博物学探訪記

奥会津より

読書ノート 内発的発展論の外延 ――現代の奥会津における生活記録の捉え方――

1.はじめに:どこにいても異郷

 

 2020年4月12日(日)に実施予定だった会津学研究会の読書会(新型コロナウィルス感染拡大防止のため延期)における課題本、赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』(藤原書店, 2015年)を読み終えた。鶴見和子アジア・太平洋戦争後の日本社会において、社会問題や社会運動との関わりを通して自己変革を試み、それに挫折しながらも、将来への展望を示した稀有な存在である。その鶴見の問題・関心を引き継ぎ、土台としながらも、独自の「東北学」を起ち上げた赤坂憲雄と鶴見の対談は、研究者が提起するような狭義の研究課題を超え、一人一人がある地域や集団においてより良く生きるための課題と困難を提示しているように思える。

 

 本稿では、私が課題本を読んで惹き付けられたいくつかのトピックを、同様の課題を取り扱う他の書籍と照らし合わせながらより深く検討し、思考していきたい。

 

 私は福島県郡山市出身であるが、生まれたのは千葉県習志野市である。しかし、満1歳になる前に家族で郡山市に引っ越したため、習志野の記憶は残っていない。郡山では「ニュータウン」と名付けられた駅郊外のベットタウンで育ち、高校卒業後の大学進学をきっかけに上京して大学院を含む6年間の学生生活を送った。その後は、大学院を休学して静岡県の有名な観光地にある博物館で約2年半働き、さらに8ケ月ほどイギリスに滞在してから福島へと戻ってきた。28歳で福島に戻る前から、長期休暇などを利用して定期的に実家には帰省していたが、帰省の度に故郷に戻ってきたという、何か絶対的な安心感を覚えていたかと問われれば、即答することができない。もちろん実家での滞在がもたらす快適さや勝手知ったる我が家という感覚もあるにはあったが、そこを根源的な「産土(うぶすな)」と呼ぶことは腑に落ちない。大学進学後に両親が離婚したということもあり、離婚した当初は父が残る実家に滞在して新たな関係を築くことにはかなりの緊張を伴った。父とある程度良好な関係を築けたと思えるようになったのはここ数年の話である。

 

 上記のような私の経歴と環境は、私の世代にあっては特段珍しいものではないように思われる。大学院に進学することや、博物館で働くといったことは珍しいかもしれないが、高校卒業後に故郷を離れることや、外国での滞在経験、親の離婚といったことは周囲でもよく聞く類の話である。とすれば、出身地を指して「故郷」と呼ぶことはどれほど妥当なことなのだろうか。赤坂憲雄は、どこにいても自身の故郷をモノサシとして他地域を論じる宮本常一への論評として、花田清の「近代をこえるためには、一度、われわれは、徹底した『異邦人』になる必要があるのではないか」という言葉を紹介し、この言葉が宮本常一の学問的姿勢への「致命傷」になりかねないと指摘する。さらには、鶴見和子のことを「どこにいても異郷しか発見できない故郷喪失者」と形容した[1]。だが、このように赤坂が宮本常一を介して花田の発言を引用し、鶴見を異質な存在として扱うことに対して、むしろ現代においては多くの人々が花田や鶴見のような異郷観にこそ親近感を覚えるのではないだろうか。現代では「どこにいても異郷」と感じることのほうが一般的であり、自身が生まれ育った土地を「産土」と感じることのほうが特異なのではないか。戦争や紛争などにより故郷を追われた「故郷喪失者」と私のような人間を等しく扱うことはできないが、「どこにいても異郷」という感覚は近代から現代にかけてますます広まっているように思う。

 

 では、「どこにいても異郷」と感じる人間が、ある場所や地域、集団と結びつくにはどのようにすれば良いのだろうか。鶴見和子赤坂憲雄はどのように他者や地域と関係することを実践したのだろうか。その試みはどこまで成功し、何に失敗したのだろうか。次節以降では、上記の問いを念頭に、主に鶴見和子の経歴と思想を検討しつつ、鶴見と赤坂が共通して行った実践である「地域の人々の生活を書くこと」がどのような意味をもつのかを考えていきたい。

 

2.「故郷喪失者」鶴見和子の実践

 

 鶴見和子は1918年に祖父であり当時の日本政府の外務大臣を務めた後藤新平の宿舎で生まれた。「和子」という名前は新平の夭逝した妻の名前に由来するといわれる。後藤新平は日本が統治した台湾の民生局長を務め、満州経営の重役を担った人物である。吉見俊哉によれば、鶴見和子およびその弟の俊輔は明治国家に揺籃されることから人生をスタートさせながらも、日本という「国家」を相対化する道をたどった知識人であった[2]。和子の学識は1939年にアメリカに留学し、ヴァッサー大学で修士課程を修了した後、日米の開戦によって俊輔と共に日米交換船で帰国するも、戦後に再びアメリカに渡航し、プリンストン大学で博士号を取得するなど、その多くがアメリカで形成された。つまり、和子はアメリカで培った知見によって日本を相対化する視点を獲得したといえる。

 

 日米の往還によって学知を形成した和子は、特権階級としての恩恵を受けながらも、日米間の旧敵国同士や占領/被占領といった関係性にも強く影響された。戦後になると共産党に所属し活動するが、自身の裕福な出自と党の活動に折り合いをつけることが容易ではなかったとされる。それは日本とアメリカの間でいかなるアイデンティティを形成するかという問題にも連なり、自らの生い立ちと行動の間に横たわる矛盾や葛藤を克服することが和子の人生の指針であった。吉見俊哉はそのような和子の生き方を「生まれ変わろうとし続けた人」と形容する[3]

 

 鶴見和子が「知識人」としての殻を打ち破り、「生まれ変わり」を実践するために接近したのが、1950年代における生活綴方運動であった。この運動は、1951年3月に無着成恭が編集し出版された 『山びこ学校』という山形県山元村中学校生徒の生活記録を契機として爆発的に広まった。和子自身は1952年8月に岐阜県中津川での第1回作文教育全国協議会の講演を契機に、この運動に関与したとされる。和子はその協議会に行けば無着成恭に会えると思い、講演を引き受けたという[4]

 

 和子の生活綴方運動への参加の目的は、自身も含めてこれまで学者らが行ってきた「実態調査」なるものの反省に由来する。和子は、「調査をすることによって、調査をした学者自身、また調査された村人自身になんの変化もおこさないとしたら、そのやり方には、やっぱりくらさがあるのだと思う」と話し、さらに「わたしたち大人がうまれかわるために、とくにインテリも学者も、『生活綴方的自己教育』が必要なのだ」と提言した[5]

 

 こうして、和子は「生活をつづる会」を仲間と共に発足し、間借りしていた自宅を開放して生活記録運動を展開した。しかし和田悠は、和子の運動には「具体的な民衆と眼前で出会っていながらも、出会いとして主体化できない鶴見の自己認識構造の問題が浮び上がってくる」と指摘し、インテリとしての自己を反省しながらも、自己改革には至らなかったと評価している。実際に和子は1954年の『エンピツをにぎる主婦』において「紡績女工」と名乗る女性から、「鶴見さんは、わたしたちのことが頭の中ではわかっていて、それはこういうことだとか、ああいうことだとかいうけれど、ほんとうに、心の中では、わからないんだと思います」と指摘され、さらに「生活のきりかえ以外にぬけ道はないのではないか」と提言されている。だが、和子は自身の生活のあり方を「きりかえる」ことはできなかった。ここに和子の認識を実践することへの限界があらわれている。

 

 しかし、和子は生活記録運動での「仲間」から批判を受けながらも、自己変革の重要性を追求する姿勢を保ち続けた。例えば、「内発的発展論」を展開する論文においてその姿勢があらわれている。

 

社会システムを変革するためには, 変革の担い手としての人間の介在が必須だとわたしは考える。そこで, システムを, 社会構造のレベル(社会システム)と, 個人のレベル(パースナリティ・システム)とにわけて考えると, それぞれの個人が, 自己を再組識することによって, その属する社会システムを, 再組識するように働きかけることができる。そのような個人を,キイ・パースンとよぶことができる。さらに個人が, 自己を再組識する場合に, その原動力となる動機づけの体系を, 文化システムということができる。そして, 伝統的な文化を, 現代の必要に応じて, 個々人が再組識(再創造) するときに, 再創造された文化システムは, 変革の動因となりうる[6]

 

 和子は自己の再組織が文化システムの再組織(再創造)に連なると考えており、それがひいては社会システムの変革につながると考えていた。自己変革が社会変革を誘引するのだという思想をもつからこそ、和子は自己変革の重要性を訴え続けたのだろう。そして、それを自身でも例証しようとし、生活綴方運動にのめり込んだ。しかし、その結果は成功とは呼べないものであった。自己を変革するとは単なる認識上の問題ではなく、自身の生活のあり方をも「きりかえる」という実践が必要であったのかもしれない。だが、和子にはそれができなかった。ここに、認識論と生活的実践に横たわる深い溝と、認識―実践―変革が単線的につながるわけでもなければ、相互に独立しているわけでもないことが示唆される。

 

 和子が生活のレベルで変革を実感したのは晩年の闘病生活においてであった。だが、このとき「内発的発展論」が対象としてきた地域や集団といった単位が、個人単位へと変化していることに注目したい。

 

 和子は1996年に脳梗塞で倒れ、なんとか一命を取り留めた際に、「自分が脳出血で倒れたあと、歌が吹き出したときに、ああ、内発性というのは私自身のなかからでてくる」と気づいた。それにより、「地域からもう一つ段階をおとして、個というものの内発性に気づいた。だから今度は、目標は一人一人の可能性を実現することというふうにおいた」と述べている。蜂屋大八によれば、このとき和子は「個人の内面からあふれ出てくるものを実現する場として地域を捉え」るようになったとされる[7]。病気がもたらす生活の変化が認識の変化をも引き起こし、地域を捉える視点そのものが個人の内面によって規定されていることを実感したのである。

 

 上記の和子における思想の変化は、「内発的発展論」への批判への応答でもある。そもそもこの理論にある「内」とは何を指すのかという問いは、和子の従兄弟である鶴見良行からもすでに問われていた。すなわち、「『内』をどのレベルで規定するのか、国家なのか、地域なのか、種族なのか。あるいは、民族、種族が限りなくにじんでいる現状で、内と外の線をどこで引くのか。つまり、『内発』のベースとなるアイデンティティがいっこうに見えてこない」と[8]。この問いに対する和子の応答が「内発的発展論」の理論を変化させることであり、それは自身の生活の変化に支えられて発せられたものであった。蜂屋はこれを「個人の内発性を根源とし、地域の発展の中に個体としての自己創出をいかに位置付けていくかという主体形成の理論に変化した」とまとめている。ゆえに、和子は地域の伝統を発掘し、日常の生活に役立てていく形の地域学の活動を「内発的発展論の新しい展開」として喜んだとされる[9]

 

 この「内」から「自己」への思想変化には、着目すべき対象が曖昧かつ閉塞的になりやすい「内」ではなく、主体としての「自己」に目を向けた点で評価できる。だが、もし生活記録の目的が記録者の自己形成になるのだとすれば、それは記録の対象となる人々はつまるところ誰であっても良く、記録者が自己満足的に実際に生活する人々を一方的に記録するということになりかねないのではないだろうか。これは、記録という行為の暴力性を前面に押し出した発想であり、私には記録者の態度として首肯するこができそうにない。では、生活記録の意義とはいかなる点に求められるのか。そして、記録者の任務とはどのように考えるべきなのだろうか。

 

3.現代の山村における生活記録の意義:「遊び」と「経験の結晶」

 

 実際に鶴見和子赤坂憲雄の対談において、現代の東北の山村はどのように見られたのか。次のやり取りに注目したい。

 

赤坂 そうなってきてます。だから、ムラの人たちは定着民だというのはもう幻想です。つまり、山村に暮らしていても、山と関わる暮らしなんてほとんどありませんから、もう趣味のレベルです、そういうのは。山菜を採るとか、茸を採るというのは趣味。

鶴見 遊びね。

赤坂 遊びですね、生業ではないんです。実際の暮らしはそこから車で三十分、一時間離れた町場に職場があって、サラリーマンです[10]

 

 両者の会話から見えてくる現代の山村は、伝統技術に裏付けられた自給自足の生活といったステレオタイプなイメージとは異なり、すでに山村においても都市型の生活が基盤となり、山村に特有の山菜や茸の採取はあくまで趣味の次元にとどまるという冷静な観察である。赤坂のこうした姿勢は、実際に東北の各地を回り、聞き書きなどを重ねた経験に基づくものであり、安易な印象論に陥らないための堅実さがある。赤坂自身、柳田國男が培った深い雪の中で稲を作り、稲の信仰に生きる人々といった東北のイメージに対して現地調査を重ねて検証した結果、実際に柳田が言及した地域においては明治の後半から稲作が始まったに過ぎず、それを柳田が東北の伝統として取り違えた事例を紹介している[11]

 

 しかし、赤坂が見た現代の山村についての語りは、観察としては優れているものの、それが意味することへの考察には至っておらず、率直に言えばうわべの理解に過ぎないという印象を受ける。それはどこかで鶴見和子が生活綴方運動に安易に接近した姿に似通っており、つまるところ和子と赤坂にまとわりつくアカデミズム的硬直性が現代の東北における山村への理解を阻害していると思われる。

 

 まず、赤坂が趣味と同一視した「遊び」という表現について再考したい。この発言が出たとき、和子は敬愛する弟・俊輔の「遊び」への卓越した見解を思い起こさなかったことが不思議でならない。鶴見俊輔は「遊び」について、「食物を獲得するとか、住居を作るとか、衣服をつくるとかの実際的な諸活動から切りはなされたものとしての純粋の遊び」があったわけではなく、「衣食住を確保する実際的な諸活動(労働)の倍音として、それらをたのしいものにする活動(遊び)」があるのだと指摘する[12]。つまり、遊びを趣味と解すること自体がすでに現代の枠に囚われた理解なのであり、柳田の見解を歴史に照らして批判した赤坂自身の歴史性が問われるべきである。むしろ、遊びとして現代においてもかつての生業に連なる山菜や茸の採取を行っているということは、それだけ彼彼女らの生活のあり方に対して過去の経験が強力に影響を与えているとみなすべきではないだろうか。

 

 私がここ3年ほど福島県大沼郡三島町の間方集落に暮らす昭和12年生まれと昭和13年生まれのご夫婦に聞き書きを行って得た知見は、赤坂が語る山村で暮らす人々の生活が一面的に過ぎるのではないかという疑念を抱かせる。夫の男性は80歳を超えてなお、険しい山に入り込み、ゼンマイなどの山菜や茸類はもちろん、自家で植えた杉や桐の手入れを行っている方である。それは時間を潰すための趣味などではなく、山に入ることが好きなのはもちろんのこと、かつて生業として行ってきたことを、例え頻度が減少したとしても、行い続けるという強い意志を感じさせる。私もその方の山菜採取に同行したことがあるが、趣味という言葉で片付けるには余りに大変な行為である。

 

 この方は、それらの行為が現代の生業にはそぐわないことなどもちろん承知している。山菜採取や茸栽培のみでは生業が成り立たず、土方仕事を長年勤め、定年退職してようやく再び山に入る時間を確保した方である。つまり、彼は生業の歴史的変遷を身をもって体験したのであり、だからこそ、現代においても経済的には意味をなさない採取や林業を続けているのである。現代において意味をなさないこともまた変化する可能性があることを彼は理解しているのであり、「時代が変われば(杉も)何かしらになるかもしれない」と語るのだ[13]。時代の変遷を捉え、現代を相対化した言葉である。

 

 もう一つ、「遊び」となったことの意義を記録に開かれることにおいて考えたい。もし山菜採りや杉の手入れが生業だった時代に、それらの話を語り、聞かせることができただろうか。私は難しいと思う。かつて生業だったものが「遊び」に転化したからこそ、それらを他者に語る余地が生まれ、記録されるに至ったのではないだろうか。藤田省三は、「物(或は事態)と人間との相互交渉である経験」が成立するためには、「必ず当初の経験から一定の時間が経過することを必要としている」と述べる。そして、そのような経験が自覚され、自分にとっての経験となり、思考様式・感受性・行動様式に影響を与えることを「経験の結晶」と呼んだ[14]

 

 しかし、このように人々によって相対化され、対象となった「経験の結晶」は、記録の地平に開かれるようになると同時に、恣意的に美化することも貶すこともできる「虚偽意識の素材」ともなるのであり、だからこそ、「認識(と理解と想像力)が自己の威信を賭けて全力を発揮しなければならないのはこういう時なのである」とされる[15]。傾聴すべき警句である。

 

4.生活記録と地域への関わり

 

 「はじめに」の「『どこにいても異郷』と感じる人間が、ある場所や地域、集団と結びつくにはどのようにすれば良いのだろうか」という問いを、鶴見和子の思想的変遷を辿ることによって見いだされた視座となる、ある地域や集団においてどのような生活を営み、自己形成を図るか、という観点に即して改めて考えてみたい。つまり、私は奥会津でどのような生活を送り、何をしたいのか。どのような人間になりたいと考え、その土地に住まう人々とどのように関われば良いのだろうか。

 

 真っ先に思いついたには、奥会津の歴史・民俗誌を書くことである。だがそれは、奥会津を発展させたいという考えによるものではない。そもそも私は「発展」という言葉が好きではない。「発展」という言葉によって人々が示そうとするのは、経済発展と人口増加であるように思われる(鶴見和子は別の意味をもたせている)が、その発展モデルの実現に寄与したいとは思えない。むしろ奥会津という過疎地域にあって、失われていく事物の記録を残したいというのが私の目標である。それは、渡辺京二が『逝きし世の面影』(葦書房, 1998年)を書くにあたって念頭に置いていたものに影響を受けている。いわく、「私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる」と。急激な過疎化によって奥会津の村々が滅びようとしている。それはもちろん奥会津に限った話ではない。だが、滅びゆく一つ一つの村が「実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだ」のであり、その滅亡を目の当たりにしてできることといえば、滅びゆく様相と在りし日の姿を記録して墓碑銘を作り、鎮魂することであるよう思われる。そしてその先にあるものが新たな文化の創造である。「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である」と渡辺は語る[16]

 

 生粋の異邦人であった渡辺京二から学ぶものは多い。渡辺は1930年に京都で生まれ、1938年に大連に移民し、アジア・太平洋戦争後の1947年に日本に引揚げ、熊本で生活を送るようになった。それゆえ渡辺は、「流浪することこそが人間本来の在り方だ、と。そういう実感があるのです」と話す[17]

 

 渡辺京二は『苦界浄土』の作者である石牟礼道子を世に送り出し、共に水俣病闘争に関わった人物としても著名である。鶴見和子と同様に故郷喪失者たる渡辺が水俣病闘争に関わった理由は、自己変革からの社会変革といった論理などではなく、論理以前の同情心であった。渡辺は古今東西の書物に明るく、筆もたつのであるから、いかようにもそれらしい理屈はつけられたと思われる。だが、渡辺が掲げたのは理想や私心ではなく、「義理と人情」であった。渡辺のこの文言にふれると、自分の目的や主体形成などが問題なのではなく、すぐそこで起きている悲劇や人の苦しみに同情をもって寄り添えるのかが問題であるという気がして、どこか襟を正すような清廉な気持ちになれる。

 

日本の古諺はいう、「袖ふれあうも他生の縁」と。水俣病と自分が係わるというのも、まさに他生の縁にほかならない。その袖は何によってふれ合うのか。こういうことをいうと激怒するある種の人間に対して言おう。それは人におのずから備わる惻隠の情による。水俣病闘争の中では、患者に対する同情に終ってはならないということが繰返し言われてきた。そのことの意味自体はわかるので、私はいつも黙っていたが、心中では同情で何が悪いと叫んでいた。徹底的な同情がどのようにおそろしいものであるかということは、山本周五郎のある短篇を読んだことのある人なら知っていよう。水俣病患者はかわいそうだ、という活動家たちがもっとも唾棄する心情も、それが徹底して貫かれた時は、おそらく活動家たちが夢想もできないような地点まで到達する。水俣病はしょせん他人ごとである。その他人ごとに、日本の生活民はどれだけ徹底的につきあうことができるのか。これは試みるに値する実験ではなかろうか[18]

 

 鶴見和子が「知識人」としての殻を打ち破り、「生まれ変わり」を実践するために生活綴り方運動にのめり込んでいったことはすでに述べた。だが、このことはあくまで和子の問題であり、和子が「仲間」と呼びかけた人々の問題ではなかった。自己の目的のために他者を利用しようとする姿勢がそこはかとなくここにあらわれる。それを敏感に感じ取ったからこそ「紡績工女」から「ほんとうに、心の中では、わからないんだと思います」と見透かされたのではないだろうか。

 

 和子と比較して、渡辺京二には潔さと素直さがある。渡辺自身、その著作を読む限りでは鋭利にひねくれており、他者を論駁するのに嬉々として百万の言葉を費やすような人柄ではあるが、その内には他者への尊敬と配慮があり、だからこそ一本気に他者と関わる姿勢が見て取れる。渡辺は、石牟礼道子という異才の編集者としての役割を50年近くも果たし、さらに石牟礼がパーキンソン病を患った後も看護をして支えた人物でもある。

 

 そう思えば、「内発的発展論」が到達した個人への視点は、なるほど重要ではあるものの、それはまぁ、個々人が好き好きに行えば良いのではないか、という気がしてくる。何か目的をもって地域に関わるのも良いだろうし、そこで望むべく自己を形成するのも立派なことだろう。けれども、その場所で親しくなった人たちと共に毎日を朗らかに暮らせればそれで良いのではないか、とも感じる。私にとっては、その「義理と人情」に該当し、関わりをもったのが集落誌調査や民俗誌である。そしてそれらを「逝きし世の面影」として記録に残す。だがこの記録は「経験の結晶」であり、記録者によっていかようにも描かれる危険をもち、さらに後世へと悪影響を及ぼす可能性もある。だからこそ、記録という行為において人々の経験を書くためには、「自己の威信を賭けて全力を発揮しなければならない」のである。朗らかに、誠実でありたい。

 

 

[1] 赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』藤原書店, 2015年, 20-21頁

[2] 吉見俊哉アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』弘文堂, 2012年, 23頁

[3] 同上, 38頁

[4] 和田悠「1950年代における鶴見和子の生活記録論」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』(56), 2003年, 79頁

[5] 同上, 82頁

[6] 鶴見和子内発的発展の理論をめぐって」『社会・経済システム』10(0), 1991年, 9頁

[7] 蜂屋大八「鶴見和子内発的発展論における地域づくり主体形成の検討」『茗渓社会教育研究』 (8), 2017年, 23頁

[8] 前掲, 吉見俊哉アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』, 167頁

[9] 前掲, 蜂屋大八「鶴見和子内発的発展論における地域づくり主体形成の検討」, 24頁

[10] 前掲, 赤坂憲雄, 鶴見和子『地域からつくる:内発的発展論と東北学』, 65-66頁

[11] 同上, 166頁

[12] 鶴見俊輔『限界芸術論』筑摩書房, 1999年, 21-22頁

[13]  2019年10月15日の聞き取り調査による

[14] 藤田省三『精神史的考察:いくつかの断面に即して』平凡社, 1982年, 286頁

[15] 同上, 228-229頁

[16] 渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』葦書房, 1998年, 7頁

[17] 渡辺京二『無名の人生』文芸春秋, 2014年, 33頁

[18] 渡辺京二『死民と日常:私の水俣闘争』弦書房, 2017年, 19頁