博物学探訪記

福島県郡山市より

読書会書評 あのとき特別だったものの先に

 

「うまくいえないんだけど、すごくかなしいときとか、すごくうれしいときとかに、目の前に世界があって、それって世界の切れっ端なんだけど、そのときその人にとっては、その切れっ端が、においも、色合いも、全部完璧だってことだとわたしは思ったわけ。なんかつまんないなあとか思って暮らしてる人のなかに、一個はその完璧なものが残ってる、とも言えるじゃん。それ、すごいと思ったの。だからわたしも、その本を捜してみたいと思った」(角田光代『さがしもの』新潮社, 2008年, 134-135頁)。

 

 人と本、人と読書をめぐる角田光代の短編集『さがしもの』は、文庫化される以前に単行本として出版されたときには、『この本が、世界に存在することに』というタイトルだった。ある本が世界に存在する。でもその本が本当に世界に存在するためには、誰かによって見つけられ、読まれなければならない。その本が、この世界に存在するためには、誰かがその本をさがし出さなければならない。だからこそ、「本を読むのは、そのような行為のなかで、もっとも特殊に個人的であると、私は思っている」(前掲, 218頁)と角田はいう。

 

 角田光代が子どものとき、最後まで読んでつまらないと投げ出し、けれども高校生になって友達から同じ本を渡される。そして、「別世界へ連れ出してくれるばかりでなく、じつにいろいろ考えさせてくれる本だった。なんてすごい本なんだろう、でもどこかで読んだ気がする」という感想を抱く。過去に読んだ本の意味づけが変わる。その本こそが、サン=テグジュペリの『星の王子様』だった。

 

 『星の王子様』のキツネは語る。

 

「おいらにしてみりゃ、きみはほかのおとこの子10まんにんと、なんのかわりもない。きみがいなきゃダメだってこともない。きみだって、おいらがいなきゃダメだってことも、たぶんない。きみにしてみりゃ、おいらはほかのキツネ10まんびきと、なんのかわりもないから。でも、きみがおいらをなつけたら、おいらたちはおたがい、あいてにいてほしい、っておもうようになる。きみは、おいらにとって、せかいにひとりだけになる。おいらも、きみにとって、せかいで1ぴきだけになる……」(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ, 大久保ゆう訳『あのときの王子くん』青空文庫, 2014年)。

 

 キツネは、不特定多数の匿名者には価値を見出さない。キツネにとって価値があるのは、「なつけて」くれる誰かと互いに「せかいにひとりだけ」の存在になることだ。キツネの語りから、「せかいにひとりだけ」の「自分」に主体性を認めれば、長谷部さんが菅家博昭さんの著書から読み取ったことにつながる。長谷部さんは『イヌワシ保護一千日の記録』を読み、「この本の中では、たびたび『自分』が物事を判断する主体たり得たいという心情が書かれる箇所がある」、「他力本願になることは、自分の目に触れないものを受け入れ、信じることでもあると言えるだろう。著者が恐れたのは、その盲信が招く行動意思の喪失ではなかっただろうか。自らの意思の強度を過信せず、敢えて孤独に戦うことを選ぶのである」と、自分を信じて開発運動に取り組む著者の姿勢を評価する。

 

 知らない誰かにとって、菅家さんの住む昭和村大岐は、ただのさびれた、日本に無数にあるであろう辺境の地の一つといえるのかもしれない。だが、そこで何世代もの系譜の中で土地を、自然を「なつけ」てきた菅家さんの家にとっては決して代わりなどない唯一の場所である。それは安易に他の土地と置き換えて良いものではない。そうした志は万人に理解されるものではないかもしれないが、だからこそ、自らを信じて土地を守ろうとするその姿は、読者に強い印象を残すのではないだろうか。

 

 「せかいにひとりだけ」を他人にあてはめれば、渡部さんが指摘するような、「ある一定の地域を思い描くときに一緒に連想される人」のような「地域の人」が思い浮かぶ。渡部さんにとっては、「喜多方とは祖父母のいる土地であり、喜多方を思い描くときには決まって一緒に祖父母の姿がセットで連想された。私にとって、祖父母は喜多方の地域の人だった」とされる。それは親類縁者がいる土地にとどまらない。移動を繰り返す僕達にあっては、「三島町を思い描くとき、猪苗代町を思い描くとき、それぞれの土地に一緒に連想される人たちがいる」のであり、「彼らは私のそれぞれの土地での経験や思い出と結びついている」。

 

 しかし、このように思い浮かぶ特別な他者は、個人の経験にのみ還元させられるものではないと渡部さんは指摘する。例えば、ベネティクト・アンダーソンの『想像の共同体』によれば、国民共同体にとどまらず、「日々顔つき合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである」とされる。このような人々の想像力は、その土地の「自然な」言語のみならず、土地を取り巻く資本主義を骨子とする出版言語などの制度の影響も受ける。個人の経験もまた社会と切り離されたものではないことがわかる。

 

 だが、それはそうした制度・文化的要因によって、人間の土地や自然、他者への関与が完全に規定されることを意味しない。シモーヌ・ヴェイユがいうように、人々の行為は「人為的な国境や言語や習俗や文化をこえて拡がる」不定形で人間的な場においてあらわれるものなのであろう。

 

 これらのことが示唆するのは、人間は「せかいにひとりだけ」の自分、あるいは特別な誰かや土地を基点にして、より広い世界や自然へと目を向ける存在であるということだ。『星の王子様』は、なつけた、特別な誰か・何かがいることを認めたうえで、そこから空を、世界を再び見上げることを促している。

 

「きみは、夜になると、星空をながめる。ぼくんちはちいさすぎるから、どれだかおしえてあげられないんだけど、かえって、そのほうがいいんだ。ぼくの星っていうのは、きみにとっては、あのたくさんのうちのひとつ。だから、どんな星だって、きみは見るのがすきになる……みんなみんな、きみの友だちになる。そうして、ぼくはきみに、おくりものをするんだよ……」(同上)。

 

 特別なだれかや土地の中の「当事者」にとどまっているだけでは、それらの前提となる「世界」をまなざしたことにはならない。それはかえって、特別だったものを貶めてしまう結果となってしまう。小松理虔さんの『新復興論』は、特別なものを失ってしまったからこそ、特別なものの基盤となる世界、すなわち「外部」へと思考を開くことを懸命に語っている。

 

 長谷部さんはこうした小松さんの姿勢を「『今ここ』の意見が進める復興の危うさは、海と堤防の例のように、結果としてその地域の特色や力を奪ってしまうところにある。著者は目の前の現実から飛び出し、広い時間軸と思想で考えるために、観光が持つ可能性を示した。外部との緩やかなつながりや娯楽的な要素が、『今ここ』の理論から飛び出した多様な語られ方ができる福島、あるいは地方を作るはずだ、という。この本の中で著者は二度、いわき市界隈へ読者をガイドする。著者自身の体験や個人的回想をめぐりながら、いわきという地域が持つ歴史とその特色を明らかにしつつ、すべての人が『当事者』たり得るきっかけを提示する」と評価してまとめた。

 

 渡部さんにとっても、小松さんの指摘は身近なものである。渡部さんは、「会津で暮らしていて日常の問題となるのは、小松理虔氏が言うところの『現実のリアリティー』だ。グローバリズムでもナショナリズムでもない、実名を伴う隣人との関係性についての話であり、仕事や娯楽を含めた地域で暮らすことについての話だ。政治や私怨で分断されるものについて、境界を敷かれるものについての話であり、境界をしくことのできない不定形なものについての話でもある」と述べる。

 

 このような「現実のリアリティー」にはまり込むことのないように、小松さんは他者との「相互不干渉的な共存」にたどり着く。長谷部さんは、「相互不干渉的な共存に不可欠なのは、当然ながら『相互』に不干渉な状態である。しかしながらそれは難しい。相手あっての相互的不干渉なのだ。そもそもそれができていれば、こんな共存の可能性を探る必要もない。相互に不干渉であるためには、まずこちらが不干渉であり続けることが、最初のステップとして要求されるだろう。それを実現する突破口として、この本のテーマとも言える観光(外部)の思想が提示されている」と捉えたうえで、「これは大人になることと似ているかもしれない。子どもは自分のコミュニティを選べない。あるいは選択肢が少ない。成長によって、行動範囲や見える世界が広がっていくのを感じながら、自分の居場所を選びとっていく。これは成長することそのもので、自由になるということでもある。観光によって外部とつながることは、地域という制限を超えても、自分の居場所を選ぶことは可能だということを示す一つの答えなのだと思う」と書いた。

 

 確かに、この理屈は大人の理屈だ。そのような理屈を講じる理由も共感できるし、実際に日々の生活を、仕事をする中で、物事をまわしていくためには必要な措置だということはわかる。だが、それでも、本当にそれで良いのだろうかと僕は思ってしまう。例えば、人としてやらなければならないことがあったとして、それが「現実のリアリティー」と相反するとき、僕達は自分にとっての特別なものをはっきりと選ぶことができるだろうか。「大人になること」は自由になるようでいて、不自由になることでもあるのではないか。

 

 この王子くん、しつもんをいちどはじめたら、ぜったいおやめにならない。ぼくは、ネジでいらいらしていたから、いいかげんにへんじをした。

「トゲなんて、なんのやくにも立たないよ、たんに花がいじわるしたいんだろ!」

「えっ!」

 すると、だんまりしてから、その子はうらめしそうにつっかかってきた。

「ウソだ!花はかよわくて、むじゃきなんだ!どうにかして、ほっとしたいだけなんだ!トゲがあるから、あぶないんだぞって、おもいたいだけなんだ……」

 ぼくは、なにもいわなかった。かたわらで、こうかんがえていた。「このネジがてこでもうごかないんなら、いっそ、かなづちでふっとばしてやる。」でも、この王子くんは、またぼくのかんがえをじゃまなさった。

「きみは、ほんとにきみは花が……」

「やめろ!やめてくれ!知るもんか!いいかげんにいっただけだ。ぼくには、ちゃんとやらなきゃいけないことがあるんだよ!」

 その子は、ぼくをぽかんと見た。

「ちゃんとやらなきゃ!?」

 その子はぼくを見つめた。エンジンに手をかけ、指はふるいグリスで黒くよごれて、ぶかっこうなおきものの上にかがんでいる、そんなぼくのことを。

「おとなのひとみたいな、しゃべりかた!」(同上)。

 

 これは近代という時代がもった不自由であるのかもしれない。近代は確かに出生率や寿命の向上、物質的な豊かさをもたらした。だが、それらによって近代人は前近代の人々と比べて、不自由になったのではないか。このように時代を見据えるのが渡辺京二という人である。

 

 『無名の人生』の書評において、長谷部さんは「この本の全体を通して語られるのは、今自分が生きているこの世界と、もう一つ別の次元にある世界を感じることの重要性、それから、各個人にはそれぞれの『職分』があるとする、ある意味での諦念ではないだろうか」と提起した。さらに、「ここで示されるもう一つの世界というのは、神の存在だとか、霊的なものの存在を肯定する言葉ではない。文明や社会の存在よりもずっと根源的な自然の世界である。自然の中で生きてきたはずの人間は、近代化によってその枠から外れ、その存在を無視すぎてしまったこと」であると補足する。

 

 「現実のリアリティー」が所与の事実というよりも、近現代に培われた人間の諸制度がもたらす思考形態であると捉えるならば、目の前にある現実はそこから抜け出せなくなるような現実なのではなく、われわれがそこから抜け出そうとしないような種類の現実なのかもしれない。

 

 そのように考えると、長谷部さんの『無明の人生』を読んでからの読後感は興味深い。

 

  この本は幸せに生きるために役立つか。この本は、僕たちが生きる社会が、物には事欠かない社会ではあるけれども、イコール幸せではなかったと言う気づきを与える。同時に、僕たちが、しかし社会に対する改善の有効打を持ち得ないことを教える。なんと絶望的だろう。

 僕と言う個人は、一つの時代しか生きることはできない。たまたま生きた時代の中で、例えば幸せを感じることができなかったとしても、自分が生きないまた別の時代の中では違っているかもしれない。そんな「かもしれない」というだけの心細い存在であったとしても、自分の受け入れ先があると感じることは、生きることを楽にしてくれると思う。そんな風に、長い時間軸を持って、あるいは時代というものに区分されない自然を感じることができるなら、この本は救いになるのではないだろうか。

 

 そのとおり。われわれはいつだって複数の土地に同時に存在することはできないし、別々の時間を同時に過ごすこともできない。だから、一つの時間、一つの場所は常に特定の時空間なのであり、絶対的に特別なものだ。けれども、われわれは自分にとっての絶対が誰かにとっての相対であり、誰かにとっての絶対が自分にとっての相対であることを知っている。

 

 あるいは、人類史という観点に即せば、自分が体験する悲劇も、喜劇も取るに足らないことであろう。自分の外や、世界を強固に捉えてしまうと、そのような諦観が生まれる。それは自分が不可避的に老いていくことへの境地であるのかもしれない。

 

 だからこそ、長谷部さんは渡辺京二に対して「おそらく著者は、この人間の社会も生態学的な自然のサイクルと同じ視点で語ることができると考えていて、極相がいつかは崩れるのと同じように、今の社会にもほころびが現れることを予感している。その上で、そのほころびを埋めるように生まれてくる社会の一端が、それまでの価値観とはまた違うものとなる可能性に期待しているのではないだろうか」という見解を抱く。

 

 しかしながら、諦念の中にも希望は宿る。2016年4月14日に起きた熊本地震に直面した後で、渡辺京二は次のような文を書く。

 

 だが世の中、私みたいな老骨ばかりではない。熊大近くに住む友人の話では、学生たちはこの地震でかえって活気づいて、笑い声をあげながら彼の家の前を往き来するそうだ。こういう若い人たちが、自分たちの文明がいかにもろい基盤の上に建っているか自覚し、今日の複雑化し重量化した文明を、どうやってもっと災害に強いばかりでなく、人間に親和的な文明に転換するか、考えてみる機会を与えられたのは、ほんとうによいことだ。禍を福に転じるとは、このことをいうのだ。

 私はまた福岡から来た記者から、JRに乗り合わせた客たちがみな重いリュックを背負っているのに、席を譲り合って座ろうとせぬと聞いた。コンビニで買い物すると、店員が話しかけて来るとも聞いた。私自身気づいてみると、街ですれちがう人に、大変だったでしょうと自然に声を掛けていた。私が『逝きし世の面影』で描いたあの人なつこい日本人、人情溢れる日本人が帰って来たのだ。

 自閉していた心が開かれたのではなかろうか。瓦礫の中から、かくありたい未来の人間像が、むっくり立ち上がったようにさえ見える。個として自立していながら、いつでも他者に心が開ける人間。束の間の幻影かも知れない。復興の過程ではかなく消えていく、いっときの和みかも知れない。それでも私たちが、何かきっかけをつかんだのは確かだ(渡辺京二原発とジャングル』晶文社, 2018年, 100-101頁)。

  

 このような災害後の光景は、渡辺が水俣病闘争に人生をかけた後で、つかみとった見地と通じている。渡辺は1990年12月16日に真宗寺で自らの運動の総括を行った。すなわち、「『それじゃお前は何であんなことをやったんだ』という問い、さらに、あんなことをやったということと、今日の自分という在り方がどう繋がっているのかという問いをですね、やはりこれは課せられるわけでして、そこは答えをきちんと出しておかないといかん、しかし誰もやらないということがあります」と(前掲『死民と日常』, 166-167頁)。

 

 だけど一方では「銭はいらん」って。「一銭もいらん」て。「銭貰うための裁判してんじゃない」って言ってんです。それは緒方正人さんもそうおっしゃいましたね。「銭をとったら駄目だ。銭はいらんと思ったから、要するに申請を取り下げた」と。患者認定の中請を取り下げたと緒方正人さんは言われましたね。それが何かってことですよ。

 それが何かってことはね、まっとうな世の中のね、正義ってものを求めたんでしょうねえ。その正義っていうのは何もさ、修身の教科書に出てくるような、背中がピーンとしてせせこましい、そういう正義じゃない。それは人情と言い換えてもいいんだけども。要するに地域社会でですね、地域社会っていろいろあるわけですよ、もうたまらんようなこといっぱいあるわけなんで。だけど地域社会で実現されてる一番いい部分ですね。日本の庶民の道徳ですね、原理ですね、最低限の規範ですね。つまり人と人が何で一つの部落という社会を作って住んでいけるのかっていうことですね。人と人を繋ぐものは何かっていうことですね。それによって自分たちは規定されている。自分たちはそれさえあれば救われる。ところがチッソはどうか。チッソにそれを見せてほしいわけですよ。見せてくれない。同じ人間同士としてですね、同じ人間同士で、自分は当然こうだと思うことがどうして通らないのか。なぜチッソはそのことを認めないのか。どうして世の中がこれを認めないような世の中なのかってことです。

 ですから根本的にはですねえ、やはり人間がお互いの共同性ということでね、お互いの共同性の繋がりで信頼しあって生きていける世界ということでしょうね。共同的な社会は現実にはいろんなもう大変で嫌なことあるわけですよ。あるにしてもね、この人間と人間がお互いそこで信じあって、支えあってですね、そこでちゃ―んとした当然の道理が通る、そういう世の中をですね、求めなはったんですよ。世の中ってのはおかしいけど。そういう生き方を求めなはったわけです、チッソに対して。「どうしてあんたたちはそれができんとかい」って、「ああたたちはどうしてそれが言えんとかな」って、こう言ったんですよ。これを聞きたくてしょうがなかった。ついに聞けなかったわけですけどねえ(同上, 230-231頁)。

  

 ここに渡辺京二(僕との年齢の隔たりのせいか、なぜか彼をこう呼んでしまう)が求める世界観があらわれている。「人と人とをつなぐもの」。星の王子様が「なつける」と言って表現したものを、渡辺は「義理と人情」と言い換える。国家間の戦争に巻き込まれ、水俣病闘争で企業と戦った先に見えたもの。そのように生きてこられたのは、地域共同体のつながりがあったからだと渡辺はいう。

 

 地域社会の具体的な生活にもとづく人々のつながりをまなざすという渡辺京二の姿勢は、菅家博昭さんの思想と重なる。菅家博昭さんがイヌワシ保護活動の先に見据えたものこそが、三島町にある奥会津書房の遠藤由美子さんと共に主催した会津学研究会の発足と、『会津学』の発刊であった。

 

 久島桃代さんが行ったインタビューによれば、遠藤さんには「話者や執筆者の生活の中に今後の会津で生きていくためのヒントが隠されているはずだ、という強い信念がある。そして、人々の生活や生き方を話者の語りを忠実に記録しようとする『会津学』は、次の世代が会津で生活していくための手引書であるとE氏は語る。『会津学』が残そうとしていることの中には、それが何の役に立つものなのか、現状では作り手である自分たちにもはっきりと分からないものもある。しかしそうした「路傍の石」を10冊の『会津学』として積み上げていけば、後にこれを読んだ誰かがその意味を見つけてくれるのではないか、という期待がある」とされる(久島桃代「自地域学『会津学』の活動とその理念」『季刊地理学』62(3),  2010年, 135頁)。

 

 また、菅家さんは「奥会津の山奥にある集落を維持していく仕組みは、先祖から伝えられてきた、日常の家庭や集落での営みのなかにこそあるとK氏は考えている。そこでK氏が採用したのが、地域をより広い視野でとらえながら生活している地域住民の言葉を、出来るだけ多く正確に記録する聞き書きという方法である。K氏の『記憶の森を歩く』は、会津の山間に暮らす人々から、地図には示されないが地域の人々に共有されている地名(呼称)を聞き出す試みである。地名がつけられた場所に込められた人々の記憶を掘り起こし、人びとが集落を維持するための仕組みを暮らしの中から明らかにしようとしている」とされる(同上)。

 

  菅家さんは自身の経験を次のように総括する。

 

 私は一九九〇年代、三十歳になったときに一人子どもができたのですが、生まれた子どもの将来を考えたときに、できるだけ村の森にあるブナとか猛禽類クマタカとかイヌワシとかを残そうと思って十年ぐらい活動したのですが、そのときやった仕事の意味はなんだったかと今考えると、「地域の財産目録を作る」ということだったんだと思います。

 私たちの暮らしている村にはこういう樹がある、こういう草がある、こういう動物がいるということを表現して、だからあまり暴力的な開発はしないでほしいということを表現しました。ところが、財産目録はできたんですが、それだけでは欠けている。いま思うのは、『からむしを育む民具たち』のような仕事をしなくてはいけないんです。

 たとえばブナの樹の物語を集める、ヒロロという草の物語を集める。物語という形をとらないと、小さな子どもたちには理解しがたく、たぶん次の世代に残せないと思うんですね。報告書は物語の基礎になるものだと思うんですが、もっと噛み砕いた物語を、語り回調でまとめて伝えるとうまくそのことが残るんじゃないかなと思うんですね。

 私たちが『会津学』でやっていることは、語り言葉で伝えてきたことを引き受けるということをまず第一にやるんですが、たとえば蓑の話を聞きに行ったとします。はじめの十分位はその話なんですが、後は自分の語りたいことを語るんです。それを大切に受け止めます(会津学研究会『会津学』Vol.5, 奥会津書房, 2009年, 43-44頁)。

  

 このような活動を経て、菅家さんは2018年に『イヌワシ保護一千日の記録』以来、約20年ぶりの単著を著した。その本の「はじめに」は、「なつかしい20世紀と、原発事故を経た21世紀の社会環境はかなり異なるものとなっている。人間が管理できない巨大技術よりも、適正規模で、身の丈にあった暮らしの基本に戻ること、つまり『小さな暮らし』が社会の価値・文化になりつつある」として、時代の変遷を捉えている(菅家博昭『地域資源を活かす 生活工芸双書 苧(からむし)』農山漁村文化協会, 2018年, 1頁)。そして自らの知見を次世代へと残すために、次のような提案を行っている。

 

 生活のために行なう仕事、仕事としてのモノづくりの時代が縮小し、趣味としてのモノづくり、自分のためのモノづくりの時代を迎えていると考えたとき、私は地域のなかでの生活につながる事例調査の提案をしたい。

 私のいう事例調査とは、その土地に自生している植物素材の取得、あるいは田畑・原野・山地で栽培した作物の収穫を経て、一次加工する際に、そこで行なわれた事例を調査することである。それぞれの地域の歴史民俗資料館・博物館などには、加工具(民具)が収蔵されている。その実物を実測作図し、持ち主によって使い込まれた痕を観察し、使用経験者を探し、聞き取り調査を行なう。その際、道具の素材の取得時期、加工の仕方、禁忌、伝承などもできるだけ土地の言葉で聞き取り、記録する。不明な場合はカタカナ表記でよい。

 作業手順についても同様に調査する。これは現在まで日本国内ではほとんど行なわれていない。とくに、産業化する以前の手仕事の時代のことを詳細に聞き取ることが求められる。まだ時間はたっぷりあり、経験者も各地に多く生存している(同上, 2頁)。

  

 菅家さんの思想はどこまでも伝承への真摯さがある。自分が偶然に生まれ育った土地は、先人が人為をもって切り開いていった土地なのであり、それと同時に大地の自然から借り受けたものである。だからこそ、当代の身勝手な人間の開発の論理や、「現実のリアリティー」という言い訳によってこれらの土地を破壊されることには我慢がならない。そして、自分が受け取ったものは次の世代へと託さなければならない。そのために、人と土地の結びつきが希薄となった近現代の世界において、もう一度人間がその土地に住まう意味、その土地と人間が築いてきた過去、自然において生きていくことの意味を掘り起こしているのである。その成果が、菅家博昭『別冊会津学Vol. 1 暮らしと繊維植物』(会津学研究会/奥会津書房, 2018年)にまとめられている。

 

 小松理虔さんにとって、『新復興論』を書いた意味とはいかなることだったのだろうか。渡辺京二と菅家博昭さんに比べればまだ年齢が若い小松さんにとっては、自分の経験を総括するための時間がまだ必要なのだろう。だが、地域において個人が主体的に動くことの意義については次のような確信を抱いている。

 

 私がわかりやすさを文章に求めるのには、もう一つ理由がある。わかる人にしかわからないような文章を書いたところで世の中が変わらないからだ。地方都市というのは得てしてコミュニティに流動性がない。これまで力を持ってきた人たちが、今も未来も変わらず力を持ち続けるというような構造がある。ローカルメディアには、この「変わらなさ」をかき回す役割があると私は感じている。既存のコミュニティからは漏れてしまうようなマイノリティをすくい上げ、新しいコミュニティをつくり、担い手を育てていくべきだ。そのためには、尖ったテーマを、わかりやすい文章で書く必要があると思う(小松理虔「文章術と心構え――誰かではなく『私』が書く」影山裕樹編『ローカルメディアの仕事術――人と地域をつなぐ8つのメソッド』学芸出版社, 2018年, 151頁)。

 

 菅家さんが、子どもが話を理解するためには平易な「物語」が必要であると述べたように、小松さんも「わかりやすい文章」の重要性を指摘する。しかしそのうえで、小題に「『私』が書く」とあるように、誰でもない自分自身が動き回ることによって、結果的に地域の中に循環が生まれることを例証している。だからこそ、他の人々に向けて「徹底して現場に肉薄し、人と人とをつなげ、地域の文化や歴史にアクセスしながら、アクティビストとして発信していって欲しい」(同上, 154-155頁)と提案する。

 

 僕は、小松さんに二度直接対面したことがある。一度目は2017年12月10日にいわき市小名浜にあるさんけい魚店で開かれた「さかなのば」というイベントに参加したときのことだった。以前からブログやWebの記事を読んでおり、その作者に会いに行くことは、人見知りの僕にとっては死ぬほど緊張したし、お酒を何杯も飲まないと話しかけに行けなかったことをよく覚えている。そのときの感想を自分のブログに書いた。

 

 ようやく声をかけることに成功し、お話をさせていただきました。理虔さんはまず自分が動くということを心がけていらっしゃるようで、何もないところに何かを生み出し育む、ということを続けたいとおっしゃっていました。その意味では一つの場所にこだわるのではなく(もちろんご家族の都合もあるので完全に自由になれるわけではない)、新しい場所に飛び込んでいきたい、というお考えであるようです。それは、場を立ち上げた自分がやがて地元の権威になってしまい、せっかく開いた場所が再び閉じてしまうことを懸念されているようでもありました。

 あぁ、世の中はこのような人によって動いているのだと思いました。地域をかきまぜ、場所を、人を外に開かせる。そうしなければ固定化した価値観のもとで地域は衰退にはっきりと向かってしまう。地方を転々として生活してきたわたしにも思い当たることが多々あります。

 動く、というのはとても大事なことです。身体を動かして、自分の視界を別の場所に、別の方角に向ける。見たことがない景色を見る。右に行ったことがなければ、左には行けない。下に行ったことがなければ、上には行けない。

 イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。

 魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。

http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/143423?_ga=2.114169927.1538336736.1553558485-1100865628.1550105425

 

 二度目は、2018年9月21日に郡山市のSHOKU SHOKU FUKUSHIMAで行われた「『新復興論』出版記念 小松理虔さんといわきの旨い魚と酒を楽しもうナイト」というイベントの場であった。また一人で不安になりながら『新復興論』を片手におそるおそるお店のドアを開けると、本に付箋を貼りまくったせいか、小松さんと以前よりもじっくりお話することができた。このとき僕が抱いた印象は、小松さんが本で書いたことは、ある意味ではそうであってほしいという希望であり、それこそ「現実のリアリティー」とはこんなにも地域で活動する人を脅かしてしまうのか、というものだった。『新復興論』を書くことによって小松さんにもたらされた日々の苦悩が、小松さんを仏教の教えへと導いていた。また、自分の限界と役割を非常に自覚しており、自分は次世代のための捨石になれれば本望だ、という主旨のことを語られた。

 

 あのとき特別だったもの。いや、自分の意志とは関係なく特別にされてしまったもの。大連からの引揚げ、水俣病闘争、博士山リゾート開発反対運動、イヌワシ保護運動、そして東日本大震災。これらの出来事が渡辺京二や菅家博昭、小松理虔を「個人」たらしめた。平穏無事に生きていれば、いつまでも匿名の集合体の中で、健やかに、波風立てることなく暮らしていけたのかもしれない。けれども、僕達はきちんと認識しないだけで、災害が、テロが、貧困が、戦争が起きている「世界」の中で今日も暮らしている。これらの著者達が書いたそれぞれの特別を僕達読者はなぞるように少しずつ読み込んでいき、比較をし、自分の経験に照らし合わせる。そしてコーヒーやお酒を飲みながら、思ったことを語り、自らもまた文章を書いていく。そうして、僕達の中にも特別が生まれる。だから、人は、あのとき特別だったものを経て、その先にあるものを望んでいる。

 

 いわゆる『星の王子様』と呼ばれる作品の青空文庫版の翻訳を行った大久保ゆうは、タイトルを『あのときの王子くん』にしている。その意図は、原題のLe petit princeにおける定冠詞、Leをどのように訳するかにあらわれる。unや aなどの不定冠詞が名詞につく場合は原則的には「そのものが世の中にたくさんあって、そのどれでもいいからひとつを取り出したいとき」である。かといってLeの固有性を重視しすぎると、それはthe Earthのような普遍性を示すだけで、個人の具体的経験を軽んじてしまう。

 

 ゆえに、大久保は「この "petit prince" に定冠詞がつくだけの関係が、操縦士と少年の間にあります。少年が星にいたから、操縦士にとって大事になったわけではありません。6年前、あるひとりの小さな王子が操縦士の前に現れ、その少年と操縦士はしばらく時をともに過ごします。つまり、操縦士は少年のために時間をなくすのです。そして、ふたりは絆を作ります。だからこそ、6年後の操縦士は、その少年に定冠詞を付けることができますし、付けなければなりません」という(前掲, 『あのときの王子くん』)。ありふれたものが特別なものに変わっていくための共有された時間こそが、われわれを不特定多数の誰かから、固有の名前をもった個人の付き合いへと変えていくのである。

 

 語り手にとって、〈星の王子さま〉だから大切なのでなく、6年前のサハラ砂漠に下りたとき、〈あのとき〉に出会って一緒に過ごしたからこそ、少年はかけがえのない存在なのです。そのほかのどのときに出会えたかもしれない王子くんではなく、〈あのとき〉の王子くんが大事なのです。だから童話のように超越した時間を話すのではなく、追憶の話として、個人的な体験の話として語られます。

 そして、語り手から〈あのとき〉が語られると同時に、読み手はそれを追体験し、操縦士と同じようにその少年と関わりを持ちます。本を読む行為によって時間をなくし、そのために少年が大切なものとなることもあるでしょう。そして、王子くんというのは、ほかの誰が読んだときでもなく、自分がこの本を読んだ〈あのとき〉の王子くんとなるはずです(同上)。 

 

 ここに、本を読むことの、だれかと読むことの、そしてそれを書いた作者について考えることの思想があらわれている。そして、その先にあるものとして行ったのが、僕達が書いた書評だと思う。願わくばこの読者の想いが作者に伝わりますように。

 

 

読書会 トーマス・クーン, 中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房, 1971年(原書は1962年出版)

 

 各自の報告を松崎なりにまとめると、本書評のテーマは「パラダイム――下から見るし、横からも見る――」ということになる。つまり、報告者はクーンのパラダイム論を、クーンに足りてない事柄およびそれぞれの視点と素材に基づき論じなおし、より広い枠組みで捉えたうえで、「政治的なもの科学技術」との関連を考察したのであった。

 

 田中報告は、クーンと同時代に科学史を研究したジョルジュ・カンギレム『反射概念の形成』(1955)の議論を参照し、クーンの科学革命論を批判的に検証した。その際提出した論点は、生気論と機械論の対立という視点であり、そこから「生命にのみ備わり生命たらしめている特別な原理が存在すると想定するか、それとも生命活動も物質や電気信号に最終的には還元できると考えるか」という問いを喚起した。この問いは自然を観察する主体としての人間が肉体の内部・機能にもつ自然と人工の不可思議な結びつきに着目することによって、クーンが素朴に区分してみせた自然と科学の関係へ再考を促した。

 

コペルニクスケプラーガリレイらは、天体運動論から人間中心主義を追放したが、その人間中心主義は人間の運動論に存続したのである…運動の生理学でのコペルニクス的転回、それは脳と感覚・運動中枢という二つの概念の分離、離心的な中心の発見、そして反射概念の形成の際に起こった」(カンギレム『反射概念の形成』pp.150-151.)。

 

 咳やくしゃみ、瞳孔の大きさの変化、熱いものに触れて手を引っ込めること、こうした反射概念は、人間の身体を「このスイッチでここが動く」というように機械として説明する機械論を形勢する。カンギレムが挑むのは、反射概念の発見者として顕彰されてきたルネ・デカルトの神話であった。

 

 カンギレムがデカルトの代わりに紹介するのは、イングランドの解剖学者で化学者のトマス・ウィリス(1621-1675)である。デカルトと同じく心身問題を解決しながら身体運動を説明するためにウィリスも「動物精気(spiritus/esprit)」の概念を用いる。しかし、デカルトが「精気が充満した風船」のような筋肉が縦横に拡張/収縮することで関節や器官を動かすという説明をするのに対し、ウィリスは次のような説明をなす。

 

 ウィリスにとって、動物精気は現実化されるのを待っている一つの可能態である。それは不意に生起する精気だ。一瞬ほんの一条の光が差したかと思うと、精気は突然爆発する…神経内の間隙を埋める液汁に把持され運ばれてゆく精気は、肉体の抹消器官を浸している動脈血の中に自らの活性や運動能の増援剤を見つけだす…それから、大砲用火薬に似たその起爆性の混合物に点火が成され、火薬のような爆発が生ずる。収縮並びに運動を引き起こすのはこの筋肉内の爆発である」(同上、pp.76-77.)。

 

 カンギレムは「ウィリスが何か説明をするために比喩を用いるとき、その比較の典拠とされるものはほとんどの場合火器である」(同上、p.77.)ことに気がつく。つまり、ウィリスが精気を火薬の火花や光のイメージで捉えそれを貫徹したがゆえに、それが瞬間的に神経情報を伝播させ、そして跳ね返る(反射する)ものとして想像することができたのだ。この背景には彼の師であるヤン・ヴァン・ヘルモント(ネーデルラントの化学者、花火製造技師で「ガス」の概念を確立した)との系譜関係があり、またより広くは15世紀以降の火器技術の普及があったはずである。ここに、ある科学的説明をなす際に参照するものはクーンが唱える科学者集団のパラダイムというよりも、より偶発的で広範な人間関係、あるいは何かしらの出来事にもとづく社会的イメージの共有からなるパラダイムがあるのではないか、という視座が導かれる。

 

 田中は、「ガリレオは振子の観測を、アリストテレスは落下物体の観測を、ミュッセンブルークは電荷を充した瓶の観測を、フランクリンは蓄電器の観測を解釈した。しかし、このような解釈のどれもがパラダイムを前提としているのである」(『科学革命の構造』p.138.)という言葉を引きながら、次のような問いを提出する。

 

解釈を形作るのは常に「パラダイムを前提として」であると本当に言えるのだろうか?ここではむしろ、ある現象が力学の対象なのか化学の対象なのか、学問分野の境界線をどのように設定するのかが問題になっているのだが、クーンとしてはこれを科学の前段階に位置する事例と考えるのだろうか?

 

 科学者集団のパラダイムを決定するパラダイム、すなわち「社会的パラダイム」とでも呼ぶべき諸範囲・区分の決定を規定するものとは何か、が問われている。ここから、「実験科学というそれ自体一つの技術であるような科学が、生政治という『パラダイム』の出現においてイメージの源として果たした役割を考察することも可能なのではないだろうか」と田中はまとめる。

 

 このような田中のクーン的なパラダイムへの疑義を、黒岩報告も共有する。黒岩のまとめは、そのままクーンの内容説明と批判になっている。

 

パラダイムという概念を一般的に普及させた当のクーンの議論では、「パラダイム」という語が指すものは――こう言ってよければ――パラダイムではなかったのだ。クーンの言う意味でのパラダイムは、たとえばフーコーが使うような意味でのパラダイムとは、名の同一性と本当にささやかな内容の類似性以外は、全く関係のないものである。クーンは、「通常科学」、すなわち、ある少数の学者集団内で共有されているさまざまな事象の確認と判定と結論の枠組みとして、他の箇所ではさらに限定して科学者に理解と説明の枠組みを与えるある一定の具体的なモデル業績として、パラダイムという語を使っている。そして、その通常科学の内部において、徐々に変則性の発見が蓄積されていき、その量的蓄積がある段階に達すると、「科学革命」と彼が呼ぶものが生じると考えている。そうして、その革命の結果生じるのは、何ということはない、再びまた別の「通常科学」というわけである。

 

 上記のクーンへの批判を念頭に、黒岩は科学が対象とする「自然」とはそもそもどのように考えられてきたのか、あるいは「自然」を思考するときに対置される「社会」とはどのように考えられてきたのか、そして自然と社会の関係はどのように互いが互いを定義しあいながら形成されてきたのかをホッブズ、ルソー、ヘーゲルダーウィンマルクスルカーチなどの思想にそって歴史的に論じてみせた。先に田中が提示した「社会的パラダイム」という概念もまた、自然の定義との対応の中で定義されるものと捉える必要がある。

 

 例えば、黒岩はマルクスの次の言葉を紹介する。

 

ダーウィンが、分業や競争や新市場の開拓や《諸発明》やマルサス的《生存競争》を伴う彼のイギリス社会を、動植物界のなかでも再認識しているということは、注目に値する。それは、ホッブズの言う《万人の万人にたいする戦いbellum omnium contra omnes》だ。そして、それは『現象学』のなかのヘーゲルを思い出させる。そこではブルジョワ社会が《精神的な動物界》として現われ、他方、ダーウィンでは動物界がブルジョワ社会として現われるのだ(『エンゲルス宛書簡』, 1862)。

 

 既述の田中があげたウィリスの「動物精気」の発想は常に火器のイメージを伴っているとされた。ここではダーウィンも同様に動植物界を再認識する際に人間社会で行われる諸種の活動や制度を参照していることが、マルクスによって論じられている。つまり、人間が自然を対象化する際には認識者を取り巻く社会制度が参照されることを示している。では、その社会とは何かを定義するためには、自然との関係を論じる必要がある。ルソーが自然と比較して「社会への堕落」を論じ、ヘーゲルが「第二の自然」を提唱し、ルカーチは「第二の自然」を自然と見なされるまで凝り固まった因習として捉えたように。このことによって、人間の自然・社会・科学の観念もまた歴史的な変化を遂げてきたことが明らかとなる。このとき、「歴史的パラダイム」とでも呼ぶべき視座が導かれる。

 

 自然と歴史とはそもそも対立するものとして捉えられてきた。大地や天空など不変をシンボルとする自然と、人間生活の移ろいやすさに代表される歴史の観念を念頭におけば、想像にかたくない。しかし、黒岩はそのような自然と歴史の関係を踏まえたうえで、その宥和を目指したベンヤミンアドルノルカーチの思想を紹介する。

 

 ルカーチは「歴史が自然として/自然が歴史として把握される瞬間」に接近し、ベンヤミンは歴史と自然がともに克服可能なものとして現れる契機としての「変移」という概念を打ちたてた。

 

悲劇とともに歴史が舞台に登場するとき、歴史は文字として現れる。自然のかんばせには、変移の象形文字で〈歴史〉と記されている。悲劇によって舞台にのせられる自然-歴史のアレゴリッシュなかんばせは、廃虚としてありありと現前しているのである。(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

 

 このような黒岩の自然と歴史の対立と宥和への姿勢は、クーンが唱える変調としての革命――それはいずれは元の木阿弥に戻るだろう(通常科学)という予期からなる――とは異なり、真理の到来可能性の場が訪れるかもしれないという意味での革命を提起する。すなわち、「私たちは、むしろ科学革命を、あらたな通常科学のはじまりではなく、真理が到来するときとして、すなわち、そのようにして〈科学〉という概念すらもついに完全に止揚されるような瞬間として、想い描くこともできるのではないか」と。このときわれわれが目の当たりにするかもしれない、それはそれは美しい眺めを、ベンヤミンは次のように描写してみせた。

 

……経験的なものは、それが極端なものとしてより精確に識別できるものであればあるほど、それだけ深く、その核心に迫りうるものとなる。概念は、この極端なものに由来する。ちょうど、母の身近にいるという感情から子供たちが母のまわりに輪を作るときにはじめて、母は、傍目にもはっきりとそれと分かるほど溌剌と生きはじめるのと同じように、それぞれの理念も、そのまわりに極端なものが集まってくるときにはじめて、明確な輪郭を示す(同上)。

 

 この光景は理念として描かれたものである。だが、実際に人間社会の中で革命や真理を期待するような場面がたびたび現われたのもまた事実である。その一つが、1960年代という時空間ではなかったか。松崎報告が着目したのは『科学革命の構造』が出版された1960年代の世界情勢であり、当時の「社会的パラダイム」の内実を検証した。

 

 ビートルズが好きな人なら、彼らがまさに「レヴォリューション」を1968年に歌い上げたことをご存知であるだろう。

 

You say you want a revolution

Well you know

We all want to change the world

 

 

 しかし、このような革命への期待と唱和こそが、当時の社会的危機を逆説的にあらわしているといって良い。クーンは「革新的理論は、危機に対する直接の反応として現われる」、「そして危機感がない時には、このような予測は無視されていたのである」として科学革命を導くのは通常科学の危機であると書いている(『科学革命の構造』, 84頁)。だが、パラダイムパラダイムを考えるのであれば、当時の科学がもたらした危機が広範に共有されていたからこそ、1960年代前後に多くの思想家が科学に関する著作を連ねたのであると理解する必要がある。

 

 例えば、ハンナ・アレントの『人間の条件』(原著は1958年出版)の冒頭一文は次の通りである。

 

 一九五七年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた(ハンナ・アレント『人間の条件』 筑摩書房, 1994年, 457頁)。

 

 

 アレントは衛星ロケットの打ち上げから、人間の世界疎外という考察を導き出した。彼女が危惧する事態とは、「近代テクノロジーの起源は、このような道具の進化にあるのではない。むしろその起源は、もっぱら無用の知識を求めるという完全に非実践的な探求にあるのである」という人間の科学技術に対する姿勢である(同上, 457頁)。それは、クーンが述べる「パラダイム、またはパラダイム候補のない所では、ある専門の発展に役立ち得るすべての事実は、同じように大切であるように見える。その結果、学問の発展が一定のコースに乗った所と違って、まだ初歩的な事実を無茶苦茶に集める活動が行なわれる。さらに一定の型の、より本質的な情報を求める理由が存在しないものだから、初期の事実蒐集は、普通手近に手に入るデータに限られる」(『科学革命の構造』, 18-19頁)という科学者の無反省な手法そのものを批判しているのだ。

 

 初代ゴジラの映画(1954年)が示すのは、科学が目的なく生み出したモノをどのように処理するか、というきわめて困難な「政治」的課題である。原爆や水爆実験、核ミサイルといった存在を省みれば、生まれてしまったモノがもたらす無視できない破壊・破滅・混乱への危機感が強くあらわれている。

 

 ゴジラ製作の東宝プロデューサーである田中友幸は次のように述べている。

 

水爆実験で、恐竜が太平洋のどこかで眠っていた、それが東京を襲う、その寓意としては、人間が造り上げた水爆という文明の利器により、また人間が作った東京というような大都市、つまり人間が人間のために復習されるという理念(川崎市岡本太郎美術館ゴジラの時代』六耀社, 2004年, 8頁)。

 

 放射線の問題は、半減期にかかる10万年という歳月を大地に埋め込む。放射線と10万年共にある世界とは、黒岩が述べたように人間の営みがすでに自然となってあらわれてくる世界である。1945年以降の自然とはそのようにしてある。

 

 こうした終末的世界観は、スタンリー・キューブリック監督映画の『2001年宇宙の旅』でも踏襲されている。

 

人類は、じつは神ならぬ地球外知性体によってもたらされた石板状の教育装置の力で、四〇〇万年前(小説版では三〇〇万年前)に猿人だった時代より密かに誘導されてきた。やがて二一世紀を迎え、同じ異星人が同じく四〇〇万年前に月に残した目印、すなわちもうひとつのモノリスが掘り出され、太陽の光を浴びた瞬間に発した電波エネルギーの飛跡をたどり、土星(映画では木星)をめざすべく巨大宇宙探査船ディスカバリー号が送り出されるも、あいにく船体を統御するスーパー・コンピュータHAL9000の発狂という異常事態が発生。そして、まさしくその結果、人類の代表者デイヴィッド・ボーマン船長は、土星木星)をめぐる巨大なるいまひとつのモノリス、すなわちスター・ゲートヘ呼び込まれ、彼は時空間を超えていよいよ超人類として生まれ変わり、かくして大団円では、巨大なるスター・チャイルドが核武装された地球を見下ろすように虚空に浮かぶ。(巽孝之『『2001年宇宙の旅』講義』, 平凡社, 2001年, 14頁)。

 

 ところで、人はなぜ危機を感じることができるのだろうか。もちろん、それは想像力の問題でもあるだろう。だが、多数の地域で多数の人々がある危機への想像を「肌身に感じる」ためには、身体への働きかけが重要となるのではないか。クーンが唱えた「通常科学の危機」は生身の科学者が実験器具を用いて実験を繰り返すことによって気づかれるものであった。科学と身体を結びつけるもの、それが「技術」(テクノロジー)という視座である。マルセル・モースは身体技法について次のように述べる。

 

道具を用いる技法に先立って、ありとあらゆる身体技法がある。わたくしは心理‐社会学分類学の仕事なる、この種の作業の重要性を誇張するつもりはない。しかし、それは無視できない事柄ではある。なにひとつとして秩序のなかった諸観念の真っただ中に、秩序がもち込まれたのである。諸事実を配置する場合にも、原則に基づく正確な分類がその内部で可能となった。この物理的、機械的、化学的目的への不断の適応(たとえば、われわれが飲むときの)は、一連の整備された行為、それも、個人にあってはみずからによってのみならず、その受けた一切の教育、彼みずからが属する社会全体をとおし、その社会で占める位置において、整備された行為のなかで追求されるのである(M・モース, 有地亨, 山口俊夫訳『社会学と人類学Ⅱ』弘文堂, 1976, 133頁)。

 

 映画館に行って座席に座り、音響を聞きながらスクリーンをまなざす行為とは、どこまでも身体的活動であり、さらに複数の人間が共通の空間に身を置く共時的体験でもある。キューブリックは『2001年』の演出に関して、「わたしが狙ったのは視覚的体験だ。言葉で整理することを避けて、潜在意識に直接突き刺さるエモーショナルで哲学的な映画だ」と非常に意図的であった。この技法を執り行うためには、1952年の『これがシネラマ』に代表される、「観客を巨大スクリーンで包囲するシネラマは、現在のアイマックスのような体感映像システム」装置を要したことはいうまでもない(町山智浩『<映画の見方>がわかる本』洋泉社, 2002年, 19-20頁)。

 

 科学が無目的にやっかいなものを生み出してしまうこと、それは目的論的世界観から機械論的世界観への一つの移行を示している。だが、科学が無目的に不特定多数の人間に働きかけることは、それ自体が危機の象徴であると同時に、危機に対処するための、あるいは危機に反応して革命を起こすための人々を身体的に動員する契機ともなりえる。

 

 ボブ・ディランが1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでフォークギターからエレキギターに持ち替えたことの意義をもう一度捉えたい。

 

ロックンロールを商業主義に侵された悪魔の音楽と見なしていたフォーク・ファンからは、激しいブーイングが巻き起こり、ディランは途中で演奏を切り上げることを余儀なくされた。しかし、そのときこそ、ロックンロールの野性とフォークの知性が融合して、新しい音楽ロック・ミュージックが誕生した瞬間であった。ディランは、ロックンロールに新しい機知と言語運用能力を持ち込み、同時にフォークに電気増幅に伴う直接性をもたらした。このようにして、ティーンエイジャーと大学生の音楽市場を力ずくで接続したディランは、インテリもエレキギターを手にする新たなる音楽シーンを創造したのであった(福屋利信「ボブ・ディランと対抗文化」『英語と英米文学』 (45), 2010年, 90頁)。

 

 既存の身体技法にそぐわない体験をすることは、諸種の「驚異」によって一種の停滞・白紙状態を生み出す。ロック・フェスティバルの場に身をおいて起きたことを言語化することは難しい。映画館で『2001年宇宙の旅』を見た直後に誰かその内容をすぐさま説明できるだろうか。現在の空白を説明するためには、過去が必要となる。『2001年』は未来のビジョンのみならず、人類の歴史を新た形式(モノリスというキューブに魅せられる人類)で語ってみせた。過去と未来が交錯する時間と場所。エイリアンな体験こそが、パラダイムの変革のきっかけとなる。危機と驚異を身体的に察知した人々こそが、革命を起こすのである。

 

 伊藤報告は、科学における非目的性を強調した松崎とは対照的に、科学に目的を授与することにまつわる科学者集団内の政治性を重視した。さらにこれまでの論旨をふまえれば、クーンのパラダイム論が現代どのように扱われているかを例証するものでもある。ハリー・コリンズはクーンの科学革命への思考を現在、次のように説明している。

 

もし科学革命の経過の中で、科学者が世界について考える仕方が変わり、それによって、世界が変化するとしたら、そのとき、世界は固定した基準ではなくなってしまう。世界は、もはや、すべての理論形成の基盤ではないのである。もし、科学者が異なった考え方で世界を考えたときに、世界そのものが変化するならば、何が真とみなされるかが、科学者の生きる場所や時代によって変わるだけではなく、何が真であるかも、科学者の生きる場所や時代によって変わることになる(ハリー・コリンズ『われわれみんなが科学の専門家なのか?』法政大学出版局, 2017年, p.35-6)。

 

 コリンズはクーンのパラダイムの変動性に注目して論旨をうち立てていると言って良いだろう。では、このような変動の契機を科学者の行為に即して捉えると、どのような事態が想定されるのだろうか。

 

 伊藤・徳安は伊藤が主催した事前会、エヴァレット・カール・ドルマン『21世紀の戦争テクノロジー』(2016)の輪読において、「技術の流出」について論を進めている。科学者集団の内部で自閉している限り、クーンのパラダイム論や通常科学は変動してなお安定的だといえる。だが実際のところ、科学技術をだれが、どのように共有するかはすぐれて政治的な問題でもある。そして、「『どの技術は普及を認められ、どの技術は流出を防ぐか』という政治的な意思決定者(≒国家や資本家)の存在による権力の行使を無条件に追認することでもあるのではないか?」という問いを立てる。

 

 この問いから現代の科学の状況を考察すると、次のような仮説が生まれる。

 

中国で遺伝子操作した双子が生まれた。このことが含意する問題は非人道的であるとかいう話ではなくより本質的には、ヒトが「目的的に生まれる」という点にある。本来、生命というのは生まれた時点ではあらゆる可能性が無制限に与えられて生まれてきている。ところが、遺伝子操作で生まれた双子は生まれながらにして「遺伝子操作によって生まれた子はどうなるのか?」という命題を背負わされており、その命題に答えるという目的からは例え自ら死を選んだとしても逃れることができない(なぜなら、死を選ぶ、ということもまた「遺伝子操作によって生まれた子」の選んだ行動として結論づけられるからである)

このことが意味するのは、技術というものは「問いとそれに対する解」として規定されるといえるのではないか。別の言い方をすれば、技術の持つ暴力とは「問いとそれに対する解を規定する」という点に起因するのだろう。

 

 問いを立てているようで、実はそれは答えをあらかじめ用意している。このような視座は、ハンナ・アレントが現代の「人工的リアリティ」について描いてみせたことに不思議なほど重なる。つまり、「実際、今日人間の創造力は、かつて夢とか幻想の中で精いっぱい想像されたものをはるかに越えているだろう。しかし残念なことに、そのおかげで今ふたたび人間は、以前よりももっと強力に自分自身の精神の牢獄の中に閉じ込められ、人間自身が作り出したパターンの枠の中に閉じ込められているのである」と(前掲『人間の条件』, 455頁)。コリンズが唱えるように、もし万物の尺度を人間だけに求めるのであれば、このような事態が起きることは想像にかたくない。

 

 この「精神の牢獄」に対する伊藤・徳安の見解は、問いと答えの一元化された結びつきをずらしていくことだとされる。

 

だとすれば、我々が技術に対して持ちえる権利とは、「問いとそれに対する解」を読み直すということにこそ生じるといえる。つまり、水を入れ持ち運ぶという瓶を使って、発火させるという「火炎瓶」、あるいはこね混ぜて食べるという目的の小麦粉を使って、引き起こす「粉塵爆発」そうした事象に象徴されるような、問いと解を読み直すということが、抵抗の端緒となるのかもしれない。

 

 クーンのパラダイム論を安易に受け入れると、伊藤が指摘するように、「コリンズの議論の方向性は基本的にはクーンの提示したパラダイムの構造をより細分化して呈示しているにすぎず、パラダイムそのものを根拠づける理論的基礎についての検討がなされていない、ということに尽きる。このことは別の観点から捉えるならば、クーンのパラダイム論は、科学者集団の特殊な性質については明らかにしてはいるけれど、科学者と社会との接点については考察されていない」という問題に行き着く。だが、これまでの各報告者は、まさにクーンのパラダイム論を下(歴史的)から見たり、横(社会的)から見たり、はたまた上(現代的)から見たり、斜め(系譜的)から見て、考察してきた。

 

 田中報告はクーンと同時代のカンギレムの科学史を検討することで、「パラダイムパラダイム」が存在することを指摘し、黒岩報告はそこから「歴史的パラダイム」を、松崎は「社会的パラダイム」を描写してみせた。伊藤報告はクーンの「パラダイムのその後」について言及することで、クーンのパラダイム論を批判的に検討することの重要性を再び指摘したといえるだろう。以上が今期の群知堂の活動報告、「政治的なものと科学技術」をテーマに、各報告者が「パラダイム――下から見るし、横からも見る――」を試みた。これまでの叙述が、打ち上げ花火のように発火され、爆発し、光臨を降り注ぎ、やがて散って消えていくような情景を浮かび上がらせるものであれば良い。みなが、「人間火薬庫」でありますように。

 

山形市探訪記

思えば、今年度はいろいろな場所を訪れた。

5月に沖縄に行き、7月には九州を旅し、そして9月は東北を移動して回った。

20代の最後の年としては、なかなかに充実していたのではないか。

 

とはいえ、同年代の友人が社会人としてそれなりの月日を過ごし、マン・オブ・ザ・ワールド(世界の中心)で、この世の理不尽に耐えながら仕事を続ける姿を見ると、自分はこんなんで良いのかと思ったりもする。

 

それでも結局は、自分は自分、他人は他人、ということになる。

全ての選択のつけは自分に回ってくるのだが、それでもやり残したことを後悔して死ぬよりも良いのではと、思ってしまうのだ。これが若気の至りというのであれば、そうなのかもしれない。

 

瀬尾まいこの『見えない誰かと』(祥伝社、2009年)に次のような一文がある。

 

 二十六歳のときの一年間、私は学校での講師の仕事をせずに、一年間自由に過ごしていた。(52頁)

 

最初に読んだのがいつだったのかはもう忘れてしまったけれど、僕はこの本を読んだときに、二十代のどこかで何もしない一年間を作ろうと考えた。とはいえ、大学院を一度出たときにはすでに24歳になっていたから、たいした経験も苦労もしていない。

 

それでも、これまでの自分を一回総括して、三十代を過ごすための時間を設けることは、そんなに悪くないのでは、と思っていた。だから実行してみた。

そして、瀬尾まいこが「結局、『もう学校では働けないね』と話していた私たちは、今、二人そろって元の生活に戻っている。私は中学校で働き、彼女は幼稚園で働いている」(同上、55頁)と書いたように、僕もまた再び社会の中に溶け込む気になった。

 

それで良いのだ。人はみな自分の人生に納得したいだけなのだから。

 

それでもう、東北を旅行してから何ヶ月も過ぎてしまったけれど、ゆっくりと振り返りながら、思い出を書いていこう。やがてきたる苦しみの中で、でもあのときはけっこう楽しかったしな、と記憶を反芻して生きていけるように。

 

 

 

 

2018年9月11日火曜日。

 

用事のない旅行は準備の段階からしてすこぶる楽しい。

特に今回は、軽自動車にテントを積んで、ホテルや旅館の予約をすることもなく、日々気が向いたとおりに動き回るような、あてどもない旅である。沢木耕太郎の『深夜特急』に憧れていたときのことを思い出す。

 

朝、日差しを浴びながら、車のエンジンを回す。iPhoneをセットして、お気に入りのプレイリストを選ぶ。くるりの「奇跡」が流れる。

 

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実家近くの道路をゆるゆると走り抜けると、やがて国道4号線につながり、あとはひたすら山形市に向かって北上していく。

 

駐車場に車を止めて、山形美術館を訪れる。地方の私設美術館として始まった同館だが、著名な洋画のコレクションを所持している。

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山形新聞・山形交通グループの連合の提唱によって、山形美術館は1964年に創立している。

岡山県倉敷の大原美術館や、東京都のブリジストン美術館と同様に、企業が創設した私立美術館である。現在これらの私立美術館は多くの場合、公益財団法人の運営となっているが、黎明期は企業が社会に芸術という形で利益を還元しようとしていたことがわかる。

このブログで紹介したイギリスの国立美術館も基本的に同じ目的から始まっている。

 

山形美術館では、近隣の小中高学校などの作品展も行われており、地域の公共を担っていることがよく伝わる。

全体的に良い展示だった。売店で戦後ロシアに関する企画展のカタログを買う。

 

近くのビジネスホテルの1階にあったレストランで昼食をとり、午後からは霞城公園などの市内を散策して回る。

 

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山形県立博物館に行きたかったが、展示替のため休館だった。誠に残念。

 

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旧済生館本館。美しい。たしか元の場所から移動させたのだとか。

山形の医術史が展示されている。

 

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文翔館。閉館時間が迫っていたので、駆け足で中を見ていたが、山形の基本的な通史を学ぶにはうってつけの場所である。建物が美しい。初代山形県知事の三島通庸は鹿児島出身だが、山形に西洋建築物を建てて、維新の効用を目に見えるようにした。しかし建て過ぎな感じはする。

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米所であった庄内をもち、かつ特産品として苧や紅花を生産していた山形は、かなり裕福な県であったといえるだろう。しかし、米作を中心とする農業県は第一次世界大戦後の不況によって立ち行かなくなる。米が特権化された時代が終えたということになる。

 

そこで、開拓移民として北海道や満州、朝鮮、南洋群島への移民が積極的に行われるようになる。これは福島県も同様であり、南洋群島を調べた限りでは、東北では福島と山形が突出して移民を行っている。

僕の祖父は南洋群島テニアンで幼少期を過ごしているが、家の向かいに「ヤマガター」と呼んでいた山形からの移民家族が住んでいたことをはっきりと記憶している。

山形は良い。とても良い。

 

市内の散策を終えて、

管理人がいなかったので、テントサイトがどこだかよくわからなかった。

 

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事前にテントの張り方を父から教わっていたので、あまり苦労もなく設営が終わる。その後で近くの日帰り温泉に行き、スーパーで夕飯を買って食す。夜は少し寒い。寝袋の上に毛布をかけて寝た。

 

晩夏の旅の一日目が終わった。

 

 



 

ブログ再開

 

最後に記事を書いたのが9月ですね。

 

アクセス解析を見ていると、こんなきれぎれのブログにもちらほら訪問者がいることがわかります。ありがたいことです。

 

その間なにをしていたかというと、おもに東京の大学院に通って必要な単位を取るために授業を受けていました。ちょうど無職だったこともあり、時間のあるうちにゼミ以外の単位をとっておこうかと思いまして。ブログの副題の「福島県郡山より」は風と共に去りました。

 

そんで4年ぶり、というか博士課程にあがって初めて集中して学問に打ち込み、2本ほど投稿論文を書いていました。あらためて、論文を書くという行為は非人間的営みだと実感する次第であります。頭がおかしくなるので、もう書きたくないと思う一方で、自分の思考を書くのはくせになるんだよなぁ、と中毒者のようにも思っています。

 

そんで無事に授業のレポートを提出し、ゼミの報告も終え、投稿論文を一つ出し(もう一本は3月末〆切)、郡山に戻ってきたので、今まで学問に割いていた脳力をブログ更新に切り替えます。いや、論文書いているときにはたとえブログであろうと書くのは無理。体力的・脳力的に無理。まぁ、つまりは自分に力がないだけですが。

 

さて、大学関係以外にしていたことを、今後ブログに書いていくつもりです。

 

①東北探訪記

 

9月中旬に、福島からスタートして山形、秋田、青森、函館と軽自動車にテントを積んで旅行してました。特に意識はしてませんでしたが、結果的に戊辰戦争ルートかよ、と思うような行程でした。そこで訪れた博物館・美術館を中心に書く予定です。

 

京都大学吉田寮探訪記

 

昨年10月に取り壊し予定だった吉田寮に行き、4泊ほどしてきました。日本最古の自治寮とのことですが、その姿はまさに混沌。カオスの権化。よって最の高。現代日本が汚物や見たくないものを排して、きれーにすまーとになろうとした結果、のっぺりしてるのに威圧的で、他人をこきおろさないと気がすまない社会とは異なる空間が残っています。大学の姑息な圧力にも負けずに、今日も吉田寮の住人は住み続けることで抗っています。がんばれ吉田寮、負けるな吉田寮、そなたは美しい。

 

③書評 菅家博昭『イヌワシ保護一千日の記録 猛禽類保護実践と奥只見発電所増設事件』はる書房, 1997年

 

今年1月の読書会のテクストとして、表題の作品を読みました。菅家さんとは個人的な付き合いもあり、菅家さんが代表を務める会津学研究会に所属しているので、菅家さんの単著を中心に書評を書きます。菅家さんを含め、これまで読書会で読み、このブログでも扱った渡辺京二と小松理虔さんの著作を地方における生き方、社会問題への対応、歴史・自然への接近の仕方といった観点から読み解き、関係づけ、現代史の中に位置づけることをしてみます。読書会のメンバーで臨みます。

 

④研究ノート「政治的なものと科学技術」

テクスト:トーマス・クーン, 中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房, 1971年

 

こちらは大学院の友人との読書会で書く予定のノートになります。『科学革命の構造』という課題本をもとに、科学技術と政治の関係について各自が論じます。私は課題本の原本が出た1960年代を中心に、当時の科学技術がもたらした政治への影響について、ハンナ・アレント『人間の条件』、スタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅』、初代ゴジラなどの作品と関連付けて、論じる予定です。

 

あれ、おかしいな。なんでせっかく大学院の授業が終わり、投稿論文もおおかた書き終わったのに、こんなにやることが残っているのだ?小生、南洋帰りの引揚史の研究も始めなければならないのだが。

 

とまぁ、性格的にだらだらすることはあっても、何もしないということはないので、結果的になんとなく予定があって忙しい感じで年度末を過ごすことになりそうです。

 

それに加えて、これから福島で就職活動をしないと貯金が無くなります。学芸員の仕事が望ましいと思っていたら、只見町のブナセンターで募集があったので、応募してみるかもしれません。遅くとも4月までには仕事を始めねば。

 

どなたが読んでくださっているかは存じ上げませんが、そんなつもりで書いていきます。では。

 

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書評 小松理虔『新復興論』ゲンロン叢書,2018

本を買いに出かけ、喫茶店で読む自分と著者の関係

 

 2018年9月7日。郡山は曇り。遅まきながら、小松理虔さんの『新復興論』(ゲンロン叢書, 2018年)を買いに行く。普段であればアマゾンなどの通販で書籍を買うが、この本はどうせ買うなら書店にまで足を伸ばして購入しようと思った。小松理虔さんは実践の人である。だからこそ、この本との関わりも自分の身体を伴って書店という空間に足を運び、店員さんから購入するほうが「筋」のように感じたからだ。

 

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 郡山市のうすいデパートの中にあるジュンク堂書店に行く。うすいにはほとんど訪れる機会がなかったので、この書店がこれほどまでに本を揃えているとは知らなかった。嬉しい驚きである。哲学/社会思想のコーナーに目当ての本があった。

 

 デパートを出て、ドン・モナミという居心地の良いジャズ喫茶に向かい、窓側の席でおいいしいカレーを食べた後に、コーヒーを飲みながら本を開き、ページをめくる。この時間も含めて読み終わるのに2、3日ほどかかった。自分にしては遅いほうである。読みやすい文章でありながら、文を支えている著者の経験の力強さに押された感じがした。その強さは、本を通じて確かに伝わった気がした。

 

 私にとって小松理虔さんは大事な存在である。福島に戻ることを意識してから、理虔さんの記事を読むことで、福島での生活に納得できるような気持ちになった。福島の生活をどうするかは、結局は自分が何を求め、どう動くかなのだな、と実感できた。当たり前のことかもしれない。それでも、その当たり前に納得するためには、他者の言葉が必要であり、その言葉を発信していたのが理虔さんだった。そのときの気持ちを次のように書いている。http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/132249?_ga=2.174324642.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 そういえば、ブログで記事を書こうと思ったきっかけの一つも、理虔さんが地方でライターになるには媒体に関わらず文章を書き続けたほうが良いといった趣旨の発言をしていたからかもしれない。

 

 

復興がもたらす喪失

 

 

「新復興論」という題名のとおり、本書は復興に関する新しい論旨を提示することを目的としている。では、既存の「復興」の何が問題であるかといえば、小松さんは次のように指摘する。

 

①復興助成が手段ではなく目的になるため、かえって助成金への依存体質ができあがること

助成金の受け手が時間に余裕のある高齢者になりやすいため、若者が疎外感を持ち、コンサル会社の企画に終始してしまい、衰退が進むこと

③「復興」のための工事や施設誘致が旧来の町並みや通りを破壊するため、文化的・歴史的景観が失われ、地域性の喪失につながっていること(40-41頁, 178頁参照)

 

 上の指摘の全てに通じる問題は、「復興」のもとに地域の自立性が失われていることである。経済は復興助成が続くまでの一時的なものであるにも関わらずそれに依存し、復興に関わる人々は互いに協力し合うよりも分断が目立ち、復興事業が地域の民俗・文化・歴史を破壊する。復興が物事を回復させ、興すのではなく、その逆になっていることで、福島で起きた災害・人災の被害への対応が、更なる被害を招くというやるせなさにつながっている。福島は今なお、いや、震災から数年が経ったからこそ、再び喪失の時を迎えているのだ。

 

 

当事者と外部

 

 

 具体的な問題を掘り下げてみよう。まず第一に、復興とは誰のためのものか。あるいは誰にとっての問題なのか。この問いは、福島の震災や原発の被害者は誰なのかということにもつながっている。難問である。だが、この難問がきちんと問われたことはあっただろうか。私自身は2011年の3月11日に横浜におり、その翌日には友人と避難もかねて関西に旅行していた。大阪の道頓堀の光景と首都圏の計画停電の光景が対照的であったことを覚えている。家族の一人は郡山で震災を経験し、もう一人は山形で経験した。震災から数年は父の収入が半減したが、私自身の生活にはあまり影響がなかった。けれども、父の状況から被災者のための学費の免除申請を申請し、受理された。私は被災者だろうか?

 

 肯定の側に立つにしろ、否定の側に立つにしろ、論理的にはどちら側にも立ててしまうし、立ってしまう。人は立場の立脚そのものへの思考をやめ(それは苦痛なのだ)、ある立場に自己を定位することで、自身の安定を保とうとする。その行為を私は否定できない。どれだけ多くの人びとが不安定であったのか、想像することもできない。けれども、その立場の違いから対立が生まれる。対立は分断となり、修復できない傷を生む。人々は「当事者」となることで、これまでとは違った人物になりうる。

 

 2018年2月15日に福島県立博物館で行われた館長講座「語りがたきものに触れて」において、静岡県NPO法人クリエィティブサポートレッツ理事長を務める久保田翠さんは、どこに住んでいようと「震災で傷つかなかった」人はいなかったと語った。原発への恐れや事故後の行政措置なども含めて、あるいはあの津波に流される映像を見て、大人であろうと子どもであろうと、日本人であろうと外国人であろうと、男であろうと女であろうと、本当にたくさんの人達が傷ついたのだ。私はちょうどフィリピンからのスタディツアーから戻って間もない時期に震災が起きたこともあり、現地で知り合った人々から心配するテクストを何通ももらい、そのときのやりとりをもとに彼らは復興支援金を集めるボランティア活動を行ってくれた。Pray for Japanの活動を今でも覚えている。

 

 復興が字義通りに過去のありようを回復し、現在あるいは未来を興すものでもあるならば、過去の人びとや未来の人びとをも視野に入れなければならない。過去の範囲はどれほどだろうか。歴史的な史跡や寺社などもまた復興の対象となるのであれば、現在からは途方もつかない過去の人びとや事物もまた復興しなければならないのだろうか。未来に対してはどうだろうか。放射性廃棄物を10万年後まで管理するという計画であるならば、10万年後の人びとに対しても復興の責任が生じることになる(251頁)。

 

 だからこそ、小松さんは「真の当事者」は存在しないと指摘する(50頁)。当事者を福島の「内と外」の論理で特定することはできないし、時間軸においても現代人だけを対象にすることもできない。あのとき何が起きたのか、どのような影響をもたらしたのかを知るためには、「すべての人が当事者だと捉えていかなければならない」(206頁)のだ。

 

 

バックヤード

 

 先に挙げた問題がなぜ理虔さんが住む小名浜では生じているのか。ある地域に暮らす人びとと復興の問題がどのように結びつくのか。これらを知るためのキーワードとして、理虔さんはいわき地方の「バックヤード」性を提示する。いわきは歴史的に見て、一次産業から二次産業、エネルギー供給など諸産業において、首都圏を支えるバックヤードとして機能してきたという。それは首都圏という中央に対して周辺の関係を築くということであり、押し付けられた役割をまっとうすることこそが矜持となるような心性(メンタリティ)を育んできたのである(32-33頁)。

 

 このような中央への依存体制は、歴史的な出来事の積み重なりの上に成立しており、ある部分においてはやむをえなかったところがある。しかし、制度は存続しつ続ける限りにおいて効力を発揮し、人びとはいつしか押し付けられた体制であったものを内面化し、むしろその構造に依存してしまうようになる。世代を重ねるごとに依存の心性は強力になり、制度だけではなく、人びとの心が首都圏との周辺関係に固執してしまう。逆にいえばその心性や体制からはみ出る人びとを更なる周辺に追いやり、自分達の思想だけを純化する外部なき「当事者集団」を作りあげる。復興の問題とは技術的・実際的な面だけではなく、それよりも深遠で不可解な人びとの「心」の問題でもある(320-321頁)。「敢えての依存」が「無意識の依存」にすり変わっていく、人間の精神のあり方をも復興の問題の遡上に載せなければならない。

 

 しかし復興において、このバックヤード性こそが武器になりえると小松さんは語る(113, 140頁)。バックヤードはもはや沈黙しない(本書が出版されたように)。押し付けられるだけの存在ではない。実際われわれの生活は様々なバックヤードに支えられている。それは文字通り支えられているのであって、依存しているのはむしろ中央の側である。復興の問題を「観光」として捉えることとは、バックヤードの闇に光を当てることであり、可視化されたバックヤードはもはや「NIMBY (ノット・イン・マイ・バックヤード)」となり、当事者に限らず全ての人びとが考えざるをえない課題となる。「わたし」だけの問題ではないし、「かれかのじょら」だけの問題でもない。「あなた」の問題でもあり、「われわれ」の問題でもあるのだ。このような指摘をすることで、問題を慣習化し、視界に入りながら考えないようにする態度に抵抗をし続ける。バックヤードの存在を積極的に提示することで、依存の心性の忘却に抗うのである(191頁)。

 

 

思想/ビジョン、文化の自己決定能力

 

 これまでの論旨において見出された共通の問題は、復興における思想/ビジョンの不在である(168-170頁)。あるいは問題への対処をめぐる細やかな配慮/想像力の欠如といっても良いかもしれない。復興がむしろ地域の破壊をもたらすこと、復興に関わる人間関係の多様性/多層性の無視、バックヤード的立場への依存。問題が複雑かつ広大であるからこそ、小手先の復興工事よりも、いったい何が起きて、どんな問題があって、それに関わっているのは誰で、こうでありたい未来の形とは何なのかということへの検討が重要であり、そのことを回避してきたつけがまわっている。もちろん、癒えない傷を抱えている人びとにとって、震災や復興を直視するには更なる時間を要するのかもしれない。生存のための環境をまず整えることも重要だったのだろう。だが、なればこそ、機械的スクラップアンドビルドではなく、トライアンドエラーの試行錯誤の上で復興の方向を模索するべきであったのかもしれない。人びとにあって、傷の深さも、その癒え方も一律ではない。土地や風土もまた一様ではない。それらを単純化してひとまとめにして「当事者」や「被災者」といったレッテルで覆うこともまた、更なる暴力となりうる。

 

 基本的で、遠回りのやり方が必要である。考えること、考えるための環境を整えること、先人の思想を考察すること。こことはどこで、いまとはいつなのか。人びとの「心」を問題として捉えるとき、抽象的な事柄への思考が必要となる。思考を通して改めて「自己」とはなんであり、「自分の地域」とはいかなる場所かを問い直す。それは同時に「他者」とは誰であり、「この世界」とはどんな場所かを問うことでもある。そのような遠回りの先に「自立」という視野が開けてくる。「自立」という思考形態を失うと、押し付けられたものを「自己」とみなし、隷属することを自然だと取り違えてしまう。ソクラテスデルフォイの神託、「汝自身を知れ」から哲学を始めたといわれるが、「自分」とは何かを探ることこそが、復興の一歩であるのかもしれない。こうした中で、理虔さんが小名浜という土地に見出した思想が、先の「バックヤード性」であったのだった。

 

 

実践と経験

 

 しかし、小松理虔さんは「当事者/外部」「バックヤード」「思想/ビジョン」といった発想を思索の上に積み重ねたわけではない。彼は自ら実践し、経験した事柄について想いをはせることによって、これらの着想を得ている。小松さんの肩書きには「ローカルアクティヴィスト」なるものがあるが、彼は行動する人であり、実践から思想を学ぶのである。首都圏から友人が来れば小名浜の日常的な空間を案内し、人びとがどのように日々の生活を営んでいるのか、小名浜という土地にはどのような歴史・文化・社会機構が埋め込まれているのかを紹介する。観光に焦点を当てながら、必ずしも観光地を巡るわけではなく、人びとの日常的営みを再考する「リアルツーリズム」を実践する(95頁)。

 

 私自身、2017年12月10日に小松さんやさんけい魚店という小名浜の魚屋さんが主催する「さかなのば」というイベントに参加している。そのとき次のような感想を残している。

 

イベントの途中で店主の方がお話をされました。イベントを開くことによって、これまで来なかった人がお店を訪れるようになった。さかなをおいしいと伝えてくれた、とおっしゃっていました。自分たちの住む場所、言い換えれば足元にだってまだ見たことのない景色が広がっています。普段は見ることがない魚の流通や加工を担う魚屋さんの営み。スーパーマーケットだけがわれわれの生活に関わっているわけではない。さんけい魚店のような魚屋さんがあるからこそ、わたしはお酒を片手に、さかなを箸でつかむことができる。

魚屋という場所から、わたしたちの日々の営みをもう一度考えてみよう。いま食べているものがどのようにしてわたしたちの口に運ばれるかに思いをはせてみよう。それが自分の生のありかを、地域との関わりを見直すことにつながるはずだ。そんな思想があらわれているイベントだったと思います。

http://hinasaki.hatenablog.com/entry/2018/03/29/143423?_ga=2.208116754.1055108113.1537231350-518807912.1530924509

 

 実際にその場に行き、身体を動かし、目を向け、音を聞き取り、においをかぎ、空気の感触を感じる。そのようにして、その場所において思想をめぐらす。思想は身体的経験と結びつき、身体が記憶する。人びとが日々の生活において行っていることと同じであろう。われわれは常にある場所で活動し、様々な経験を積み重ねている。思想は経験を基盤とし、他者の経験に頭と身体、心を開くことを準備する。そのような活動は他者の活動と触れ合うことで、更に強く記憶される。小松さんにとっては、アジアン・カンフー・ジェネレーションのゴッチこと後藤正文さんと、作家の古川日出男さんを連れて常磐を見て回ったことが、大きな意味をもったとされる(298-299頁)。

 

 「さかなのば」を実施する趣旨が「港町の魚屋さんで魚をつまみにお酒を飲んだら最高だよね」という行為そのものを目的としたように、実践の目的はあらかじめ結果を見据えるものではない。われわれの目指す未来は過去からの束縛をまぬがれえず、常に手探りである。そこに意図はある。だが、その意図が伝わるかどうかは予測がつかず、実践の過程において何かしらのイレギューラーな事態も常に起こりうる。だからこそ、「やりたいことを表明する、そしてやりたいようにやる」(287頁)ことで、ときには他の実践と交じり合い、共存が生まれる。このとき誰もが「当事者」となる。先取りした結果を見据える実践には、「外部」がない。想定外のことが起こりえない。実践の場に身をおくことで、「バックヤード」に光を当て、「当事者と外部」の垣根を飛び越える。そして後から過去の実践を振り返ることで、そこに「思想/ビジョン」を見出してきたのが、小松理虔さんの経験なのである。そうして築き上げた場が、回廊美術館となり、UDOK.となった。結果は後から発見されるものであり、結果もまた次なる実践の過程の中にある(287頁)。

 

 

対話と場

 

 実践のさなかにあって、他者と共存するとき、共にあってなお痛感することは、他者との「埋めようのない考えの違い」であったと小松さんは書いている(221頁)。賛成や反対、当事者と外部といった人々の思考の対立は、同じ場にあってなお維持される。身体を同じ空間に位置づけることはできる。実際われわれは大陸・国・都道府県・市町村・字・集落・番地などの空間の中で共存している。だが空間を共にすることと、思想を共にすることはイコールではない。むしろ迷惑な隣人とどう付き合っていくかが、人間関係の肝でもある。対話は論駁を目的にしない。対話の目的は、自分とは異なる存在の声を聞くことで、異物の中にある自分、他者と共にある自分を自覚し、むしろそこに「自己」を見出すきっかけをつかむことではないだろうか。もし全ての人間の思考様式が同一であったなら、そこには「わたし」も「あなた」も、「われわれ」も「かれかのじょら」もおそらく存在せず、認識することができない。それは「自立」の道とは決定的に違えてしまう。

 

 このような発想は、活動する人ならではのバランスの取り方、他者との折り合いのつけ方だと、私は感じた。活動をしていくからこそ、他者との関係の仕方はやわらかくあらねばならない。他者(という異物、あるいは迷惑きわまりない存在)を受け入れようとする人間こそが、自己の存在を立脚させることができる。このような現場の知恵に関する記述が、私が本書で最も多くを学んだと感じた部分である。

 

 他者との関係において、データや実証をつきつめることは、自己の正しさを主張するために他者を論駁することにつながってしまう。科学的知見はこの世界を観察するための一つのツールであるが、唯一のツールであるわけではない。人びとは世界と多種多様な方法でつながっているにも関わらず、「客観的データ」という単一の世界観において被害や復興を測定することは、たとえ意図しなくとも、他者の排除と自己の拡大に陥ってしまう。賛成/反対の二元論もまた同様の帰結をたどる。難解で複雑だったものを単純化する思考には、常に暴力性がつきまとう。だからこそ、自分の主張や他者の主張の間に鑑賞帯としての「中庸」や「余白」が必要となる(50, 55, 60, 228-229頁)。

 

 福島県産の食物に対する忌避や、他者を受けいれられない自己、あるいは科学的にしろ感情的にしろ極論を支持する、支持しないことの全ての「選択」が担保されなければならない。全員が同一の見解を保持する必要はないし、皆が同じになる必要もない。しかし、われわれはみな「当事者」であるため、自己の行動が他者に影響を与え、他者の行動が自己に影響を与えることには自覚的であらねばならないだろう。他者への配慮と自己の抑制、自他の間に「余白」を設けることは、すなわち一人ひとりの人間が成熟することである。対話の内容が、意見の相違が問題なのではない。対話という営みとその場に参加することの勇気、他者におびえ、自己の傲慢さを自覚するような「自立」のはてにしか、おそらく「対話」は生まれないのだ。

 

 Youtubeに上がっている「【無料生放送】小松理虔 【ゲンロン叢書第一弾】「『新復興論』先行販売特別イベント」」https://www.youtube.com/watch?v=IW1YUQGywNgを視聴した際に、東浩紀さんが小松理虔さんの本に対して「綺麗な文章」であると評価していた場面があった。私も同意する。そこに小松さんの他者に対する配慮や、自制心があらわれているように思う。震災から7年間もの時を過ごし、小名浜を中心に活動することで、傷つかないわけがないのだ。家族の問題、他者との軋轢、職場での諦念、様々な場面で他者の醜さや自分の不甲斐なさをきっと経験してこられたのだろう。このように活動する人が、何も感じずに、「楽しい」だけの時間を過ごしてきたわけがないのだ。しかし、それにも関わらず、他者に語りかける文体の丁寧さ、綺麗さに、小松理虔という人間の純真さと苦悩、そして大人としての成熟がきっと表れているのだと私は思う。

 

 

潮目

 

 このような論旨は、「潮目」という思想に辿り着く(267頁)。これまでの議論は全て二項対立的な言説空間の中で、どのように極論に陥らずに、世界の荒波を渡っていけるかを示唆している。復興/喪失、当事者/外部、中央/周辺、(マン・オブ・ザ・ワールド)/バックヤード、自立/依存、思想/実践、自己/他者、表と裏があるように、光と闇があるように、物事は両面(おそらく多面)的に層を成している。世界はかくも複雑で難解であり、人びとの経験やものの見方、心のあり方も不可解である。そこに分断の層を見ることもあるだろう。だが、波と波がぶつかり合うはざまに、ほんの少しの共存としての重なりも見えるのかもしれない。他の波とぶつかって、傷つくときに、痛みを共有できるのかもしれない。あるいはぶつかり合うのではなく、触れ合う喜びに満たされる瞬間があるのかもしれない。そのほんのわずかな「救い」の時を求めて、われわれは自分の殻にこもるのではなく、世間という大海に乗り出し、他者と関わるのではないだろうか。

 

 そして、潮目もまた移ろってゆく。断絶と思われた裂け目も時間が過ぎるたびに、あるいは場所が変わるごとに、ゆるやかに統合されていくのかもしれない。波風を立てているのは人々の生活、日常的な実践である。生活が無風というわけにはいかない。穏やかな幸福の波もあれば、災害や人災のような荒波もある。そのような波間の中で、せめて、波に翻弄されるだけではなく、異なるものが交わるからこそ意味をもつような、出会うことによって成熟するような、そのような思想を持てるように、私は願わずにはいられない。

 

 

歴史への問い

 

 最後に次の引用に対する警句を述べておきたい。

 

さきほど見てきたように、私たちには、本来、誇るべき歴史や文化がある。しかし、国家の発展のための犠牲を押し付けられ、その過程で、自ら文化を葬り去り、町の誇りは、歴史や文化ではなく、「炭鉱」や「火力」や「原子力」であり続けた。それは、日本を支えているという自負でもあっただろう。しかし、その自負は、私たちが支えているはずの日本によって裏切られるという歴史を繰り返している。近世、近代、そして現代。かくも寡黙に日本を支え、それでも裏切られ続けている土地を私は知らない。

自分たちの上地の軸となる歴史や文化を取り戻すことができず、地域づくりに失敗し、その結果、中央への依存を余儀なくされ、やがてその依存構造をいつの間にか忘れ、自らを周縁化させていき、ついには中央に裏切られる。この地で繰り返されたのは、そのような歴史でもある。それを繰り返さないためには、文化や歴史、芸術といった領域の活動を再起動して、地域の軸を取り戻さなければならないのではないか。本書は、その主張を繰り返してきた。(378頁)

 

 日本の近代や常磐炭鉱を支えてきたのは、常磐に住まう人びとだけだったのだろうか。いや、そうではなかった。次のような研究が示すように、そこには海外から強制動員された人々がいた。

 

・山田昭次「戦時下常磐炭田の朝鮮人労働者について」小沢有作編『近代民衆の記録10

在日朝鮮人』、新人物往来社、1978年

・長沢秀「常磐炭田における朝鮮人労働者の闘争―1945 年10 月―」『在日朝鮮人史研究』第2 号、在日朝鮮人運動史研究会、1977年, 同「日帝朝鮮人炭鉱労働者支配について―常磐炭鉱を中心に―」『在日朝鮮人史研究』第3号、在日朝鮮人運動史研究会、1978年

 

 もちろん常磐地域だけに強制動員が行われたわけではない。大沼郡三島町の宮下発電所喜多方市の与内畑鉱山などの県西部にも朝鮮人労働者や中国人労働者が動員されている。歴史の闇をのぞくとき、そこにはわれわれが想定する以上の「当事者」の存在を散見してしまう。いわきや常磐は確かに首都圏に対するバックヤードであったのだろう。しかし、そのバックヤードの更なるバックヤードとして、かつては日本の植民地があったことを指摘しておきたい。水が低きに流れるように、裏切りや暴力もまたより権力をもたない側に流れ続ける。地域の歴史を再稼動するときに、その歴史を一元化してしまえば、潮目は失われ、過去という異質な他者をも消し去る暴力に身をゆだねることになる。歴史もまた他者なのであり、そこには様々な死者が横たわる。どうか、異なる死者にも目をくばる繊細さを求めたい。

 

 恥ずかしながら、私もまたそのような福島の過去に無自覚だった。たまたま福島の海外移民、開拓者の歴史を調べていた際に、福島県内への朝鮮人動員の研究をしておられた韓国人の方と知り合い、教えていただいた。彼女もまた福島の「当事者」である。国籍を問わず多くの方達が福島や原発の問題、地域医療や労働問題に関わっている。彼彼女らとの間にも対話の場が設けられるように成熟することが、今の私の課題である。

 

 

読書会@猪苗代町 渡辺京二『無名の人生』

 2018年8月26日、晴れ。郡山市は気温が32度ほどだが、午前9時ごろからかなり暑く感じる。午前中に庭の家庭菜園の草むしりを行うも、顔や腕を蚊にさされまくり、30分ほどで断念する。農家のおばちゃんが虫除けのために顔を覆う帽子が欲しいと強く感じた。

 

 準備を済ませて、猪苗代町の道の駅に向かう。自宅から車で1時間ほどで到着。現地で渡部さん、長谷部さんと合流し、デニーズに移動後、読書会を行う。課題本は渡辺京二の『無名の人生』(文芸春秋, 2014年)。新書のお勧めを聞かれたときに、家の本棚をあさってみてこの本を推薦した。地方(熊本)で暮らし、歴史書などを著した人がどのような人生を送ってきたのかを知るのに良い本だと思う。

 

 

 課題本が人生論的なこともあり、話題が各自のこれまでの経歴や、好き嫌い、生活や仕事の悩み、人生観などに広がった点がとても良かった。この本を通して、渡部さんと長谷部さんの人生について触れ、また自分がどのような人間であるのかを少しは人に伝えることができたと思う。日頃の生活ではなかなか話さない事柄であり、率直に話すには多少気兼ねする。その点、本をきっかけに互いの人生を語り合うような読書会も、とってもありだと思った。

 

 

 本のカバーには「生きるのがしんどい人びとにエールを送りたい」と書かれている。しかし、長谷部さんは率直に「この本を読んでも、人生が楽になる感じはしない」と感想を語る。うん、ですよね。一瞬、人間はなぜ本を読むのかとか、著者の話で他者を救うことができるのかという深遠な問いを抱きかけたが、その前にそもそもわれわれがしんどく感じていること、感じてきたことは何かについて話し合う。

 

 

 渡辺京二は語る。

 

 われわれは、みな旅人であり、この地球は旅宿です。われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて、平等なのです。

 娑婆でいかに栄えようと虚しい。すべてが塵となるのですから。金儲けができなくても、名が世間にゆき渡らなくても、わずか数十年の期間だけこの地上に滞在しながら、この世の光を受けたと思えること。それがその人の「気位」だと思う。

 これが結論です。昔の日本人は「この世に滞在する旅人にすぎない」という結論が分かっていたからこそ、死ぬときには、あっさりと、かつ立派に死ねたのです。そう言えば、湯川秀樹さんの自伝のタイトルも『旅人』でしたね。

 自愛心の発達した現代人は、この結論がなかなか理解できません。この世の光といったって、なんのことか分からない。この世の光を浴びるとは、自分を自分としてあらしめている真の世界と響き合うこと。この世界――地理学的な世界ではなく、自分を取り巻くコスモスとしての世界――と交感しながら、人間が生きていることの実質を感じること。これが真の世界と響きあうことでしょう。(172-173頁)

 

 

 御年80歳を越えて人生の酸いも甘いも噛み分けた人が語ることは含蓄があるが、しょせんは30歳ほどのわれわれがそれを実感することは難しい。それでも、なぜ渡辺京二がこのような心境に達したのかと問うことには意味があるかもしれない。

 

 

 渡部京二は1930年に京都で生まれ、その後、満州の大連に移民している。ということは戦後は日本に引き揚げざるをえなくなったということであり、国家や時代による強制的な移動を強いられた経験をもっている。

 

 

 さて、本を買い集めたはいいが、結局はほとんどを大連に置いてくる羽目になりました。引揚げ船に持ち込める荷物は両手でトランクに提げられる分だけ。あとは布団包み一つ。大部分は処分して、大事な本だけトランクに詰めたのだけれど、乗船する際にソ連兵の検閲で全部没収されました。幸い布団包みの中に入れていた本が五、六冊あって、それだけ助かりました。田辺元の『哲学通論』とか、三木清の『歴史哲学』です。引揚げ後、古本屋へ持って行ったらとても高く売れた。その金で受験参考書を買いました。旧制高校に行くつもりでしたから。(31頁)

 

 考えてみれば、戦火に追われて流浪するという生き方は、私という一個の人間の原形をなしています。私が幼少時に経験した幸せな家庭生活など例外的なものであって、流浪することこそが人間本来の在り方だ、と。そういう実感があるのです。(33頁)

 

 

 移動の経験が引き起こすしんどさは現代人にも通じるだろう。ご多分にもれず、われわれもまた親の転勤や、進学、就職や退職をきっかけに環境を変え、新たな環境に適応せざるをえない人生を歩んできた。中学生などの多感な年頃にあっては、そうした経験から、「人付き合いはくだらない」と思うこともしばしばあったのだ。新たな環境で愛想笑いを浮かべながら、吐きそうな心地で自己紹介をすることに悩まされた人も多いのではないか。

 

 

 福島には未だに閉鎖的な土地柄だといわれる場所もある。雪が降らない所から引っ越してくれば、雪に違和感と拒否感を覚えることもある。東北の人が関西や西日本に引っ越せば、そのあまりの饒舌ぶりに驚かされる。それでも、住んだ場所は自分の人生観に影響を与えていたのだと、振り返ってみると気がつくものだ。

 

 

 移動に伴う流浪の経験、これが渡部京二の思想の核の一つである。さらに、彼には二つ目の核として、前近代への歴史認識がある。

 

  日本近代化論は、私が書いた本とは似て非なるものです。前者が、「日本の近代は江戸時代に用意されていたものである」と二つの時代の連続性をいうのに対し、私は不連続性を強調しているからです。明治期に日本を訪れ、西洋に日本を紹介したB 。H ・チェンバレンも、その著『日本事物誌』のなかで「古き日本は滅びた」と言いきっています。私が尊敬する中野三敏さんも、江戸時代は近代とまったく違う世界だからおもしろいのだとおっしゃっていて、私は同感です。

 今を生きる人間にとっては、現代文明は所与のものであり、自明なものです。だけど、それとはまったく異なる文明の在り方があるのだよ、それはそれなりにいい文明なのだよ、ということなのです。

 二つの文明のあいだに決定的な「優劣」があるわけではない。前の文明が後の文明へと「進歩」したわけでもない。現在の社会システムは、 一つの時代性に規定されたシステムであるのに、その中に生きている人間にはその相対性が見えず、それ以外のありようはないように絶対化してしまう。私は江戸時代を賛美するのじゃなくて、それを現代文明を相対化する鏡として用いたいのです。(111頁)

 

 

 現代を相対化するための目をもつこと。そして近現代がもつ問題を、前近代の人々の生活のあり方から逆照射することで、浮かび上がるものが出てくる。彼の主著と目される『逝きし世の面影』を読めば、前近代がもっていたのは貧しさゆえの自立性であり、近代が獲得したのは貧困からの脱出とそれに伴う人々への生命の管理、言い換えれば自立性の喪失であることがわかる。管理社会がもたらす弊害を福島の文脈で見れば、補助金目当ての企画や活動が横行することでもあるだろう。

 

 

 地方は都市と比べて娯楽に乏しい。それゆえ、自ら能動的に時間を潰す手段を見つける必要がある。渡部京二にあっては、花鳥風月を愛でるような時間がすこやかなひと時となるという。

 

 

 しかし、私たちの日々の生を支えているのは、もっとささやかな、生きていることの実質や実感なのかもしれません。

 本当に何げないもの。たとえば、四季折々に咲く花を見てほっとするような小さな感情とでもいったらいいのか。あるいは花を咲かせない樹木であっても美しいし、山が好きな人は山登りをすることに生きがいを感じたりもする。あるいは街角に佇んでいて、ふと斜めに日の光が差し込んできたその一瞬、街の表情が変わってしまうようなこと。空を見上げていたら雲のかたちが何かに似ているなと感じること。この自然、この宇宙は、われわれにいろんな喜びを与えてくれるのですが、案外、人間の一生は、そうした思いもかけない、さりげない喜びによって成り立っているのかもしれません。(73頁)

 

 もちろん、町に行って娯楽におぼれることは楽しいことだ。しかし、地方で暮らす場合は常にそのような時間を過ごすわけにはいかない。畢竟、一人で本を読む時間や音楽を聴く時間、あるいは自然のレジャーなどに費やす時間が長くなる。

 

 

 それでも、われわれは孤立したいわけではない。自立を望みながら、誰かと時間を、場所を、食べ物を、考えを、何かを共有したいのだ(おっと、ファミレスには全てがそろっていそうだ)。一人で本を読んだり、音楽を聴いて、自分の中に貯めたものを、誰かと共有したい。誰かと過ごす居心地の良い場所を作り上げたい。

 

 

 『苦海浄土』の著者で詩人の石牟礼道子さんの文学の根本には、小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出されて泣きじゃくっているような、そういう姿が原形としてあります。一個の存在が世の中に向かって露出していて、保護してくれるものがない、この世の中に自分の生が露出していて誰も守ってくれないところから来る根源的な寂しさ――それがあの人の文学の中核なのです。

 考えてみれば、人間はみな、本来そういう存在です。危険にさらされることも、寂しいことも、それは誰だって望んでいるわけではありません。だから、そこから抜け出そうとして人とつながり、家族をこしらえ、社会的な交わりが生まれ、さらには、自分の生存を保障してくれる制度が生まれてくる。文明とは何かといえば、生がむき出しになった寄る辺ない実存を、東の間、なんとか救い出そうとする仕組み、それを文明と呼んでいるのでしょう。だけど、やはり原点には、寂しさを抱えた自分があるということを自覚しておいたほうがいい。(13頁)

 

 

 しかし、他者に働きかけることはいつでも難しい。自分の考えをまとめることも、考えなきゃいけないこと自体にも自信がない。他者に何かを伝える明晰な論理があるわけでもないし、渡辺京二のように水俣病問題で社会と衝突し葛藤したなどの、伝えられる経験があるわけでもない。

 

 

 他者と同じ時間を過ごすだけで、何かが共有できるわけでもない。仕事場で仲のよい友達がむしろできにくいのは、共有よりもメンタリティなどのずれや意見の食い違いを感じるからであり、主張の内容よりも声の大きさで物事が決まってしまうことの違和感があるからだ。仕事は苦しいものだと思い込む人は、同僚に苦痛をおしつけることをためらわない。遊びの延長に仕事を求めるような心構えは、この時代の若者に特有の傲慢さなのだろうか?世代間のギャップは埋めがたい溝をつくる。言いたいことを言えない環境は、「共有」よりも「強制」に支配されている。そのような世間の中で、地方暮らしの中で、自分の居場所をどのように見つけられるのだろうか。

 

 

 ですから、当面、われわれに必要なのは、まずは自分の身のまわりに目を向けること、この生きづらい社会のなかに自分の居場所を何とか探しだすことでしょう。

「どこにも属せないから、自分たちで独立国家をつくる」と坂口さんは言います。「高度消費社会」と言われようとも、この社会にはまだまだ利用できるエアポケットがあるものです。そういう場を見つけて、友だちと何かの店を開くのもいい、百姓仕事を始めてもいい。とにかく自分たちの力で何かをやってみること。高収入は望めなくとも、自分と家族が生きてゆけるだけの場を見つけられればいい。(87頁)

 

 昭和の終わりと平成の始まりに生まれた30前後のわれわれには、先行世代はあらゆるものが過剰であったり、極端であったように見える。現代人は「接続過剰」なのだと千葉雅也は言う。成長、成長、経済成長。家族、家族、庭付き郊外一戸建て。えとせとら、えとせとら。でも僕らはそれほど過剰に過激にはなれないし、あぁ無常と悟りを開くこともできそうにない。あっちに行ったりこっちに行ったり、一人になったり仲間を求めたり、職場で小さくなりながら、バランスをとって生きているのだ。

 

 

 自分のやりたいことを探しながら、人から影響を受けたり傷ついたりして、強制ではない自立と共有が得られる場所を探したり、作りあげたりしていくのだ。読書会だってその試みだ。僕らは社会や歴史に目を向けながら、その時間と空間の中にバランスをとって居場所を見つけていくのだ。きっとそうなのだ。そのための実践が、今後の課題となっていくのだろう。

 

 

 もちろん、個人の気構えに問題を矮小化しても根本的な解決にならないことは百も承知です。それに、人間の耐性の劣化はなるべくしてなっているわけで、大きくいえば現代文明のはらむ深刻な問題ともいえます。

 それでもなお、私は、それを社会や制度のせいにはしてほしくないと思う。社会がよくなる前に、自分自身が死んでしまうからです。嫌な仕事でも我慢をしなければ飢え死にしてしまうからです。生きたいという強い意欲をもたなければ、厳しい現実のなかでは生きていけないからです。(55頁)

 

 

 

渡辺京二 経歴】

・1980年 京都府出生

・○○年? 大連一中、旧制第五高等学校文科卒業

・アジア太平洋戦争後、熊本に引き揚げ

・法政大学社会学部卒業

・熊本に戻り? 河合塾で働く

・○○年? 水俣病問題に関わる

・2010年 熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就任

 

【著作例】

・『熊本県人 日本人国記』 新人物往来社、1973年/言視舎(改訂版) 2012年

・『小さきものの死 渡辺京二評論集』 葦書房(福岡)、1975年

・『北一輝朝日新聞社「朝日評伝選」 1978年、朝日選書、1985年/ちくま学芸文庫、2007年-毎日出版文化賞受賞(第33回)

・『地方という鏡』 葦書房(福岡)、1980年

・『逝きし世の面影』 葦書房(福岡)、1998年/平凡社ライブラリー、2005年-和辻哲郎文化賞受賞

・『江戸という幻景』 弦書房、2004年

・『黒船前夜~ロシア・アイヌ・日本の三国志洋泉社、2010年-大佛次郎賞受賞

・『ドストエフスキイの政治思想』 洋泉社新書、2012年

・『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』 弦書房、2013年

・『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』 平凡社、2014年3月/平凡社ライブラリー、2018年8月

・『無名の人生』 文春新書、2014年8月

・『死民と日常 私の水俣病闘争』 弦書房、2017年11月

・『原発とジャングル』 晶文社、2018年5月

 

 

 読書会の途中で、猪苗代の十六橋水門に連れていっていただく。江戸と明治、前近代と近代が重なる史跡がここにはある。会津猪苗代湖から郡山の猪苗代湖へ。われわれの足元にはこうした歴史が今なお歴然とそびえ立つ。

 

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当ブログは、福島県文学読書会(仮)様を応援しています。

 

長崎探訪記

2018年7月20日、夕方。博多駅から高速バスに乗り、長崎駅に到着。下の写真の時刻は16時15分ほど。

 

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この日は駅近くのホテルにチェックインして、特に行動せず。

 

翌21日より、長崎探訪を行う。

 

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 長崎市の南北を中心に市電が走る。大人一回120円で、ほとんどの観光地付近まで市電で向かうことができる。朝方はゆったりと座れるが、昼過ぎになるとだいぶ混雑していた。

 

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長崎原爆資料館着。アジア・太平洋戦争の一つの結節点であり、「戦後」という時間軸だけではない概念を早期させる場所である。広島の原爆ドームには行ったことがないので、日本の原爆に特化した資料館への訪問は、ここが初めてとなる。

 

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 年月日が刻まれる。和暦ではなく、西暦を用いることに、日本史の文脈には回収できない位置づけであることがわかる。

 

一見してアジア人と思わしき鑑賞者の姿が目に入る。原爆の投下は敵/味方や戦勝国敗戦国、加害者/被害者といった分類をひどく難しくする。

 

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原爆投下に関する一つの説明が私の目を捉える。祖父が沖縄県の南洋開拓移民の2世として生まれたテニアン島から、原爆を搭載したB29が飛び立った。祖父にとっては1944年にテニアン島での戦争が終わり、米軍キャンプにおいて捕虜とされていた時期のことだった。南洋群島における戦争の終結から、日本本土の戦争終結に関わる判断に影響をもたらす原子力爆弾の準備が始まる。

 

 

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テニアン会会誌』の第一号に掲載された「1977 年・版板 グレン・マクルア」のテニアン地図には、日本占領期におけるテニアンの土地利用の面影はなく、代わりにアジア・太平洋戦争の史跡を示すものとして、地図中にも “WWⅡ JAPANESE KAHE FIELD”
といった地名や、“WWⅡCIVILIAN INTERNMENT”、 “ATOMIC BOMB LOADING SITE” が書かれている。

 

長崎の歴史と、祖父の個人史がテニアンを媒介として交差する。

  

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原爆投下の年月日が展示、そして日本史、あるいは世界史に刻まれたのと同様に、原爆の被爆は人々の身体に刻印を刻む。被爆者達にとって戦後は戦争の終わりを意味しない。また、内部被爆を受けた子孫にとっても戦争の終わりは訪れない。

 

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原爆の投下は、「日本人」の物語だけにも収束しない。朝鮮人を筆頭とする中国人や台湾人、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの捕虜もまた被爆している。加害と被害が入り乱れる。軍都としての、あるいは捕虜収容場としての長崎の顔もまた浮かび上がる。誰から誰にとっての加害で、誰に対する被害なのかを単純化する企ての全てに対して、無数の多種多様な顔と名前がそれぞれの存在を主張している。

 

資料館を出てから、平和公園に向かって歩く。真夏の日光が容赦なく照りつける。街の中に転々と原爆の跡が示される。

 

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町並みの至るところで、原爆の記憶の風化を防ぐモニュメントが建っている。町を歩く人々は歴史の中をさまよう。風光明媚な明治期の西洋建築や、趣深い江戸期の建物が残る一方で、原爆の傷跡もまた生活の風景の中に溶け込んでいる。

町が、場所が過去を記録し、記憶している。

 

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浦上教会

 

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長崎県県立美術館

 

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オランダ坂

 

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大浦天主堂

 

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 グラバー園

 

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アジア系の旅行者が宿泊していると思われる豪華客船。現代を象徴する顔。

 

長崎の町を歩いていると、町の場所ごとに異なる歴史の流れがあることに気がつく。

江戸時代の貿易港として栄えた出島、明治の造船業の発展と共に異人館が並び立つ南山手、そして原爆資料館平和記念公園がある浦上方面。それぞれの地区が異なる時期の歴史を内包し、長崎を歩く人は、時代に応じた異なる長崎の様相を目撃することになる。

それは同時にどこに原爆が投下され、被害の範囲がどの程度であり、どの場所が過去の町並みを残すことができたかをも示している。それは残酷なほどにはっきりとわかってしまう。 

 

翌7月21日の午前中に、長崎歴史文化博物館を訪問する。近世から明治期までの長崎の歴史を中心に展示している。もとは長崎奉行所があった場所に、この博物館は建てられている。

 

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長崎は時間の流れを惑わす町だ。ある時期を特定して長崎の歴史を論ずることは難しく、さりとて通史的な発展史観で語られるほど、楽観的な記憶を宿していない。それゆえ、多層な顔と町並みが並置されている空間を、歩行者は歩くことによって感知する。

 

これは長崎に特有のことであるのだろうか?いや、そうではないだろう。そもそも画一的に一元化した過去をもつ町や場所など本来はどこにもない。その土地がもつ記憶と過去は他の土地と同様ではない。近代や現代、古代のみで語られる町村もまた存在しない。

 

しかし、そうであっても普段われわれが目にするものはどこかでどこにでもあるように感じてしまう。歴史がある町とは、過去の痕跡を豊かに残す町である。だが、その痕跡は時の経過と共に失われてしまう。だからこそ、長崎という町はいずれ失われる過去の痕跡を、人為をもって残そうと努めていることがよくわかる。

 

過去を未来に残す行為は、とても繊細さが要求される営みである。現代から判断した過去だけを残すのではなく、未来を基準に残すべき過去を選定する。それは町にとって不都合な事実に対しても誠実に行わなければならない。

 

ひるがえって福島はどうだろうか。原爆の被害に関して外国人被爆者の存在をアーカイブするような真摯さをもって、原発事故という出来事を表象することができるだろうか。