねばならない。他者(という異物、あるいは迷惑きわまりない存在)を受け入れようとする人間こそが、自己の存在を立脚させることができる。このような現場の知恵に関する記述が、私が本書で最も多くを学んだと感じた部分である。

 

 他者との関係において、データや実証をつきつめることは、自己の正しさを主張するために他者を論駁することにつながってしまう。科学的知見はこの世界を観察するための一つのツールであるが、唯一のツールであるわけではない。人びとは世界と多種多様な方法でつながっているにも関わらず、「客観的データ」という単一の世界観において被害や復興を測定することは、たとえ意図しなくとも、他者の排除と自己の拡大に陥ってしまう。賛成/反対の二元論もまた同様の帰結をたどる。難解で複雑だったものを単純化する思考には、常に暴力性がつきまとう。だからこそ、自分の主張や他者の主張の間に鑑賞帯としての「中庸」や「余白」が必要となる(50, 55, 60, 228-229頁)。

 

 福島県産の食物に対する忌避や、他者を受けいれられない自己、あるいは科学的にしろ感情的にしろ極論を支持する、支持しないことの全ての「選択」が担保されなければならない。全員が同一の見解を保持する必要はないし、皆が同じになる必要もない。しかし、われわれはみな「当事者」であるため、自己の行動が他者に影響を与え、他者の行動が自己に影響を与えることには自覚的であらねばならないだろう。他者への配慮と自己の抑制、自他の間に「余白」を設けることは、すなわち一人ひとりの人間が成熟することである。対話の内容が、意見の相違が問題なのではない。対話という営みとその場に参加することの勇気、他者におびえ、自己の傲慢さを自覚するような「自立」のはてにしか、おそらく「対話」は生まれないのだ。

 

 Youtubeに上がっている「【無料生放送】小松理虔 【ゲンロン叢書第一弾】「『新復興論』先行販売特別イベント」」https://www.youtube.com/watch?v=IW1YUQGywNgを視聴した際に、東浩紀さんが小松理虔さんの本に対して「綺麗な文章」であると評価していた場面があった。私も同意する。そこに小松さんの他者に対する配慮や、自制心があらわれているように思う。震災から7年間もの時を過ごし、小名浜を中心に活動することで、傷つかないわけがないのだ。家族の問題、他者との軋轢、職場での諦念、様々な場面で他者の醜さや自分の不甲斐なさをきっと経験してこられたのだろう。このように活動する人が、何も感じずに、「楽しい」だけの時間を過ごしてきたわけがないのだ。しかし、それにも関わらず、他者に語りかける文体の丁寧さ、綺麗さに、小松理虔という人間の純真さと苦悩、そして大人としての成熟がきっと表れているのだと私は思う。

 

 

潮目

 

 このような論旨は、「潮目」という思想に辿り着く(267頁)。これまでの議論は全て二項対立的な言説空間の中で、どのように極論に陥らずに、世界の荒波を渡っていけるかを示唆している。復興/喪失、当事者/外部、中央/周辺、(マン・オブ・ザ・ワールド)/バックヤード、自立/依存、思想/実践、自己/他者、表と裏があるように、光と闇があるように、物事は両面(おそらく多面)的に層を成している。世界はかくも複雑で難解であり、人びとの経験やものの見方、心のあり方も不可解である。そこに分断の層を見ることもあるだろう。だが、波と波がぶつかり合うはざまに、ほんの少しの共存としての重なりも見えるのかもしれない。他の波とぶつかって、傷つくときに、痛みを共有できるのかもしれない。あるいはぶつかり合うのではなく、触れ合う喜びに満たされる瞬間があるのかもしれない。そのほんのわずかな「救い」の時を求めて、われわれは自分の殻にこもるのではなく、世間という大海に乗り出し、他者と関わるのではないだろうか。

 

 そして、潮目もまた移ろってゆく。断絶と思われた裂け目も時間が過ぎるたびに、あるいは場所が変わるごとに、ゆるやかに統合されていくのかもしれない。波風を立てているのは人々の生活、日常的な実践である。生活が無風というわけにはいかない。穏やかな幸福の波もあれば、災害や人災のような荒波もある。そのような波間の中で、せめて、波に翻弄されるだけではなく、異なるものが交わるからこそ意味をもつような、出会うことによって成熟するような、そのような思想を持てるように、私は願わずにはいられない。

 

 

歴史への問い

 

 最後に次の引用に対する警句を述べておきたい。

 

さきほど見てきたように、私たちには、本来、誇るべき歴史や文化がある。しかし、国家の発展のための犠牲を押し付けられ、その過程で、自ら文化を葬り去り、町の誇りは、歴史や文化ではなく、「炭鉱」や「火力」や「原子力」であり続けた。それは、日本を支えているという自負でもあっただろう。しかし、その自負は、私たちが支えているはずの日本によって裏切られるという歴史を繰り返している。近世、近代、そして現代。かくも寡黙に日本を支え、それでも裏切られ続けている土地を私は知らない。

自分たちの上地の軸となる歴史や文化を取り戻すことができず、地域づくりに失敗し、その結果、中央への依存を余儀なくされ、やがてその依存構造をいつの間にか忘れ、自らを周縁化させていき、ついには中央に裏切られる。この地で繰り返されたのは、そのような歴史でもある。それを繰り返さないためには、文化や歴史、芸術といった領域の活動を再起動して、地域の軸を取り戻さなければならないのではないか。本書は、その主張を繰り返してきた。(378頁)

 

 日本の近代や常磐炭鉱を支えてきたのは、常磐に住まう人びとだけだったのだろうか。いや、そうではなかった。次のような研究が示すように、そこには海外から強制動員された人々がいた。

 

・山田昭次「戦時下常磐炭田の朝鮮人労働者について」小沢有作編『近代民衆の記録10

在日朝鮮人』、新人物往来社、1978年

・長沢秀「常磐炭田における朝鮮人労働者の闘争―1945 年10 月―」『在日朝鮮人史研究』第2 号、在日朝鮮人運動史研究会、1977年, 同「日帝朝鮮人炭鉱労働者支配について―常磐炭鉱を中心に―」『在日朝鮮人史研究』第3号、在日朝鮮人運動史研究会、1978年

 

 もちろん常磐地域だけに強制動員が行われたわけではない。大沼郡三島町の宮下発電所喜多方市の与内畑鉱山などの県西部にも朝鮮人労働者や中国人労働者が動員されている。歴史の闇をのぞくとき、そこにはわれわれが想定する以上の「当事者」の存在を散見してしまう。いわきや常磐は確かに首都圏に対するバックヤードであったのだろう。しかし、そのバックヤードの更なるバックヤードとして、かつては日本の植民地があったことを指摘しておきたい。水が低きに流れるように、裏切りや暴力もまたより権力をもたない側に流れ続ける。地域の歴史を再稼動するときに、その歴史を一元化してしまえば、潮目は失われ、過去という異質な他者をも消し去る暴力に身をゆだねることになる。歴史もまた他者なのであり、そこには様々な死者が横たわる。どうか、異なる死者にも目をくばる繊細さを求めたい。

 

 恥ずかしながら、私もまたそのような福島の過去に無自覚だった。たまたま福島の海外移民、開拓者の歴史を調べていた際に、福島県内への朝鮮人動員の研究をしておられた韓国人の方と知り合い、教えていただいた。彼女もまた福島の「当事者」である。国籍を問わず多くの方達が福島や原発の問題、地域医療や労働問題に関わっている。彼彼女らとの間にも対話の場が設けられるように成熟することが、今の私の課題である。

 

 

読書会@猪苗代町 渡辺京二『無名の人生』

 2018年8月26日、晴れ。郡山市は気温が32度ほどだが、午前9時ごろからかなり暑く感じる。午前中に庭の家庭菜園の草むしりを行うも、顔や腕を蚊にさされまくり、30分ほどで断念する。農家のおばちゃんが虫除けのために顔を覆う帽子が欲しいと強く感じた。

 

 準備を済ませて、猪苗代町の道の駅に向かう。自宅から車で1時間ほどで到着。現地で渡部さん、長谷部さんと合流し、デニーズに移動後、読書会を行う。課題本は渡辺京二の『無名の人生』(文芸春秋, 2014年)。新書のお勧めを聞かれたときに、家の本棚をあさってみてこの本を推薦した。地方(熊本)で暮らし、歴史書などを著した人がどのような人生を送ってきたのかを知るのに良い本だと思う。

 

 

 課題本が人生論的なこともあり、話題が各自のこれまでの経歴や、好き嫌い、生活や仕事の悩み、人生観などに広がった点がとても良かった。この本を通して、渡部さんと長谷部さんの人生について触れ、また自分がどのような人間であるのかを少しは人に伝えることができたと思う。日頃の生活ではなかなか話さない事柄であり、率直に話すには多少気兼ねする。その点、本をきっかけに互いの人生を語り合うような読書会も、とってもありだと思った。

 

 

 本のカバーには「生きるのがしんどい人びとにエールを送りたい」と書かれている。しかし、長谷部さんは率直に「この本を読んでも、人生が楽になる感じはしない」と感想を語る。うん、ですよね。一瞬、人間はなぜ本を読むのかとか、著者の話で他者を救うことができるのかという深遠な問いを抱きかけたが、その前にそもそもわれわれがしんどく感じていること、感じてきたことは何かについて話し合う。

 

 

 渡辺京二は語る。

 

 われわれは、みな旅人であり、この地球は旅宿です。われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて、平等なのです。

 娑婆でいかに栄えようと虚しい。すべてが塵となるのですから。金儲けができなくても、名が世間にゆき渡らなくても、わずか数十年の期間だけこの地上に滞在しながら、この世の光を受けたと思えること。それがその人の「気位」だと思う。

 これが結論です。昔の日本人は「この世に滞在する旅人にすぎない」という結論が分かっていたからこそ、死ぬときには、あっさりと、かつ立派に死ねたのです。そう言えば、湯川秀樹さんの自伝のタイトルも『旅人』でしたね。

 自愛心の発達した現代人は、この結論がなかなか理解できません。この世の光といったって、なんのことか分からない。この世の光を浴びるとは、自分を自分としてあらしめている真の世界と響き合うこと。この世界――地理学的な世界ではなく、自分を取り巻くコスモスとしての世界――と交感しながら、人間が生きていることの実質を感じること。これが真の世界と響きあうことでしょう。(172-173頁)

 

 

 御年80歳を越えて人生の酸いも甘いも噛み分けた人が語ることは含蓄があるが、しょせんは30歳ほどのわれわれがそれを実感することは難しい。それでも、なぜ渡辺京二がこのような心境に達したのかと問うことには意味があるかもしれない。

 

 

 渡部京二は1930年に京都で生まれ、その後、満州の大連に移民している。ということは戦後は日本に引き揚げざるをえなくなったということであり、国家や時代による強制的な移動を強いられた経験をもっている。

 

 

 さて、本を買い集めたはいいが、結局はほとんどを大連に置いてくる羽目になりました。引揚げ船に持ち込める荷物は両手でトランクに提げられる分だけ。あとは布団包み一つ。大部分は処分して、大事な本だけトランクに詰めたのだけれど、乗船する際にソ連兵の検閲で全部没収されました。幸い布団包みの中に入れていた本が五、六冊あって、それだけ助かりました。田辺元の『哲学通論』とか、三木清の『歴史哲学』です。引揚げ後、古本屋へ持って行ったらとても高く売れた。その金で受験参考書を買いました。旧制高校に行くつもりでしたから。(31頁)

 

 考えてみれば、戦火に追われて流浪するという生き方は、私という一個の人間の原形をなしています。私が幼少時に経験した幸せな家庭生活など例外的なものであって、流浪することこそが人間本来の在り方だ、と。そういう実感があるのです。(33頁)

 

 

 移動の経験が引き起こすしんどさは現代人にも通じるだろう。ご多分にもれず、われわれもまた親の転勤や、進学、就職や退職をきっかけに環境を変え、新たな環境に適応せざるをえない人生を歩んできた。中学生などの多感な年頃にあっては、そうした経験から、「人付き合いはくだらない」と思うこともしばしばあったのだ。新たな環境で愛想笑いを浮かべながら、吐きそうな心地で自己紹介をすることに悩まされた人も多いのではないか。

 

 

 福島には未だに閉鎖的な土地柄だといわれる場所もある。雪が降らない所から引っ越してくれば、雪に違和感と拒否感を覚えることもある。東北の人が関西や西日本に引っ越せば、そのあまりの饒舌ぶりに驚かされる。それでも、住んだ場所は自分の人生観に影響を与えていたのだと、振り返ってみると気がつくものだ。

 

 

 移動に伴う流浪の経験、これが渡部京二の思想の核の一つである。さらに、彼には二つ目の核として、前近代への歴史認識がある。

 

  日本近代化論は、私が書いた本とは似て非なるものです。前者が、「日本の近代は江戸時代に用意されていたものである」と二つの時代の連続性をいうのに対し、私は不連続性を強調しているからです。明治期に日本を訪れ、西洋に日本を紹介したB 。H ・チェンバレンも、その著『日本事物誌』のなかで「古き日本は滅びた」と言いきっています。私が尊敬する中野三敏さんも、江戸時代は近代とまったく違う世界だからおもしろいのだとおっしゃっていて、私は同感です。

 今を生きる人間にとっては、現代文明は所与のものであり、自明なものです。だけど、それとはまったく異なる文明の在り方があるのだよ、それはそれなりにいい文明なのだよ、ということなのです。

 二つの文明のあいだに決定的な「優劣」があるわけではない。前の文明が後の文明へと「進歩」したわけでもない。現在の社会システムは、 一つの時代性に規定されたシステムであるのに、その中に生きている人間にはその相対性が見えず、それ以外のありようはないように絶対化してしまう。私は江戸時代を賛美するのじゃなくて、それを現代文明を相対化する鏡として用いたいのです。(111頁)

 

 

 現代を相対化するための目をもつこと。そして近現代がもつ問題を、前近代の人々の生活のあり方から逆照射することで、浮かび上がるものが出てくる。彼の主著と目される『逝きし世の面影』を読めば、前近代がもっていたのは貧しさゆえの自立性であり、近代が獲得したのは貧困からの脱出とそれに伴う人々への生命の管理、言い換えれば自立性の喪失であることがわかる。管理社会がもたらす弊害を福島の文脈で見れば、補助金目当ての企画や活動が横行することでもあるだろう。

 

 

 地方は都市と比べて娯楽に乏しい。それゆえ、自ら能動的に時間を潰す手段を見つける必要がある。渡部京二にあっては、花鳥風月を愛でるような時間がすこやかなひと時となるという。

 

 

 しかし、私たちの日々の生を支えているのは、もっとささやかな、生きていることの実質や実感なのかもしれません。

 本当に何げないもの。たとえば、四季折々に咲く花を見てほっとするような小さな感情とでもいったらいいのか。あるいは花を咲かせない樹木であっても美しいし、山が好きな人は山登りをすることに生きがいを感じたりもする。あるいは街角に佇んでいて、ふと斜めに日の光が差し込んできたその一瞬、街の表情が変わってしまうようなこと。空を見上げていたら雲のかたちが何かに似ているなと感じること。この自然、この宇宙は、われわれにいろんな喜びを与えてくれるのですが、案外、人間の一生は、そうした思いもかけない、さりげない喜びによって成り立っているのかもしれません。(73頁)

 

 もちろん、町に行って娯楽におぼれることは楽しいことだ。しかし、地方で暮らす場合は常にそのような時間を過ごすわけにはいかない。畢竟、一人で本を読む時間や音楽を聴く時間、あるいは自然のレジャーなどに費やす時間が長くなる。

 

 

 それでも、われわれは孤立したいわけではない。自立を望みながら、誰かと時間を、場所を、食べ物を、考えを、何かを共有したいのだ(おっと、ファミレスには全てがそろっていそうだ)。一人で本を読んだり、音楽を聴いて、自分の中に貯めたものを、誰かと共有したい。誰かと過ごす居心地の良い場所を作り上げたい。

 

 

 『苦海浄土』の著者で詩人の石牟礼道子さんの文学の根本には、小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出されて泣きじゃくっているような、そういう姿が原形としてあります。一個の存在が世の中に向かって露出していて、保護してくれるものがない、この世の中に自分の生が露出していて誰も守ってくれないところから来る根源的な寂しさ――それがあの人の文学の中核なのです。

 考えてみれば、人間はみな、本来そういう存在です。危険にさらされることも、寂しいことも、それは誰だって望んでいるわけではありません。だから、そこから抜け出そうとして人とつながり、家族をこしらえ、社会的な交わりが生まれ、さらには、自分の生存を保障してくれる制度が生まれてくる。文明とは何かといえば、生がむき出しになった寄る辺ない実存を、東の間、なんとか救い出そうとする仕組み、それを文明と呼んでいるのでしょう。だけど、やはり原点には、寂しさを抱えた自分があるということを自覚しておいたほうがいい。(13頁)

 

 

 しかし、他者に働きかけることはいつでも難しい。自分の考えをまとめることも、考えなきゃいけないこと自体にも自信がない。他者に何かを伝える明晰な論理があるわけでもないし、渡辺京二のように水俣病問題で社会と衝突し葛藤したなどの、伝えられる経験があるわけでもない。

 

 

 他者と同じ時間を過ごすだけで、何かが共有できるわけでもない。仕事場で仲のよい友達がむしろできにくいのは、共有よりもメンタリティなどのずれや意見の食い違いを感じるからであり、主張の内容よりも声の大きさで物事が決まってしまうことの違和感があるからだ。仕事は苦しいものだと思い込む人は、同僚に苦痛をおしつけることをためらわない。遊びの延長に仕事を求めるような心構えは、この時代の若者に特有の傲慢さなのだろうか?世代間のギャップは埋めがたい溝をつくる。言いたいことを言えない環境は、「共有」よりも「強制」に支配されている。そのような世間の中で、地方暮らしの中で、自分の居場所をどのように見つけられるのだろうか。

 

 

 ですから、当面、われわれに必要なのは、まずは自分の身のまわりに目を向けること、この生きづらい社会のなかに自分の居場所を何とか探しだすことでしょう。

「どこにも属せないから、自分たちで独立国家をつくる」と坂口さんは言います。「高度消費社会」と言われようとも、この社会にはまだまだ利用できるエアポケットがあるものです。そういう場を見つけて、友だちと何かの店を開くのもいい、百姓仕事を始めてもいい。とにかく自分たちの力で何かをやってみること。高収入は望めなくとも、自分と家族が生きてゆけるだけの場を見つけられればいい。(87頁)

 

 昭和の終わりと平成の始まりに生まれた30前後のわれわれには、先行世代はあらゆるものが過剰であったり、極端であったように見える。現代人は「接続過剰」なのだと千葉雅也は言う。成長、成長、経済成長。家族、家族、庭付き郊外一戸建て。えとせとら、えとせとら。でも僕らはそれほど過剰に過激にはなれないし、あぁ無常と悟りを開くこともできそうにない。あっちに行ったりこっちに行ったり、一人になったり仲間を求めたり、職場で小さくなりながら、バランスをとって生きているのだ。

 

 

 自分のやりたいことを探しながら、人から影響を受けたり傷ついたりして、強制ではない自立と共有が得られる場所を探したり、作りあげたりしていくのだ。読書会だってその試みだ。僕らは社会や歴史に目を向けながら、その時間と空間の中にバランスをとって居場所を見つけていくのだ。きっとそうなのだ。そのための実践が、今後の課題となっていくのだろう。

 

 

 もちろん、個人の気構えに問題を矮小化しても根本的な解決にならないことは百も承知です。それに、人間の耐性の劣化はなるべくしてなっているわけで、大きくいえば現代文明のはらむ深刻な問題ともいえます。

 それでもなお、私は、それを社会や制度のせいにはしてほしくないと思う。社会がよくなる前に、自分自身が死んでしまうからです。嫌な仕事でも我慢をしなければ飢え死にしてしまうからです。生きたいという強い意欲をもたなければ、厳しい現実のなかでは生きていけないからです。(55頁)

 

 

 

渡辺京二 経歴】

・1980年 京都府出生

・○○年? 大連一中、旧制第五高等学校文科卒業

・アジア太平洋戦争後、熊本に引き揚げ

・法政大学社会学部卒業

・熊本に戻り? 河合塾で働く

・○○年? 水俣病問題に関わる

・2010年 熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就任

 

【著作例】

・『熊本県人 日本人国記』 新人物往来社、1973年/言視舎(改訂版) 2012年

・『小さきものの死 渡辺京二評論集』 葦書房(福岡)、1975年

・『北一輝朝日新聞社「朝日評伝選」 1978年、朝日選書、1985年/ちくま学芸文庫、2007年-毎日出版文化賞受賞(第33回)

・『地方という鏡』 葦書房(福岡)、1980年

・『逝きし世の面影』 葦書房(福岡)、1998年/平凡社ライブラリー、2005年-和辻哲郎文化賞受賞

・『江戸という幻景』 弦書房、2004年

・『黒船前夜~ロシア・アイヌ・日本の三国志洋泉社、2010年-大佛次郎賞受賞

・『ドストエフスキイの政治思想』 洋泉社新書、2012年

・『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』 弦書房、2013年

・『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』 平凡社、2014年3月/平凡社ライブラリー、2018年8月

・『無名の人生』 文春新書、2014年8月

・『死民と日常 私の水俣病闘争』 弦書房、2017年11月

・『原発とジャングル』 晶文社、2018年5月

 

 

 読書会の途中で、猪苗代の十六橋水門に連れていっていただく。江戸と明治、前近代と近代が重なる史跡がここにはある。会津猪苗代湖から郡山の猪苗代湖へ。われわれの足元にはこうした歴史が今なお歴然とそびえ立つ。

 

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当ブログは、福島県文学読書会(仮)様を応援しています。

 

長崎探訪記

2018年7月20日、夕方。博多駅から高速バスに乗り、長崎駅に到着。下の写真の時刻は16時15分ほど。

 

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この日は駅近くのホテルにチェックインして、特に行動せず。

 

翌21日より、長崎探訪を行う。

 

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 長崎市の南北を中心に市電が走る。大人一回120円で、ほとんどの観光地付近まで市電で向かうことができる。朝方はゆったりと座れるが、昼過ぎになるとだいぶ混雑していた。

 

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長崎原爆資料館着。アジア・太平洋戦争の一つの結節点であり、「戦後」という時間軸だけではない概念を早期させる場所である。広島の原爆ドームには行ったことがないので、日本の原爆に特化した資料館への訪問は、ここが初めてとなる。

 

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 年月日が刻まれる。和暦ではなく、西暦を用いることに、日本史の文脈には回収できない位置づけであることがわかる。

 

一見してアジア人と思わしき鑑賞者の姿が目に入る。原爆の投下は敵/味方や戦勝国敗戦国、加害者/被害者といった分類をひどく難しくする。

 

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原爆投下に関する一つの説明が私の目を捉える。祖父が沖縄県の南洋開拓移民の2世として生まれたテニアン島から、原爆を搭載したB29が飛び立った。祖父にとっては1944年にテニアン島での戦争が終わり、米軍キャンプにおいて捕虜とされていた時期のことだった。南洋群島における戦争の終結から、日本本土の戦争終結に関わる判断に影響をもたらす原子力爆弾の準備が始まる。

 

 

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テニアン会会誌』の第一号に掲載された「1977 年・版板 グレン・マクルア」のテニアン地図には、日本占領期におけるテニアンの土地利用の面影はなく、代わりにアジア・太平洋戦争の史跡を示すものとして、地図中にも “WWⅡ JAPANESE KAHE FIELD”
といった地名や、“WWⅡCIVILIAN INTERNMENT”、 “ATOMIC BOMB LOADING SITE” が書かれている。

 

長崎の歴史と、祖父の個人史がテニアンを媒介として交差する。

  

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原爆投下の年月日が展示、そして日本史、あるいは世界史に刻まれたのと同様に、原爆の被爆は人々の身体に刻印を刻む。被爆者達にとって戦後は戦争の終わりを意味しない。また、内部被爆を受けた子孫にとっても戦争の終わりは訪れない。

 

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原爆の投下は、「日本人」の物語だけにも収束しない。朝鮮人を筆頭とする中国人や台湾人、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの捕虜もまた被爆している。加害と被害が入り乱れる。軍都としての、あるいは捕虜収容場としての長崎の顔もまた浮かび上がる。誰から誰にとっての加害で、誰に対する被害なのかを単純化する企ての全てに対して、無数の多種多様な顔と名前がそれぞれの存在を主張している。

 

資料館を出てから、平和公園に向かって歩く。真夏の日光が容赦なく照りつける。街の中に転々と原爆の跡が示される。

 

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町並みの至るところで、原爆の記憶の風化を防ぐモニュメントが建っている。町を歩く人々は歴史の中をさまよう。風光明媚な明治期の西洋建築や、趣深い江戸期の建物が残る一方で、原爆の傷跡もまた生活の風景の中に溶け込んでいる。

町が、場所が過去を記録し、記憶している。

 

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浦上教会

 

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長崎県県立美術館

 

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オランダ坂

 

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大浦天主堂

 

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 グラバー園

 

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アジア系の旅行者が宿泊していると思われる豪華客船。現代を象徴する顔。

 

長崎の町を歩いていると、町の場所ごとに異なる歴史の流れがあることに気がつく。

江戸時代の貿易港として栄えた出島、明治の造船業の発展と共に異人館が並び立つ南山手、そして原爆資料館平和記念公園がある浦上方面。それぞれの地区が異なる時期の歴史を内包し、長崎を歩く人は、時代に応じた異なる長崎の様相を目撃することになる。

それは同時にどこに原爆が投下され、被害の範囲がどの程度であり、どの場所が過去の町並みを残すことができたかをも示している。それは残酷なほどにはっきりとわかってしまう。 

 

翌7月21日の午前中に、長崎歴史文化博物館を訪問する。近世から明治期までの長崎の歴史を中心に展示している。もとは長崎奉行所があった場所に、この博物館は建てられている。

 

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長崎は時間の流れを惑わす町だ。ある時期を特定して長崎の歴史を論ずることは難しく、さりとて通史的な発展史観で語られるほど、楽観的な記憶を宿していない。それゆえ、多層な顔と町並みが並置されている空間を、歩行者は歩くことによって感知する。

 

これは長崎に特有のことであるのだろうか?いや、そうではないだろう。そもそも画一的に一元化した過去をもつ町や場所など本来はどこにもない。その土地がもつ記憶と過去は他の土地と同様ではない。近代や現代、古代のみで語られる町村もまた存在しない。

 

しかし、そうであっても普段われわれが目にするものはどこかでどこにでもあるように感じてしまう。歴史がある町とは、過去の痕跡を豊かに残す町である。だが、その痕跡は時の経過と共に失われてしまう。だからこそ、長崎という町はいずれ失われる過去の痕跡を、人為をもって残そうと努めていることがよくわかる。

 

過去を未来に残す行為は、とても繊細さが要求される営みである。現代から判断した過去だけを残すのではなく、未来を基準に残すべき過去を選定する。それは町にとって不都合な事実に対しても誠実に行わなければならない。

 

ひるがえって福島はどうだろうか。原爆の被害に関して外国人被爆者の存在をアーカイブするような真摯さをもって、原発事故という出来事を表象することができるだろうか。

 

 

 

湯布院探訪記

2018年7月23日。湯布院の民宿で起床。晴天だが、湯布院は標高が高いので気温はおそらく30度前後。福岡や長崎よりもずいぶん涼しく感じる。

 

駅前からの観光通りから東南に少しずれると、田んぼや農地が広がる。美しい。

 

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朝食をすませ、荷物を宿に預かっていただき、金鱗湖をめざす。

 

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金鱗湖近くのゆふいんシャガール美術館に赴く。本日の目的の一つ。

 

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展示室は2階の2部屋になっており、おもにシャガールが手がけたサーカスの絵が展示されている。シャガールの絵はなぜか気になっており、ジョルジュ・ルオーの絵と並んで、展覧会などで発見するとちょっと嬉しくなる。

 

館内は撮影禁止。朝早かったこともあり、他にお客がいなかったので、ゆったりと鑑賞する。

 

シャガールの絵はどこかもの哀しい。サーカスに出ている人々は、多くの場合、男性は異形の姿で、女性は性を強調するようなあり方で、はりついたような笑顔をもって微笑んでいる。自分達が見世物であることを自覚しているかのように。観客はデフォルメされており、表情に乏しいが、サーカスという場を構成している存在であることがよくわかる。しかし、私にとっては画一化された観客よりも、突飛な姿のサーカスのメンバーのほうが人間味を感じさせる。それはなぜだろうか。

 

鑑賞を終えて、山道を歩きながら、2つ目の目的地へ。比較的涼しいといえども、やはり暑い。由布岳の勇壮な姿を見ながら、ひたすら登る。

 

由布院空想の森アルテジオに到着。湯布院で何をするかを探していたとき、一目見て気になった。音楽にまつわるアートを展示する美術館であり、レストラン・カフェも隣接している。どうやら、展示室にはラジオの収録室もあるようだ。設立の背景がいろいろと気になる美術館である。

 

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音楽にまつわる展示が、やはり観客が自分しかいない空間で、繰り広げられる。

静謐な中で、音や、アート、あるいは由布院という土地について思いをめぐらす。

 

展示室の奥が読書室になっており、そこで興味のある本をぱらぱらとめくりながら、心地よい時間を過ごす。

 

シャガールの本を手に取る。ロシア生まれでユダヤ人の彼は、才能を認められ、パリにおもむく。パリではピカソなどの同時代の画家と交流し、徐々に作品が展覧会で人気を博していく。

 

しかし、時勢はナチス・ドイツの勃興と重なる。危険を感じたシャガールアメリカに亡命し、そこで創作活動を続ける。それでも彼は第二の故郷となったパリに戻り、余生を送る。うろ覚えだが、このような人生をシャガールは生きた。

 

だからなのか、シャガールは自分の作品の表象に対してどのような解釈を与えられても良いという趣旨の発言をしている。

 

ユダヤ人であることと、アートについて。

 

また、浜田知明の本も読む。《少年兵哀歌》が有名だ。たしか沖縄の佐喜眞美術館で見たことがある。

 

この美術館は本当に心地よい空間だった。湯布院という避暑地の更に山奥にあって、芸術家村の一画をなしているように立地し、日常を離れて美術に親しむ。湯布院で2、3日はゆっくりと過ごすことができそうな場所だ。

 

村上春樹の『遠い太鼓』(講談社文庫, 1993年)にある好きなシーンを思い起こす。

 

 外に出て少し丘を上がり、最初にみかけたカフェニオンに入って、冷たいビールを注文する。目の奥が痛くなるくらいよく冷えたビールである。静かな午後、暖かい光。「レスボス島はギリシャでいちばん晴天日の多いことで知られています」と観光パンフレットにはある。パトロール・ボートが港に入ってくるのが見える。青と白のギリシャの旗が風に揺れる。まるで人生の日だまりのような一日。

 誰かが僕らの絵を描いてくれないかな、と思う。故郷から遠く離れた三十八歳の作家とその妻。テーブルの上のビール。そこそこの人生。そしてときには午後の日だまり。(343-344頁)

 

 

レストランでビールを飲まなかったことを少し悔やみながら、山道を今度はくだっていく。再びこの地を訪れることはあるのだろうか。

 

 

博多探訪記

2018年7月20日。晴天。

天神周辺のビジネスホテルで目覚める。九州滞在2日目。

朝食を済ませて、探索に出向く。

 

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街のふとした所に神社があり、住民の方が朝からお参りに訪れていた。

 

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福岡県立美術館着。常設展示を見る。夏休み特集で、展示の工夫が凝らされた現代アートの作品を見る。大学生の学芸員実習と高校生の職場体験のようなものも行われていた。

 

現代美術は抽象的だが、作家の意図がこめられている作品が多い。そこを解説・解釈するのが学芸員の腕の見せ所。アートにこそ解説が求められているのかもしれない。

 

目につく作品は構図がよく、一目見て印象に残る。

 

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福岡市赤煉瓦文化館。入館無料。福岡ゆかりの文学作品の展示と紹介。

東京駅の設計に関わった辰野金吾が設計者。いわゆる「辰野式」の建築物。優美な建物。

福島県安達郡本宮町出生で福岡に転居した文学者、久保猪之吉(1874-1939)の展示が印象的。福岡は福島ともゆかりがある。

 

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福岡アジア美術館。九州旅行中に最も好きになった美術館。展示の幅広さ、アジアという地理空間に対する意識の高さが素晴らしい。さすがに福岡ならではだと感じさせる。

 

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山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》

サイパン移住者の移民・戦争経験の語りを、自分の喉を通じて発話し、語りを重複させる試み。経験の表象に関する文字や絵ではないあり方、経験の継承と追体験の様式について発想になかったやり方である。

 

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ベトナム絵画にフランスの絵画技法、すなわち植民地統治の影響が見られる。

 

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カルロス・フランシスコ《教育による進歩》1964

 

かなり大きいサイズのフィリピン絵画。様々な象徴を巡らせた歴史画でもあるだろう。

福岡美術館のHPには次のような説明がある。

 

「この作品は、マニラの教科書出版社の壁画として描かれたもので、フィリピンにおける教育の由来と発展、そして教育の重要性を主題にしている。左下には古代にやってきたマレー人たちが描かれ、そのスルタンが指さす先にはスペイン統治時代の修道士に祝福されるカップルが、左上にはアメリカ統治時代に派遣された教師団が描かれている。中央には19世紀フィリピン独立運動の父ともいわれるホセ・リサールが母親に読み書きを習う姿とともに、磔のキリストを思わせるイメージと重なり合って、この国民的英雄の悲運の生涯を暗示している。周辺部を亡霊のように漂っているのは、無知や迷信であり、それらは教育の発展によって消え去ろうとしている。作者は、このように、マニラ市庁舎壁画を始め、フィリピンの歴史を大画面に描き続けて、壁画や歴史画に新境地を開くとともに、国民的な人気を獲得した。」

http://faam.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/collection.cgi?cnid=0405241449061395

 

この説明には1964年という時代への考察と、日本のフィリピン占領およびアジア太平洋戦争における日米のマニラ戦の破滅的な被害の影響が抜けている。

アメリカの教育が最後に描かれるような時代配置となっているが、フィリピン・アメリカ戦争(1899)や1946年のアメリカ統治からのフィリピン独立を考えれば、進歩の語りでは説明できない歴史が浮かび上がる。

1964年という年代がおそらく重要だ。そのためには日本のフィリピン統治がフィリピンに与えた影響について目を向けなければならない。

「教育による進歩」という主題に対して、日本の姿が見えないことに、日本の占領統治の問題とフィリピン社会におけるトラウマ経験の深刻さが見て取れる。

アメリカからの独立が約束されていたフィリピンを植民地にした日本軍の軍政の悪名は有名だが、さらにマニラ戦という第2次世界大戦の中でもトップレベルの民間人死傷者を生み出した戦いによって、マニラは一度ほぼ崩壊している。そのような日本の侵略がかえって、フィリピンが戦後も独立を果たしながら、アメリカに対する従属を深めなければならなかったことを考える必要がある。その表れがこの作品であり、1964年になってなお影響を及ぼしていたことが推察される。

これらの事柄については中野聡の研究が素晴らしい。

nakanosatoshi.com

 

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村上龍の作品に『半島を出よ』(2005)というものがある。

北朝鮮の軍に一時占領されたという設定の福岡の様子を描いた作品である。

中央政府はこの事件の方針を固めることができずに右往左往し、結果的には福岡在住の問題児達が朝鮮兵を攻略するという内容になっている。

作品の最後のほうで、福岡という都市が自立的に東アジアと交流を深めていくことが、すでに斜陽にある日本社会の中で、地方都市が生き延びる術であると書かれている。

 

私はこれまで日本は戦前の植民地支配や戦争責任の問題を、戦後から一貫して回避してきたと認識しており、それが現行の国際関係に対しても悪影響をもらたしていると思っていた。しかし、アジア美術館の展示は、戦後から美術の文化交流が日本とアジア各国の間で着実に進められており、それぞれの作品が戦後のアジア各国の情勢を描いていることに感動した。日本社会の問題を地方の一都市が引き受け、時間と労力をかけながら成果を残していることに、涙が出そうになった。

 

旅はしてみるものだ。そこには新しい発見があり、人の営為の積み重ね、すなわち歴史を知ることができる。どこかでがんばってきた人、がんばっている人の姿を思い浮かべることができる。それは小さな希望に見える。

 

 

太宰府探訪記

2018年7月19日。快晴。気温36度。

 

成田空港よりジェットスター福岡空港に向かう。

 

空港で国際線ターミナルに移動し、バスで大宰府に直行。運賃大人500円。

 

 

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大宰府駅着。外国人旅行客の姿が目立つ。

 

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駅から歩いて、昼食をとり、大宰府天満宮へ。

 

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装飾や、朱塗り、屋根、大木がとても美しい。

 

天満宮のあと、少し足を伸ばして天開稲荷社へ。

階段が急でしんどいが、人が少なく落ち着いて歩ける。

 

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社から山道を通り、九州国立博物館へ。この道は紅葉が多く、秋はさぞかし美しいだろう。

 

 

 

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アジア、ユーラシア大陸文化の中の日本を意識した、珍しい展示。九州という土地柄がよくあらわれている。お客さんが少なく見えたのが気になった。観光地の中にあってなぜ?

 

館内は撮影禁止だが、特別展は可能だった。

 

 

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博物館見学後、大宰府駅に戻り、電車で天神方面へ。

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アクロス福岡はゲーム原作でアニメ化もしたRewriteの舞台。

 

 

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屋台で天ぷらを食べ、〆にとんこつラーメンを食べる。

 

こうして修羅の国での一日が終わる。

 

厚切りジェイソン、藤井靖史、菅家博昭: 会津探訪の長い一日

2018年7月8日(日)晴れ

 

昼前に郡山から会津若松へ車で向かい、渡部さん・長谷部さんと合流して、会津風雅堂の講演会に参加する。

 

講演会「どうせ田舎?チガウダロ!~可能性だらけ!福島のこれから~」

会津風雅堂 13時~15時

主催者:公益社団法人日本青年会議所 東北地区 福島ブロック協議会会長 赤津慎太郎

講演者:株式会社テラスカイ役員 厚切りジェイソン会津大学 準教授 藤井靖史

 

厚切りジェイソン

 

 日本社会の学制(学校生活・受験制度)、労働制(就職試験、新卒制度)は50年前からほとんど変わらず、社会情勢に適応させないことで、優秀な人材を輩出しにくい構造になっている。

 

 アメリカでの経験と比較すると、日本社会は多様性に乏しい。そのことは国際社会における競争という面から考えてみても、不利にはたらく。Googleなどのトップ企業で働くためには、その道の先端専門家にならなくてはならない。1000人で競争した場合、999人よりも優れている人材のみがトップに立てる。では、残りの「凡人」である999人はどのように競争に打ち勝てば良いのか。

 

 厚切りジェイソン氏は、自分は成績的には優秀だが、トップになる器量はなく凡人であったという。しかし、ミシガン生まれ、コンピューターサイエンスのスキル、日本語能力を組み合わせることで、能力の多角化・多様化を図った。つまり、各分野において10人中1人が保持するようなスキルを3つ持っていれば、1/10×1/10×1/10=1/1000の人材になることができる。多様な能力を複数所持することは、結果的に先端専門家と同等の地位に就くチャンスを手に入れることに等しい。999人の代替可能な「凡人」を育成するよりも、多様なスキルをもつ人材を登用できる社会システムを構築すべきである、というのが厚切りジェイソン氏の主張である。

 

 そのためには、初めから1/1000の技術を目指すような「職人業」的スキル構築ではなく、最低限に必要なことを実施して、たとえ失敗したとしても実践を繰り返すことで改善をめざすMVP式(実用最小限の製品: minimum viable product)が望ましい。MVP式は人生哲学に対しても適用できる。自分の職業や年齢に関わらず、とりあえずやりたいこと・やってみたいことに挑戦し、自分の枠を広げ、多様な自己を構築するということだ。実際に厚切りジェイソン氏はエンジニアとして働きながら、お笑い芸人を志し、成功している。

 

②藤井靖史

 

 藤井氏もまたアメリカの一流企業でコンピューター・エンジニアとして働いた経験をもつ。藤井氏の講演で印象的だったのは、講演の途中で「対話の時間」をもうけ、参加者同士が話し合うよう促したことだった。藤井氏が人と人をつなげる「場」の重要性を意識していることがうかがえる。

 

 藤井氏は会津に引っ越していらい、生活の中で地元の人々と触れ合う機会に恵まれ、日本で失われかけている地縁が残っていることに驚いたという。人々の「親切の中」で育つ子どもは幸福であり、このような地域の過去と現在の「時代をつなげる」役割を積極的に果したいと考えるようになった。これは生活面のみならず、日本の社会構造にもつながる側面をもつ。

 

 日本の企業は商品を中心にハードウェアなどの構造を作ることはできるが、商品を介した人々のつながりという対流・ムーヴメントを作ることができない。商品は商品であるのみならず、人々の関係をつなぐ媒体として作用するのであり、そのことで人的交流が生まれ、商品もまた更なる購買の対象となる循環が生まれる可能性をもつ。「関係人口」という概念が含意することは、関係そのものに価値があり、関係がヒトやモノを動かす原動力となることである。人々が集まることはそれだけで可能性なのだ。そして、かつては無尽(むじん、奥会津では「むんじん」と発音する場合がある)や講などの風習によって人々が集まる場を形成してきたことにならい、現在でもこのような対話のシステムを構築する必要があると藤井氏は語る。

 

 二人の講演者が共に指摘するのは、時代の変化に対応する社会システムの変化の必要性である。厚切りジェイソン氏はトライアンドエラー(try and error)を繰り返すことで、新たなスキルや価値、関係を構築する方法を述べ、藤井氏は過去の文化や風習を参照しながら、現代において有用な歴史を模索する。歴史を頼みにするよりも、自ら歴史を作り上げる厚切りジェイソン氏と、現在の課題を歴史の教訓に学ぶ藤井氏といったところだろうか。どちらの指摘も重要であり、現代的な課題は双方向、多方面において検討されるべきである。

 

 両者の問題点を述べるのであれば、次の通りである。厚切りジェイソン氏の方法論は新自由主義的、言い換えれば現代的思想を背景にしている。確かに多様なスキルは生存のために重要だが、そもそもそのようなスキルを入手することが難しい境遇にいる人々に対しては有意な発想とはいえない。多様なスキルを手に入れるだけの学識と金銭、時間を持てる人は限られており、一日のほとんどを労働に費やさなければいけない人々などには一律に適用できる方法論ではない。

 

 また、試行錯誤などの繰り返しを適用できない分野の事柄もある。例えば文化財の保護や伝統産業などに対して、技術の向上は無論のこと大きな影響をもたらすだろうが、失敗しても次に行くという機会が制限されている場合には、より慎重な取り組みを要するだろう。

 

 最大の問題として、試行錯誤を行う方針そのものが時代に適応できなくなったときにどのように対処するかが不透明である。時代状況が大きく変化する時代(少子高齢社会と人口減は人類が初めて経験する事態である)にあって、どのような試行錯誤を行うかは、現代をより広範な歴史へと位置づけて初めてその問題を明確に認識できるのではないだろうか。

 

 藤井氏に対する意見として、藤井氏が良しとして参照する過去とは実際にいかなるものであったのかが問われる。現在のフィルターを通して見る過去は、すでに失ったもの、あるいは失いつつあるものとして、なるほど現代のわれわれの眼にはまぶしく見えるかもしれない。しかし、失いつつあるということは時代状況に適応できなくなった、あるいはそぐわなくなったということであり、それをいたずらに復活させようとしても長続きはしないだろう。

 

 また、ほとんどの風習や文化はプラスの面もあればマイナスの面もある。どのような過去を参照しようとも、その良いところだけを選び取ることは難しいかもしれない。過去と現在の時代状況をまずは事実レベルで把握し、その後比較検討、場合によっては改変を含めて過去の出来事を参照すべきではないだろうか。

人数は確かに何事を始めるにしても推進力として重要であるが、人々の利害関係や目的の配分などを適切に行えなければ、おそらく何事も始められない。そうかといって、中心的な立場の者がトップダウン的に物事を推進していけば、多様であるための人員が硬直化し、株式会社などの運営方法と変わらない組織形態になる。昨今の風潮として、場をとりまとめるリーダーの養成が声高に叫ばれるが、それは従来のトップダウン方式あるいは中心-周辺関係の構築とほとんど変わらない。われわれはむしろ、遅々として物事が進まないことを受け入れながら、利害の異なる(ときに敵対する)人々の話に耳をかたむけ、地道に物事を進めることに慣れていかなくてはならない。

 

会津学研究会 菅家博昭『生活工芸双書 からむし(苧)』(農文協)出版記念講演

三島町西隆寺 16時~19時

司会:遠藤由美子

講演者:菅家博昭氏

 

 会津風雅堂で講演を聴き終えた後、会津美里町方面から農道を通り、三島町西方の西隆寺へ向かう。

 

 私はからむしに関する知識はあまりなく、からむしのことを知れば知るほどおもしろいという読み方はしない。むしろ仕事で関わりをもち、集落誌調査の手ほどきを受けた菅家博昭氏に対して興味があり、菅家氏がなぜからむしと関わり、単著を執筆するに至ったのかを知りたいと思っていた。

 

 新刊をぱらぱらめくりながら、菅家氏の話を聞いて考えたことをここに書く。専門的な話に対していかに一般的な意味づけを行えるかの試みである。

 

 からむしに限らず人間は植物資源を活用してきた。資源の活用はその技術の伝播を含めて集合的・社会的な営みである。当然その営みは自然環境や社会集団による制約を受けるが、そのことがかえって集団のアイデンティティの形成を促進し、植物利用を通して集団の特色が浮かび上がる。そこに暮らす人々は植物資源の所在を生活圏に組み込み、集落の範囲や自分達の存在を確定する足場として築くことになる。実際に菅家氏はからむしを調査するなかで、利用法や態度がからむしの生息地・生産地によって異なることを発見する。人々はからむしと多様な関わりをもち、その利用法を独自に編み出す一方で、一度生まれた方法や環境のもとに拘束される。このような植物利用にまつわる自由と拘束が、地域にアイデンティティをもたらすのである。

 

 植物利用の多様性と独自性は、他地域との関係構築につながる。昭和村であれば、からむしを織ることによって上布の原料を生産し、新潟に流通させていたとされる。ただし他地域への貿易は植物栽培の産業化をまねく事例もあり、資源の枯渇や他地域との面倒ごとに巻き込まれる場合もある。足場を築くこととは、他者や他地域に認知される領域を生み出すということであり、関係を生むこともあればやっかいごとを招く可能性もあるというわけだ。アイデンティティの構築とは他とは異なるという点で、社会的な営みであり、それは自他関係の構築につながる。その一方で、人々の生活が他地域・他集団によって拘束されることもまた、いま一度指摘しておかなければならないだろう。

 

 しかし、一度築いた足場はやがて時代が変遷するごとに、足跡へと変わっていく。植物利用の技法が伝統として脈々と続いていく例もあるだろうが、伝統もまた時代ごとに「発見」されていく。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが『創られた伝統』(1983)を編集したように、太古のものと思われた「伝統」は近代になって「伝統」として発明された例が多々ある。伝統は不変を意味しない。むしろ、それぞれが築いた足場は時代ごとに意味や目的を変える。からむしでいえば、クジラ漁の網の素材として使われたこともあれば、軍服の素材として使われた例もある。

 

 菅家博昭氏がからむし利用の現代的意味を、「いまや農産物を加工し販売する6次産業化の流れや、地産地消、あるいは生活工芸への注目という社会の趨勢は、これまでにない流れとなっており、21世紀が目指すべき「自然との共生」を考えるなら、「小さな暮らし」の価値を感じるものである」(『生活工芸双書 からむし(苧)』, 2頁)と述べる一方で、からむし利用の歴史的変遷を詳細に記述するのは、現代もまた過去に変わっていくことを示唆している。しかし、大きな社会変化の中にある現代にとって、現状や未来への指針を模索する際には、過去はいつでも有益な情報を提供する。足場は足跡となり、さらにこれまでの軌跡を顧みるための例となる。

 

 そのような過去の参照は、正確かつ詳細であることが望ましい。実際に過去がどうであったかの情報は改変の試みも含めて多くあるだけ、過去は豊かになりうる(ただし煩雑にもなりうる)。先の厚切りジェイソン氏と藤井靖史氏に足りない点はこのことだろう。現代において有効な方法論もまた、時代が変われば無用の長物になりうる。未来に対する指針は通り過ぎる現在にのみあるのではなく、過去を振り返ることで見えてくるものもあるだろう。しかし、過去を参照する前に、過去とされるものを詳細に検討し、資史料を用いて探求する試みもまたなされなければならない。

 

 奥会津昭和村にあって、人々とからむしの関係はこれまでに変化してきたし、これからも変化していくだろう。しかし、いまなお「からむし」という植物に接近できることを称賛したい。人々の足場が記録としてのみならず、生活の実践として残っていることは珍しい。昭和村には「からむしという足場」が残っている。しかし、これらは自然に残されたのではなく、残そうとする意志と実践の結果として残っているのである。私が菅家氏に『生活工芸双書 からむし(苧)』という本を著した意味を尋ねた際に、もともとからむし工芸博物館にある史料を活用するために、その利用法を調べており、人と素材の付き合い方を追求したいと考えていたと答えられた。また、菅家氏は仕事を通じて社会とつながることを人生の指標として掲げており、農業は仕事として、からむしの探求は社会への責任として行っていると話している。足場を残すのも、足跡をたどることも、そしてそれらを軌跡として歴史を描くこともすべて、人の営みである。菅家博昭氏の本を読めば、人とは顔と名前をもった個々人であることがわかるだろう。

 

 人々という匿名が物事を進めているわけではない。みんなが集まれば何事かが解決されるわけではない。名前と顔をもち、生活を営む一人ひとりが、自分の時間を割いて、集まりに参加し、ある問題を引き受け、実践を積み重ねてようやく、解決の糸口が見えてくる(かもしれないし、そうではないかもしれない。結果が保証された実践などない)。そのような実践の記録を綴ったものが、『生活工芸双書 からむし(苧)』という本なのだ。

 

 ということを、会津学研究会で話を聞いて、そのあとぼんやりと考えて思いつきました。まだ実際に本を読んでいないので、読んだらまた別の感想が出てくるかもしれないので、あしからず。